第33話

 もう自宅に戻る暇なんてない。地味な黒スーツと振り乱した髪、崩れたメイクで出席すると思うと泣きたくなるけれど、出席できないよりはいい。

 わたしはひとの波をかき分けて走った。

 大事なひとの、大事に思うひとを祝いたい。頭にあるのはそれだけ。

 ところが、ここでもわたしの体質はこれでもかとわたしを邪魔してくる気らしい。わたしはビッグサイトを出てさっそく、不運に捕まった。


「――なんで!?」


 ビッグサイトのエントランス前の広場に、着ぐるみが転がっている。

 あっちへごろごろ。こっちへごろごろ。

 あれは鳥? わかった、これは新交通のキャラクターだ。お台場と都心をつなぐ、いまからわたしも乗ろうとしているあの交通機関のキャラ。それが、羽根と思われる部分でお腹を抱えながら、ごろごろ、ごろん。ねえ、なにしてるの……。

 行き交う人々も目を留めるが、それが着ぐるみの演出と思っているのか、そちらを見やったあとは皆またそれぞれに目的地へと歩き去っていく。たまに子どもが転がった着ぐるみのお腹を蹴ってけらけらと笑う。

 申し訳ないけれど、いまは時間がない。転がる着ぐるみには目もくれず、わたしは駅へと通路をひた走った――はずなのに。


「うっ」


 拘束で転がってきた着ぐるみの羽根……いや、手が、わたしの足に巻きついた。

 足を引き抜こうとしても、くりくりとした目が、なにかを訴えかけてくる。足に巻きついた腕がゾンビのように這いあがってくる。


「助けて……死ぬ……」


 不運はかもめの着ぐるみの格好をして、尻餅をついたわたしの上にのしかかった。




 赤色灯が辺りを威嚇いかくするように照らし、サイレン音が遠ざかっていく。


「ありがとうございました……!」


 着ぐるみの中のひとが救急搬送されるのを見送ると、イベントスタッフらしいひとに頭を下げられた。緊張感からやっと解放された。

 わたしは大きく息を吐いて膝に手をついた。


「彼の身内には連絡しましたので、あとは心配ないと思います」


 かもめ柄のTシャツを着た女性スタッフが、重ねて頭を下げる。


「なんとかなってよかったです」


 スタッフが駆けつけなかったら、わたしも救急車に乗りこまなければならないところだった。死ぬ、なんて言われたら、鼓動は乱れ打つし指先も震えた。救急車が来るまで生きた心地がしなかった。

 ちなみに着ぐるみの中のひとは、急な腹痛に見舞われたらしい。駆けつけた救急隊員によれば急性虫垂炎ではないか、とのこと。いわゆる盲腸だ。あとは彼の回復を祈ろう。

 事務所に戻るというスタッフとともに、駅まで行く。そのまま改札を抜けようとしたら、スタッフが「ちょっと待っててください!」とわたしの返事も聞かずに走っていってしまった。

 もう電車に乗らせて……。

 しかたなく改札前で待っていると、鳥がよたよたと近づいてきた。違った、よく見ると巨大なかもめのぬいぐるみを抱えたスタッフだった。


「これ、もらってください。非売品なんです! かわいいでしょう!」


 わたしは、ぬいぐるみを両腕に抱えて改札を抜け、電車に乗りこんだ。これはたしかによたよたするよね、うん。前が見えない。困った。

 ともあれ、やっと電車に乗れてひと安心……と思ったのもつかのまだった。

 端の席に座ったわたしの目の前では、大学生らしいカップルが絶賛ケンカ中だった。


「この前もそうだったじゃん! パスタに粉チーズはかけないでって言ったのにかけた!」

「かけるのが普通だろ! あれはかけたほうが絶対旨いんだって」

「私は粉チが嫌いだって言ったよね? 話聞いてなかったの?」


 え、粉チーズかける派VSかけない派論争? そんなケンカ、電車の中でする? しないよね?


「――本日はご乗車ありがとうございます。この電車は豊洲とよす行きです」


 のんびりとした車内アナウンスをBGMに、カップルのケンカはヒートアップしていく。


「なんだよ、お前チーズ食べれるじゃんよ! 細けえな!」

「チーズと粉チは別ものなの! ほんっと、私の話聞いてないよね!」

「んなこと言ったらお前だってこの前――」


 男性が激昂げっこうして女性の胸元をつかむ。女性も男性の胸ぐらをつかみ返して揉み合う。うっそ、チーズ論争からつかみ合いのケンカって、アリなの?

 反対の端に座っていた小学生の女の子が泣きだす。うっせえ、と男性が怒鳴どなり、小学生の母親が言い返す。混沌こんとんとしてきた車内で、いつのまにか誰かが通報ボタンを押す。

 わたしはとっさに、かもめのぬいぐるみをふたりのあいだに投げつけた。

 女性を殴ろうとした男性の強烈なパンチをくらったぬいぐるみが、宙を舞う。飛びだした綿が散った。

 綿の吹雪のなか、車掌しゃしょうが駆けこんでくる。


「すんませんした!」


 車掌を前にして、カップルはやっと冷静を取り戻したようだ。男性が平謝りするあいだ、女性が無惨に散ったかもめの残骸ざんがいを拾う。


 ややあって、ようやく運転再開のアナウンスが流れた。


「ぬいぐるみ、直せますか? ごめんなさい……」


 殴ったくらいで綿が弾けたのもどうかと思うけど、女性が拾った中綿をぬいぐるみの背中の亀裂から押しこむのもシュールなところがある。

 いびつな形に膨らんだかもめを女性に渡され、わたしは反射的にそれらを女性に突き返した。要らないよ。


「ケンカをしそうになったときは、これを見て思いとどまってくださいね」


 ふたりとも、いっぺんにうなだれた。まったくもって迷惑だよ。こっちは、こんなことに付き合ってる場合じゃないのに。

 女性のほうがおずおずと、わたしを上目遣いに見あげた。


「ちなみにあなたは、ボンゴレパスタに粉チーズかけます?」

 その話題、もういいです!

