2.小公女リゼットは、愛する本を盗まれる

 古書店、それは小公女リゼットにとって心のオアシスだった。



 埃っぽいにおいを胸いっぱいに吸い込むと、温かな幸福感が押し寄せてきた。リゼットは本棚の間を軽い足取りで歩いていく。さて、今日のお目当てはどこにあるでしょうか?


 本の日焼けを防ぐために窓を閉ざしているせいで、書架の周囲は薄暗くひんやりとしている。奥に行くにつれどんどんそれは顕著になるが、ちょっと不気味な雰囲気くらいではリゼットの足取りを阻めない。ステップを踏むように本棚の間を進み、ある場所でぴたりと足が止める。


「お、おぉ……これはまた素晴らしい装丁で」


 ぎっしりと書籍が並んでいる本棚の前に立つと、リゼットは迷うことなくとある背表紙に指を這わせる。うっとりとした表情でしばし感触を堪能したのち、勢いよくその本を引っ張り出した。


「いい、いいですね……山羊の革表紙でしょうか? 染色もしっかりしているし、なにより状態が良い、よい!」


 紫に染め上げられた革装丁を指でなぞり、ほう、と深いため息をつく。何気なく表紙のタイトルを眺めれば、『恐るべき魔性の女百選』と刻まれている。――どう考えても年頃の少女が好むような内容ではない。


「リゼットさん、満足のいく本は見つかったかな?」

「あ、オーレンさん! 見てくださいよ、これこれ!」


 横手から現れた銀髪の青年に、リゼットは満面の笑みを浮かべて本を掲げて見せた。


 鮮やかにして妖艶なる紫の装丁――。喜色をにじませて同意を求めれば、古書店店主でもある青年『オーレン』はにこやかにうなずき返してくれる。


「いいじゃないか。紫は高貴な雰囲気もあるし、『小公女』の君にはピッタリじゃないかな? まあ、欲を言えばもうちょっとまともな……いやいや、おとなしい題材の書籍だとなおいいけどね」

「そんなこと言っていたら、麗しい装丁本を逃してしまいますよ! オーレンさんだって好きな装丁とあんまりぴんとこない装丁だったら、好きな装丁を選びますよね? たとえ内容が『爆弾を湖に投げ込んだら、ソッシーが浮いてきました』みたいなのだとしても」

「なんだい、そのソッシーって。いやま、リゼットさんが納得しているなら僕は構わないんだけどね」


 だけどね。何か言いたげな雰囲気をにじませながらも、オーレンはそれ以上何も言わなかった。いつものことながら、いろいろ言いたくなるはずのリゼットの趣味に関しても、彼は一定の理解を示してくれている。


 それ自体が稀有なことの上、奇行にもいちいち嫌な顔をしない。寛大すぎるほど寛大な店主は、リゼットからすると見た目からして『良い人』だった。


 月の光を閉じ込めたようなまっすぐな銀髪に、色素の薄い同色の瞳。少し下がり気味の目じりが非常におっとりとした雰囲気を醸し出している。


 長身でありながらも、威圧感を感じないのはそのせいだろう。服装もかっちり過ぎず気崩し過ぎず。程よいバランスのシャツスタイルに落ち着いた色合いのベストを合わせた姿は清潔感もあり、非常に好感が持てる立ち姿だった。


「? リゼットさん、どうかしたのかい?」


 あまりにもまじまじと見ていたせいだろうか。穏やかな微笑みを向けられ、リゼットは反射的に首を振る。


「い、いえ、そのう。お、オーレンさんって素敵だなぁって」

「おや、ありがとう。そんな風に言ってくれるのはリゼットさんだけだね」


 茶目っ気を込めて返され、リゼットはさすがに恥ずかしくなって顔を伏せた。思った通りのことを言えば言うほど、どんどん追い詰められていくのはどういうことなのか。


「それはそうと、本日のお買い上げは一冊だけでいいのかい?」


 本題に引き戻され、リゼットは腕に抱えた装丁本を見下ろした。実を言えばもう一冊くらい欲しかったが、外出が長時間になると家族に良い顔はされない。


 名残惜しい。しかしこの苦しみもまた古書店を訪れるため。リゼットは深くうなずくと、オーレンに紫の装丁本を手渡した。


「えーと、今日はこれだけで大丈夫です! お会計、よろしくお願いします」

「畏まりました! じゃ、とりあえず表に戻ろうか」


 二人はうなずきあうと、書架の間を足早に抜ける。一見迷路のような店舗内だが、慣れた客と店主が迷うことはない。最短距離でカウンター前にたどり着くと、リゼットは手際よく支払いを済ませる。


