第30話

「……え? 動作確認できなくなったって……うそ、菅谷さん、ちょっと待ってください」


 心臓がぎゅっと縮む。かと思うと、ドッ、ドッ、と嫌な音を立てて全身に沸騰寸前の血を送り始めた。血の気が引いていく。

 電話は、最終セットアップ予定のSEが別件の不具合対応に急きょかり出されることになり、今日中にビッグサイトへ来られないという内容だった。


「こっちも明日には初日ですよ……!? しかも、初日いちばんのお客様が、その新機種の見込み客なんですよ……!」


 期待の新機種は最高の印刷品質とスピード、そして細やかな色出しが売りだ。精密機器のかたまりといっても過言じゃない。そのため、家庭用のプリンターをセットアップするのとはわけが違う。もちろんユーザビリティと呼ばれる、いわゆる「使いやすさ」には考慮されているとはいえ。

 しかも明日いちばんで来場予定なのは、大河さんのお客様――わたしが何度も接待に連行された上得意の印刷会社の購買部長、時任様だ。

 明日、デモを要望されるのは間違いない。しかもその要望も一般のお客様とはレベルの違う精密さを要求されることは容易に予想できる。

 失敗できないお客様だ。いくらセクハラされそうになっても……である。


「不具合対応のあとこちらに来ていただくことはできないんですか?」

「それが……想定外のバグで、こっちも今夜いっぱいかかりそうなんです」


 返ってきた応えに、わたしはいよいよ真っ青になった。こんなときに限って……! 

 焦りが胸を突き破りそうに膨らんで、解決策が思い浮かばない。

 今ここにいるのは企画部の人間だけで、技術者はひとりもいない。だめだ、どうしたって明日朝に間に合わない。

 売って売って売りまくる、なんて威勢よく宣言したくせに、また不運に邪魔されてしまうの?

 耳に当てたままろくに返事もできずにいた電話が取りあげられたのは、そのときだった。


 わたしの首を絞めないためにか、譲くんが頭を屈めて耳に電話を当てた。


「――お電話代わりました。エンジ本部設計第一部電源設計グループの苑田です。お疲れ様です。話を聞きました。テスト、俺がやります」


弾かれたように譲くんの顔を見あげる。譲くんはわたしをちらっと見ただけでまた冷静な顔に戻った。


「ソフトは詳しくありませんが、この機種のDR(デザインレビュー)は出ましたから仕様はあらかた頭に入ってます。手順の指示ください。いったん切ります、俺の電話のほうにかけ直してもらえますか。番号は――」


 淡々と番号を告げ、譲くんが電話を終える。そこにはいつもの気怠そうな雰囲気も、意地悪めいた表情もなかった。


「苑田さん!?」


 譲くんが、すたすたと新製品の操作画面の前に陣取る。ジャケットを脱いで椅子の背にかけた。


「もっかい社用スマホ貸して。仁さんにも応援頼むから」

「えっ、あ……! うん」


 わたしは慌てて首から紐を外し、スマホを譲くんに渡す。


「心配すんなって。仁さんも女神様の頼みなら喜んでやるし、誰かしらSEのアテもあるはずだから。俺では全部のテストはできないだろうから、保険かけとく」


 譲くんがさっそく操作画面を立ち上げながら、電話をかける。


「仁さん? すんません、お休みの日に。展示会の件でちょっと不測の事態が起きました。力、貸してください。たのんます。――え? そうっすよ。あーわかりました。伝えておきます」


 譲くんは電話を切ると、わたしに返しながら心持ち呆れた様子で言った。


「代わりの人間が見つかり次第、連絡するって」

「よかった! ありがとうございます……! 松村さん、好きです!」

「仁さん、二女のパパだから」

 冷静な突っ込みをお入れになった譲くんが、社用スマホをわたしに戻す。

「代わりに、幸運の女神をまたつくばに連れてこい、って」

「行きますいきます! 松村さんの頼みならいくらでも!」


 食い気味に言うと、譲くんが呆れまじりに笑った。

 こんなときだというのに、不覚にも心臓が跳ねる。笑った顔、いいなあ。


「とにかくこれで、テストはなんとかなるはずだから。直央……女神さんは女神さんの準備に集中して」


 わかった、と返事をしたときにはすでに譲くんのスマホに電話がかかってきていて、譲くんが通話しながら手振りでいけよと示す。

 わたしは頭を下げてほかの設営と会場側との調整に戻った。

 胸がぎゅっとして、喉元までこみ上げた衝動めいた感情に飲みこまれそうになる。

 手でぐいっと目元を拭えば、アイラインが手の甲についた。だけど、わたしはもううつむきはしなかった。

 きっとなんとかなる。なんとかするんだ。

 



 展示棟を出てエントランスホールに設置された自販機の前に立つと、ガラス窓の向こうにぽっかりとした春の月が見えた。肩をぐるぐる回してほぐしてから、飲み物を買う。がしゃん、という缶の落ちる音が静かなホールに響く。

 ホールを埋めるほどだった企業の関係者は、いずれもとっくに帰ってしまっていた。

 あとに残るのは、わたしたちのほかにはちらほら、という程度。

 わたしは展示ホールに戻ると、専用パソコンの前で動作確認を続ける譲くんの肩を叩いた。


「譲くんのほう、もう終電じゃない? 明日は大事な日だし、適当なところで帰って」

「そっちは?」

「松村さんが手配してくれたSEさんに挨拶して、譲くんがやってくれたところから引き継いでもらうよ。それが終わったらわたしも帰る」


 譲くんがヘルプを求めた松村さんは、あれからすぐに社内のアテに当たってくれた。それでなんとか、代わりのSEさんが来てくれることになったのだ。

 ほんとうは最後まで立ち会うつもりでいた。けれど、譲くんの前で言うのはやめておく。譲くんまで残ると言いだしたら大変だ。

 譲くんが腕時計を確認し、操作画面の前で伸びをして立ちあがった。


「今日はほんとうに助かった。帰ってきたばかりなのに、巻きこんじゃってごめんね。でも、ありがとう」

「巻きこまれんのは慣れてるし。特に直央関係は」

「そんなに多かった!?」


 心外なと思ったけれど、否定もできない。わたしは自販機で買ってきたコーヒーと乳酸菌飲料を差しだす。譲くんは少し笑い、コーヒーに手を伸ばした。


「けど、今回は巻きこまれたんじゃなくて、俺が自分から首を突っこんだだけ」

「……ありがとう。譲くんのおかげでめげずに頑張れた」


 プルトップを引く軽快な音が立つ。わたしも乳酸菌飲料の瓶の蓋を開けた。


「じゃ、また明日。……いろいろ、負けんな」


 先に飲み終えた譲くんが、わたしの乳酸菌飲料の瓶に自身の空き缶を軽く当てた。チン、とくぐもった音がする。

 だけどそこから、めちゃくちゃ強い力が流れこんできたような錯覚がした。

 天の神様にももの申せそうな、そんな力。


「うん、頑張るよ。譲くんも、今日は寝過ごさないようにね」


 いまならなんにでも勝てそうな気持ちで、わたしは瓶に三分の一ほどになった残りをぐいっと飲み干した。

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