 



 なんだかんだと、ケンカップルの仲裁をしたりぬいぐるみを押しつけたりしているうちに、電車(正確には電車ともモノレールとも微妙に異なる乗り物らしい)は、終点である豊洲駅をとっくに折り返していた。


「そんなことってある……!?」


 片道二十分もかからないのだから、当然なのかもしれない。気がつけば、わたしはほとんどスタート地点であるビッグサイト前に到着しつつある。

 落ち着け、わたし。まだリカバリー可能なはず。

 豊洲を起点とすれば、この路線はお台場だいばを通って、新橋しんばし駅を終着点とするもの。豊洲から乗り換えるつもりでいたけれど、新橋からでも会場のレストランに着くにはさして時間が変わらない。

 わたしはスマホを片手にいくつかのルートの所要時間をシミュレートする。結果、このまま新橋方面へ向かうのが乗り継ぎを考えても最善だという結論に達した。


【あと十分程度で新橋に着くよ】


 譲くんにメッセージを送り、ホーム画面に戻して肩を落とす。パーティーの開始時間を過ぎたところだった。譲くんは今ごろ、てんやわんやで返信どころではないだろうな。

 ジャケットについた綿埃わたぼこりを払い落としながら新橋で降り、乗り換えるよりも走ったほうが早い、と改札を出た。

 そのとたん、全身を真っ黒なマントで覆った女性に捕まった。


「あなたには邪霊がとりいています。私には邪霊が見えるんです。ほら、その胸元の白い塊……それが邪霊です。おはらいが必要ですよ。世界の平和とあなたのために私が祈りましょう。さあ、この魔除けの袋を持って」

「いえこれ、ただの綿ですから」


 邪霊? あえていうなら、かもめの臓物ですけど。


「取り憑かれて正常な判断ができなくなったのですね……一刻も早く祓わなければ死にますよ」

 女性は、首からカラフルな数珠めいたものを幾重にも下げている。目には歌舞伎の役者かと思うほどの隈取り。

 プン、と強い匂いのする香袋のようなものを握らされる。わたしはもう少しで悲鳴を上げそうになった。


「お祓いできるなら、あなたを祓いたいんですが……!」


 わたしは抱きついてきそうな女性にそれを押し返すと、「要りませんから!」と言い捨てて駆けだした。


「待って、あなた危険よ……! せめて邪霊を祓ってからお行きなさい」


 黒マントの女性が異常な速さで追ってきて、わたしは必死で逃げた。おかげで、ずいぶんな遠回りだ。しかもことごとく赤信号に引っかかる。

 こんなときに限って。

 まったく、わけがわからない!

 でも文句を言っても会場に着くわけじゃないので、ひたすら走る。日比谷ひびや公園に入ったときにはすでに息切れ寸前だった。喉もカラカラ。メイクも崩れたに違いない。

 とはいえここからがまだ遠い。ごく最近できたという会場レストランは、わたしが入った場所から見ていちばん奥、芝生広場のそばなのだ。

 ゴールデンウィークまっただ中、空を見あげて眩しさに目を細める。素直に宇宙まで繋がっているんだなと思えるほど高く、青い空だ。かれんさん、よかったね。

 全力疾走をしたジャケットの下の肌がうっすら汗ばんでいる。

 ゆったりと散歩を楽しむ人々を左に右にすり抜け、歩道をよたよたと走る。もう足が限界に近い。花壇かだんの花々に目を留める心の余裕なんてない。

 やっと大噴水が見えてきた。


「ウー……ワン! ワン! ワン!」

「なに!?」


 わたしはぎょっとして後ずさった。

 大型の……ふさふさとした白黒の毛、垂れた耳、スマートなお顔。ボーダーコリーにすぐそばで吠え立てられ、わたしはさらに後ずさる。


「え、え、ちょっとなんなの!?」


 ボーダーコリーは飼い主のリードを振り切り、わたしのほうへ突進してくるではないか。

 もう逃げるしかない。やだ、目が怖い。

 とてもではないが、わたしが気に入られたわけではないのは明らかだ。

 ぜんぜん友好的な雰囲気がしない。わたし、動物に嫌われるタイプじゃないはずなのに! たぶん。


「やめて……!」


 わたしはタイトスカートの裾が裂ける勢いで逃げる。せっかく公園まで入ったのに、いつのまにか入口付近の花屋まで後戻りするはめにおちいっていた。

 それからのことはさらに思い出したくもない。

 ボーダーコリーって、牧羊犬なのだ。つまり、賢いし走るのが異常に速い。わたしは花屋の前で追いつめられ、店内に駆けこんだ。

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