「毎度ありがとうございます」

「こちらこそ良いものをありがとうございます! ……ああっ!」


 リゼットの中で、これまでぎりぎり耐えていたものが一気に噴出する。装丁本を手に取ると、穴が開くほどの熱視線を送る。


 表紙に使われる革の繊細な彩色にも、年月を経れば何とも言えない味わいが生まれる。見返しのマーブル紙や、小口装飾もいい味を出している。そして何よりリゼットが一番好きなのが、古い革と油の馴染んだにおい――。


「ああ……っ、やっぱり、すばらしいです!」


 すりすりすりすりすり。


 リゼットは革表紙に頬ずりする。麗しき装丁本。それが尊すぎて頬ずりを止められない。


「本当に好きなんだなぁ、小公女でなければただの変な子だが」


 オーレンがしみじみと呟きを漏らす。何気に本音がにじんでいたが、頬ずりを続けるリゼットには届かない。


 ――リゼット・フォン・ソレイユ。交易都市ソレル大公のひとり娘である彼女は、『小公女』と呼ばれ人々から親しまれている。


 ふわりとした金の髪に、大きな空色の瞳。活気にあふれた笑顔は皆の心を明るくし、事実、彼女の歩いた後には楽しげな笑い声が響いている。


 多くに人に愛される『小公女』。しかしそんなリゼットにも、たった一つだけ大きな問題があった。


「ふおおおっ! 装丁大好き麗しや! わたしの人生に一点の悔いなし!」


 装丁が好きすぎる変態。それが小公女リゼットのもう一つの顔だった。


 心躍る物語を好む人は多くとも、本の装丁のみに愛を傾けるものはリゼットくらいだ。愛があふれる奇行のせいで、周囲からは生暖かい視線を向けられるものの、装丁への想いは誰にも止められない。


「リゼットさん、そろそろ屋敷に帰らないとお父上が心配するのでは?」


 やんわりと奇行をたしなめられ、リゼットはやっと頬ずりを停止した。他人に変態と言われても気にも留めないが、やはりオーレンに苦笑いされるのは少しつらい。


「う、うう、口惜しいですが! それでは今回はこれにて失礼いたします!」

「はいはい、またいつでもいらっしゃい。……あ、そうだ」


 ぎくしゃくと立ち去ろうとするリゼットに、オーレンがそっと手を差し出す。首をかしげてみれば、彼の手の上には色とりどりの花弁で作られたしおりが置かれている。


「わ、きれい。このしおりは?」

「うちの庭でダリアが咲いたから、その花びらで押し花のしおりを作ったんだよ。お客さんには無料でプレゼントしてるんだ。よければ一枚どうぞ」

「もらっちゃっていいんですか? じゃ、じゃあ、ありがたく……!」


 ダリアのしおりを受け取ると、買ったばかりの装丁本に挟み込む。きれいな赤のベルベットリボンが少しだけ飛び出す姿がかわいらしい。予想外のプレゼントに胸躍らせながら、リゼットは古書店を後にする。


「今日はいい日ですねぇ」


 帰路につくため、リゼットは古書街の石畳の上を軽やかに歩いていく。今日は人の姿もまばらで、同じ方向に歩いていく人は誰もいなかった。それでも慣れた道のこと、心細いなどとは欠片も思わない。そもそも太陽はまだ高い位置にあるのだし、治安の良いソレルの古書街で、リゼットを襲う不届きものがいるとも思えない。


 街区の境目であるアーチをくぐりながら、リゼットは再び装丁本を取り出した。柔らかな午後の日差しに照らされ、紫の革表紙は少しだけ温かな色に変わる。


 何度見ても麗しい姿に、思わず感嘆のため気がもれた。指を這わせれば、冷たい革の感触が体の芯を震わせる。こんないいものが手に入るなんて、本当に最高に素晴らしい日だ。


「うーん、最高……!」


 本を両手で掲げたまま、その場でターンをする。楽しい気持ちのままに本を頭上に持ち上げた瞬間、さっと黒い影が通り過ぎていった。


「へ?」


 足を止め、動きを止める。嫌な予感に血の気が引く音がした。両腕を掲げたまま、視線を上に移す。――ない。ない! 本が!


「な、ななななな! どこ行ったのわたしの本!」


 本が勝手に消えるはずがない。異常事態だった、リゼットはあたふたと周囲を見渡す。まさか回転したら本が飛んで行ったとか? いやいやまさか、そんなことあり得ない。


 涙目になりながら膝をついた時だった。誰かが紫の装丁を抱え、音もなく傍らを通り過ぎて行った。あまりの何気なさに一度見送り、すぐにぎょっとして目を見張る。


「はへ?」


 呆然とするリゼトの視線の先で、三角の耳がぴょこりと揺れる。


「……にゃ?」


 視線が絡み合う。リゼットは口を半開きにしながら、『それ』を指さした。


「ね、ねこぉ?」


 リゼットの装丁本を抱えた何者か。

 それは二足歩行で燕尾服を着た、人間の子供くらいの大きさの『猫』だった。


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