第1部序章 ー 第1章 Side:Sugar - A

第1話 Sugar and Salt

 磯永コーポレーションは創業50年になる中堅企業である。

 全国9箇所に支社を持ち、本社に勤める従業員は2,000人、支社を含めると3,000人強規模の会社だ。

 本社は東京都港区に居を構えており、社屋は地上12階建て、10ある部署では数名の管理職が従業員をまとめている。


 佐藤甘冶さとうかんじ31歳は営業部で常にトップの成績を叩き出しながら新卒入社以来7年強勤務しており「磯永コーポレーションで営業といえば佐藤」と言われるほどの看板男だった。


 そんな看板男には、人知れず悩みがあった────



   ◇◇◇◇◆◇◇◇◇



 6月の初旬に梅雨入りした東京では、湿った空気が衣類に纏わり付き、スーツ姿で外回りをすると湿気と雨と梅雨冷えの気温の高低差に悩むようになる。

 ここ数日はバタバタ過ごしていたが、それも一段落したため、俺は今日、定時で上がる予定だった。


「お疲れ様でした~」

「お疲れ~」


 久しぶりに大学の同期に誘われて飲みに行く予定だった俺は課の出口のドアノブに手をかけ、退社挨拶をおざなりに残して出ていこうとすると


「あ、あのっ! さ、佐藤先輩! い、今からちょっとだけお時間、ありますか?」

「あー……」


 女性が声をかけてきたので、一緒にドアの外に出て立ち話の体勢を取った。

 確か、先月同じ課に転職してきたばかりの子だ。肩口で切りそろえられた可愛らしいボブヘアーに控えめなピアスとネイルのバランスがいい。だが……まだ外回りの仕事もないのに春らしいおしゃれなワンピースを着てくる第二新卒の20代の女性。

 頭の中でその女性の情報をさらった。


「えっと、溝口さん? だっけ?」

「は、はい!」

「お誘いありがと。でもごめん。今日は予定があって急いでるからさ」

「あ、あっ! っす、すみません! 急にお誘いしてしまって……!」

「いやいや。でも……」


 ぱっと彼女の姿を一瞥する。

 いつもより気合の入ったワンピース。ネイルが心なしか前に見た時よりキラめいていて、よく見ると昨日は目立たなかったピンク色のチークがほんのりと濃い。


「この課は当社一イケメンが集まるとこだからさ、これから営業から帰ってくる〈僕より若いイケメン〉を狙った方がいいと思うよ?」

「そ! そんなことっ!」

「じゃあね、また明日」

「……はい……」


 彼女みたいな女性の希望はどこか薄ら寒い。透けて見えるのがわからないのだろうか?


〝いや、まぁ童貞ならわかんねぇだろうな……〟


 我ながら邪推がすぎると思う。思うがしょうがない。

 イケメン度数を保ってはいるが、俺はもう三十路だ。いまだに割とモテるが、手当たり次第にどうこうするって年齢は過ぎたし、女性からの誘いも減った。

 童貞だった10代の頃、それもまだ自分が普通だと思ってた時期からするとスレっからしになっちまったなぁ、と思ってしまう。


 女性の女性らしさを武器にしたその手のお誘いに、ちょっとした計算高さが見えると一気に冷める。


 そんなふうに感じるようになったのは、きっと、あいつのせいだ。


 あいつ・汐見潮しおみうしおは、狡猾さと計算高さがなければ仕事が立ち行かない俺・佐藤甘冶さとうかんじとは違い、【計算高さ】とは無縁の世界の住人だった。



  ◇◇◇◇◇



 俺たち営業の人間は、担当している取引先がバタつくと巻き込まれる形で慌ただしくなることが多い。相手からの発注に応えてあれもこれもと取引先の仕事(雑用)をこなす(手伝う)のも営業の仕事の一部ではあるからだ。

 年度明け中旬からスタートした案件が、6月20日(月)になってようやく収束を迎え、本日23日をもって当社の手を離れた。


「しっかし、資料作成ばっかで2ヶ月とか、あり得ないって……」


 誰にも聞こえない音量で愚痴を漏らした俺は、昨日まで作成していたドキュメントデータの整理とバックアップを終えた。

 担当取引先の会社が始まって以来、初めての『官公庁からの直請け』だったため、急遽の発注が相次いだせいで、とにかく忙殺されていた。取引先の中の人間の方が最も大変だっただろうが、こう、なんだ? なんでお上ってこんなに書類を要求するんだ? 嫌がらせか? ってくらいの資料作成をお手伝い(代わりに作成)していた。


 だがそれも昨日までの話。

 とりあえずその雑用(派遣先の仕事みたいなもの)がようやく終わり、お役所様の指示待ちになったので今日からやっとゆっくりできるって算段だった。


 今日は定時で上がって、久しぶりの友人と飲んで帰るつもりだ。

 というか、3日前、まるで俺の仕事が一段落するタイミングを見計らったかのように連絡が来た時はびっくりした。


「はー……つっかれた……俺、ちょっと休憩な」

「あ、はい。先輩、自販機コーナー? ですか?」

「んー、そんなとこ」


 隣席の男の後輩に離席をこと付けて席を立って部屋を出る。

 うちの社屋は南に面したガラス張りの細長い建物で、所属課の部屋から出て歩いて2分くらいの左手に喫煙所がある。その区画をさらに2分くらい歩くと自販機の区画があるわけだが────


〝あいつ、最近喫煙所で見ないよな……〟


 喫煙所は中にいる人間が視認できるようガラスで仕切られた部屋になっていて、中央に強力な吸煙機が2機設置されている。

 俺はいつもさりげなさを装いながら、中に目当ての人物がいないか横目で確認しつつ喫煙所を通り過ぎるのが毎日の日課だった。


〝今日もいない、か……まぁ朝一番だしな……〟


 俺の部署とは違って、あいつの部署はたしか10時出勤だ。

 今が10時ちょうどだから出勤したてってことになる。

 ちょっとガッカリしながら、


〝でも糖分補給は大事だし!〟


 気を取り直して自販機コーナーに向かった。

 すると──明らかに会社に泊まり込んだ痕跡を残す特徴的な寝癖が直らない、腰に近い位置にある尻肉がとびきりかわいい……お目当ての後ろ姿を見つけたんだ。



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