第六章

第六章 1

 揺れている。ほんの僅かに。人の声が遠くから、そして次第に近づいてくる。言葉が明瞭になってくる。

 だるい。重い瞼を押し上げた。組み合わされた、色褪せた木材。それは、見知った気がする天井の姿。

「起きたか、レナート。怪我はしてないみたいだったが、大丈夫か?」

 間近で聞こえた声の方へと目を向ける。そこにいたのは、……巻いた茶髪、オリーブ色の目をした男――。

「水、飲むか?」

 近づけられる、焼けただれて、消えていったはずの顔。

「――う……、ああッ! 嫌だ、寄るな!」

「ど、どうした……」

「あ……、兄貴……」

 緑の目が大きく開く。蒼白になっていく、覚えているよりもいくらか華奢な顔。……あれ、違う……こいつは……。

「……あ」

 部屋から駆け出ていったのは……。ここは? 船だ。俺は助かったのか? 今は……、俺は夢を見ていたのか? じゃあ、さっきのは――。

「レナート」

 黒い髭を蓄えた男は、記憶の中にある姿よりも随分と老けていた。

 ……そうか。あれから十年経ったんだっけ。

「……親父……?」

「ああ、そうだ」

「……俺、さっき……、ディランのこと、間違えて……」

「分かってる。しゃあないさ、なんとなく似てるもんな」

「あいつに、大丈夫だって……」

「ちゃんと伝えておく」

 十年。俺は、その間どうしてた? 眠っていたのか? いや、覚えてる。けど、なんだか現実感がない。全部、何もかも、これまでの全てが夢だったみたいだ。今もまだ。

「なあ、あの後……、あいつはどうなった?」

「あいつ? 誰のことだ」

「兄、……エロイ」

 自分でも、あいつをなんて呼べばいいのか分からない。どう呼ぼうとしても、収まりが悪い気がして。

「お前を見つけたときには死んでた。正直、あいつかどうかの判断はその場でつけられなかった。その後のお前の様子で、やっぱりエロイだったのかって分かったがな」

 やっぱ、死んだのか。結局、助け出されたときのことは覚えてない。意識がなかったんだ。島に戻った辺りから思い出せる。男が怖くて、大騒ぎしたもんだ。病院に突っ込まれて、体の治療を受けて――。でも精神がどうかしちまったから、そのまま丸一年病室からほとんど出られなかった。悪夢ばっかり見てて、もう終わったはずの出来事を夢の世界で繰り返し見ては、それがまた現実に起こったんじゃないかって、毎日錯乱していた。そして夢だったと気づけば、今度は絶望して打ちひしがれて、泣いたり怒ったり。

 俺は何に怒っていたんだろう。兄貴か、俺自身か、その両方か。いや、きっとこの世の全てだった。

「遺体はあの場所に置いてきた。図体がでかくて引き上げられなかったからな。それに、あいつだっていう確信もなかった。皆、生きてるって希望を持ちたかったんだ。お前を襲ったのはあいつじゃないってことも、信じたかった。俺もそうだった。だが、……特にディランはな」

「『海賊に襲われた』って周りに説明したのは、なんでだ。実際のところ、腹なんか切られちゃいなかったんだ。そりゃあ、痕なんか残ってるはずねえよな」

「お前が負った怪我があれだろう。正直に周りに話したら、お前の居心地が良くなくなると思ってな」

「はは、それは確かに」

 俺は笑ってしまった。なにも面白いことなんかねえのに。

 親父が俺を気づかって周りについた嘘を、俺は本当だと思い込んだわけだ。どうしてそんなに徹底して思い込めたんだか。あいつがいる本当の記憶を消し去って、嘘の情報から都合のいい記憶をつくりだした。まったく、呆れるほど器用な頭してやがる。

 それで、今の俺はなんだ? 嘘の記憶で生きてきた俺は、それ以前の俺と同じ人間か? ……なんて、馬鹿らしい。が、……実際、胸を張って『そう』と言えるだろうか。自分に問えば、肯定と否定が同じ具合で返ってくる。

 俺は誰だ? レナートか。少なくとも、外身はそうだ。中は? 俺は今も昔も『レナート』かもしれない。だが、一貫したそいつではない。……ああ、なんで俺は、自分のことを『そいつ』なんて、他人みたいに言うんだか。

「もう少しでウェリアに着く。休んでな」

 親父は部屋から出ていった。一人になっちまった。考え事をするにはうってつけってやつだ。今はあまり、そういうことにかまけたい気分じゃねえのに。

 むしろ誰かそばにいて、ベラベラ喋っててくれりゃあいいのにな。……独りは嫌だ。


 久しぶりのウェリア。なんて、たかが一ヶ月程度離れていただけのはずなのに、『十年ぶりだな』なんて片隅で思っちまった。この島の様子が変わっていくのを、俺はずっと見ていた。覚えてる。なのに、その実感がほとんどない。夢で見て知っている光景、って具合に近い。

 アンドレーアが興味深げに島を眺めてる。結局、船の中であいつとは禄に話しやしなかった。あいつのこれまでの人生ってのは、どんなものだったんだろう。俺は自分の記憶を思い出してから、片割れのことが気になり始めていた。

 港で俺たちを出迎えたのは、背の高い女。マリアだって分かるのに、なんでだか、急に印象が変わったような気になっちまう。実際のところは、ひと月前となんら変わっちゃいないのに。分かってるんだ。分かってるのに、感覚が追いついてこない。

 マリアは先に降りたアンドレーアに声を掛けようとして、やめた。俺だと思ったんだろう。顔だけは似てるもんな。雰囲気が違うから、すぐ気づいたんだろうが。それでもって、どういうわけなのかを親父に問い詰めている。事の経緯を説明されて、えらく驚いているんだろうなって感じだ。俺はその様子を、甲板の手すりから見下ろしていた。そうしたら、マリアと目が合った。俺はなんとなく、手を振ってみた。マリアは笑ったけど、たぶん、俺の様子が変だったんだろう。また荷降ろしに行き来する親父を引き止めて、話し掛けてる。親父は一言で伝えたようだった。きっと、『昔のことを思い出した』って具合に。マリアはしばらく固まって、それからぎこちなくまた俺の方を見上げてきた。俺はさっきと同じように、特に意味なんてなく手を振って、船を降りた。

「よお、久しぶり」

 なんて、自然と自分の口から出た言葉に、自分で驚いちまった。なにが『久しぶり』だよ。たかが一ヶ月ぶりじゃねえか。

「あ……、えっと、おかえりなさい」

 ほら、困ってるじゃねえか。しかしまあ、随分と落ち着いたもんだ。昔は顔の原型が分からないくらい厚化粧だったってのに。歩き方やら仕草やら、話し方やら……。

「綺麗になったじゃん。昔はそういうもんだと思ってたけど、その方が自然だよな。今思うと、あの頃は無理してたんだなって感じがする」

「……そう、おかげさまでね。ありがとう」

 ほら、もう困らせるだけなんだから、黙ってろよ。俺の思いを無視して口から言葉が出ていく。それにまた、俺はいちいち突っ込んで、独りで馬鹿みてえだ。まるで、誰かに体を乗っ取られたような感じ。でも、言ってることは俺の意見に反してるわけじゃない。ただ、どうしてそれを言っちまうのかが分からねえ。言わなくていいのに。黙ってりゃおかしなことにはならねえのに。口をついて出る言葉は、いかにも俺が十年間どっかをほっつき歩いてたような具合で、俺が築いてきた十年間をどこかにやられちまったみたいだ。なのに、なんだかそれが自然なことのような気がして――。ああ、全く、俺は自分が分からねえ。

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