第21話

 翌日、夕方四時からのミーティングのために、資料を持ってミーティングルームに行くと、なぜか譲くんがいた。


「え、なんでこんなところに? 今日、出発じゃないの?」


 たしか今日から二十九日まで苑田家の家族旅行(挙式を含む)じゃなかったっけ?


「メッセージ送ったんだけど」


 あいにく私用のスマホは机の上に置いてきてしまった。わたしが首を捻ると、譲くんがスーツのポケットからスマホを取りだし、わたしにSNSアプリのトーク画面を見せた。幹事用のグループチャットではなく、わたしとのトーク画面だ。


「未読だな」

【十九時発の便で行くわ。その前に本社寄る】

 なるほど。

「で、立ち寄ったと」

「そ。ちょうど本社のひとと打ち合わせもあったし」

 おお、スーツ姿の譲くんは久しぶりだ。出会った日以来かも?

「それでミーティングルームなんだ」


 譲くんの背後を覗きこめば、大きな黒のキャリーケースが鎮座ちんざしている。打ち合わせが終わってすぐに空港へ向かうのだと知れた。

 ……ん? ちょっと待った。譲くんのスラックスのポケット。


「譲くん、ポケットからくしゃくしゃのハンカチが覗いております」

「っと。畳んだつもりだったわ」


 譲くんがハンカチを取りだして顔をしかめるのが可笑しい。決して悪い意味ではなくて。

 くすくす笑うと、譲くんがばつが悪そうにした。

 あれ、意外。これまで見た目に頓着してなさそうだったのに。わたしは笑いを引っこめる。


「気をつけていってらっしゃい。楽しんできてね! 思い切り日焼けするといいよ」

「向こういってるあいだ、手伝えなくて悪い。先週も打ち合わせ、出れなかったし」

「いいっていいって。できるほうがやればいいんだから。こっちのことは心配しなくていいから、全力でかれんさんをお祝いして。あとで写真見せてね」

 ん、と短くうなずいた譲くんがハンカチを広げる。

「で、今日直央んとこ寄ったのは……」


 広げたハンカチの真ん中に乗ったものを見つめて、わたしは「あっ」と声を上げた。

 わたしのピアスだ。ホワイトゴールドのフープピアス。


「このあいだ、俺んちにこれ忘れていったでしょ」

「そうだった。忘れていったのを忘れてた」

 シャワーを借りたときに外して、そのまま着けるのを忘れていたみたい。

「自分のことに無頓着過ぎない?」

「ま、まさか譲くんに言われるとは。でもありがとう、わざわざ持ってきてくれたんだ」


 あははー、と笑いながらピアスをつまみ上げる。譲くんがハンカチを畳んだ。


「大事なものなら早いとこ返したほうがいいと思ったんだけど」

「うん、よかった。無くしたんじゃなくて」


 手に乗ったピアスを指でそっと撫でる。譲くんが間を置いて口を開いた。


「……もらいもの?」

「だったらいいんだけどね。残念。これは社会人になって初のボーナスで買ったやつなんだ。これからも仕事を頑張っていけるように、シンプルなのがほしくて」

「……そか」


 譲くんが目を細める。なんだか、ほっとしてるように見えた。

 それもそうか。彼女持ちなら、別の女のピアスなんて早く手放したいもんね。もめ事の芽は速攻で刈り取るに限る。


「そうだ、譲くんにお礼をあげる。ちょっと待ってて。旅のお供に持っていって」

「なに?」

「いいからいいから。ちょっと待ってて、まだ時間あるよね?」


 わたしは怪訝な顔の譲くんを残してミーティングルームを出ると、小走りで自席に戻る。引き出しを開けてスマホと一緒に目当てのものを取りだすと、ふたたびミーティングルームに戻った。

 途中、視界の端を大河さんが横切ったけれど、もういちいち心が揺らいだりしない。強くなったなあ、わたし。わたしはは足を止めることなく、ミーティングルームに入った。


「はいこれ。日本食が恋しくなったときのために持っていくといいよ」

 わたしは乾燥させた梅干しの小袋を譲くんの手のひらにまとめて落とした。

「こんなもん常備してんの?」

「眠気覚ましにぴったりだからね」

「ばあちゃんみてえ……」

「ひとの厚意はありがたく受けとりなよ」


 ぷは、と譲くんが小さく笑う。実をいうと、わたしはけっこう、譲くんのその笑いかたを気に入っていたりする。断じて、口にはしないけれど。

 譲くんが小袋をスーツの内ポケットに入れ、キャリーケースを引き寄せた。


「サンキュ。じゃ、行ってくるわ。そっちはこれから打ち合わせ?」


 譲くんの「サンキュ」はいつも、心のやわらかい場所にすっと入ってくる気がする。いいな、と思う。


「そうそう。見送れないけど、ほんと気をつけてね。なににも巻きこまれないように祈っておくよ。いってらっしゃい」


 譲くんが「ん」とまた笑いをこらえるようにつぶやく。

 キャリーケースを滑らせて出ていく譲くんの背中に、わたしはもう一度笑って「いってらっしゃい」を繰り返した。





 展示会の会場側から配布された、機材の搬入に関する注意事項をまとめた資料をもとに前日準備の流れをすり合わせる。


「――今日の打ち合わせ、気合い入ってたね。なんかいいことあった?」

「藤堂さん、鋭い。でも普通ですよ普通。展示会間際なので、意気込みを新たにしたっていうだけですよ」


 最後に片付けを終えて藤堂さんととミーティングルームを出ると、扉のすぐそばに大河さんが立っていた。


「女神、借りていいっすか?」


 ドアの脇にもたれていた大河さんがゆらりとこっちへ近づいてくる。藤堂さんが一瞬わたしを見てから「どうぞ」と言うころには、視線はわたしだけに向けられていた。


「なんですか? 間瀬さん」


 問答無用で腕を引っ張られ、わたしは大河さんのあとを小走りについていく。行き先は営業部の机の並ぶ島かと思いきや、空きになっているミーティングルームに引っ張りこまれた。

 大河さんが後ろ手にばん、扉を乱暴に閉める。驚いて肩が跳ねたときには、扉横の壁に押しつけられていた。


「譲、ちゃんとお前の相手してんだ? 律儀な奴だよな、俺が譲ってやるっていったことを守ってんだからよお」

「なんですかいきなり……! 業務に関係ないことでしたら、失礼しますね。どいてください」


 大河さんがわたしの顔の脇に肘をつく。いわゆる壁ドンというやつ。びくっとしたけれど、当然ながらそのどこにも甘い雰囲気なんてない。

 引き継いだ案件に問題でもあったのかと緊張していたわたしは、拍子抜けして踵を返そうとした。

 直前、間瀬さんの手が伸びてきて手首をつかまれた。

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