ブラック勤めの私。会社で眠ったら過去に戻っていた上、男になってしまいましたが強く生きていきます。

春野 安芸

01.やりなおします!


「ここは…………」


 ――――気づけば私は、真っ白な世界に一人立っていた。


 そこはどこまでも遠く続く白い世界。

 光もなく闇もなく、影もなければ地の果てに見えるはずの境界だってない。

 言うなれば"無"の空間と呼ぶべきだろうか。ただただ何もない世界が広がっていてそこにポツンと自分だけがここに在る・・


 もはや自分が立っているという感覚さえもあやふやで水中に浮かんでいるようにさえ思える。

 それでも立っていると表現できるのは、僅かながらに見える足元には手があり足があり、自然体でここに居るという視覚情報に基づくものだ。

 目で見てようやく立っていると判断できるほど希薄な意識。まるで白昼夢でも見ているような感覚の中、私はこれまで何をしていたかを思い出す。




 今日は確か………そう。大事な下期収支計画の会議があったんだ。

 勤続年数が長く人よりちょっとだけ真面目だからって担ぎ上げ押し付けられたリーダーという役職。

 退職代行の影響で引き継ぎもキチンとされず押し込められたポジションで四苦八苦しながらやっとこさこぎ着けた資料片手にプレゼンをしたんだった。


 けれど結果は惨敗。

 「見積もりが甘すぎる」「もっと収支を上げろ」「納期を減らして受注数を増やせ」などと心無い意見が私を襲った。

 まるで人の心など無いと思えるほどの言葉たち。ただでさえギリギリなスケジュールで回しているというのに破綻を越えて不可能を要求してくるお偉方の要求をなんとかいなすことに終止した会議だった。

 そうしてようやく終了した会議で私に突きつけられたのは、『明日までに作り直せ』というありがたいお言葉。

 この時点で時刻は22時。必死でイチから作り直してやっと出来上がった頃にはフロアに誰もおらず、終電の時間すら過ぎ去っていた。

 その後仕方ないと持参した毛布を肩に掛け机にうつ伏せになったところ―――――。そこまでは覚えている。




 けれどそこから先の記憶がない。

 翌日の仕事はどうなったのだろうか。途中で起きてシャワー浴びに家へ帰ったのだろうか。朝から食べていなかった食事を摂りに外へ出たのだろうか。

 いくら考えてもその後の出来事が頭に浮かぶことはない。もしかしたら寝たままお陀仏になった可能性だってある。


 しかし、たとえお陀仏でも仕方ないという感想しか生まれてこなかった。

 ここ10日は家で寝ることすら出来ていなかったし食事もブロックタイプのものばかり。そして夜はベッドもない中机に突っ伏して寝ていたのだからどこかでガタが来ることもわかっていた。

 摩耗した精神、何を言われても響かなくなった心。疲れ切っていた私には逆にようやく開放されたという心しか生まれてこなかった。



 そう考えるとここは死後の世界というものなのだろうか。

 花畑や隆起した岩、おしゃくを手にした鬼などこれまで想像していた景色は何もなく、本当に死後かどうかも怪しくなってくる。

 試しに歩いてみようかと身体を動かすと、朧気な意識ながら確かに動いてくれるみたいだ。明晰夢のように感覚のない歩き方。けれど行けども行けどもその白さに果てはなく、すぐにスタート地点すら見失ってしまった。


 ……そういえばどこかの本で、死んだ後は輪廻転生するために今生を振り返るというのを見た覚えがある。

 この時自分はどう思ったのか、それを改めて俯瞰して見つめ直すことにより未練をすっぱり断ち切り次の人生への足がかりへとするとかなんとか。

 まだ23年しか生きて来なかった私の人生、振り返れると言うほど多くのことは成して来なかったが、ふと回顧の念に誘われるとポンと目の前に当時の情景が映像として映し出される。


「ホントに出た……」


 画面も何もない、宙に浮かぶ映像。

 まさにファンタジーそのものの代物だったが、ここまで出てくると現実での常識は通用しないのだと、そしてここは現実ではないのだと強く実感する。

 回顧して出てくるということはどうやら本当にこの何もない空間は自分の過去を振り返る為にあるようだと感じ取った。


 ……けれど、私には振り返るものが何もない。

 女として生まれて23年、彼氏というものは出来たことがなく、学校でも浮いた話は一切ない。

 むしろ友達はおらず教科書に落書きなどをされて耐える日々だったことしか無い。


 そう考えると当時の情景が映像となって浮かんできた。

 鮮明に映像で映し出される当時の光景。まさに悲惨の一言に尽きるその映像に私はたまらず目を逸らした。


 見たところで今の私には何の心も動かされない。けれど進んで見たいものではない。

 見たい過去というならば…………そう、もっともっと昔のこと。


 当時の記憶から逃げ出すように頭の中で時間を巻き戻すと、目の前の画面もそれに呼応するように画面が切り替わった。

 まるでコマ送りのように遡っていくその映像。高校時代を越え、中学、小学をも過ぎて幼稚園。

 この時の私は何の悩みも無かった。ただ目の前のことを目一杯楽しんで生きていた時代のお母さん、お父さんに目一杯甘えてただ今日という日を謳歌する。


 あぁ、この時に戻れたらどれだけ幸せだろうか。

 そう思いながら縋るように画面へ手を伸ばすと、ツプ……と水面に指を触れさせたような波紋が広がって画面が揺れ動き、私はすかさず手を引っ込める。


「えっ……!?」


 それは無から生み出された映像という有に初めて触れた感触だった。

 慌てて触れていた手を確認するもなんの変わりがない。

 画面の方に目を向けても今は波紋も収まっていて、変わらない幼稚園時代の映像が映し出されていた。


「なんなのこれは……」


 もう一度恐る恐る指先でつつけば揺れ動く過去の画面。

 水面のように入る指からその中に飛び込めるようでもあった。それはまるでスタートもゴールもないこの世界唯一の脱出口のよう。

 しかしこのままでは入ることは叶わない。だって画面といえども大きさはタブレットくらいだ。

 タブレットに身体が入ることなど当然叶わない。


「でも……私の考えに反応してくれたんだからもしかしたら………」


 もしかしたら、遡る記憶に反応したこの画面。もしサイズも操れるなら、大きくなれば入れるかもしれない。

 そうありもしないことを考えながらグッと目を瞑り、仕事で見た覚えのある大きなテレビ画面を想像すると、目を開ければ要望を叶えてくれたように大きな大きな、100インチサイズまで引き伸ばされた画面がそこに鎮座していた。


「あはは……ホントにできちゃった……」


 それは正しく飛び込めるくらいの大きな画面。

 もう一度指を触れさせて見るとさっきと同じく波紋が起きることも確認できた。


「でも本当に……飛び込むの?」


 私は飛び込む前にもう一度考える。

 まさかできるとは思わなかった。でもこれ以外に道はない。


 画面には変わらず昔の光景が映し出されている。

 これまで何度か過去以外の情景を頭に浮かべてみたが画面が反応することなかった。

 もしこれに飛び込んだらどこへ繋がるというのだろう。今は死の淵に立っていて本当に死んでしまうのかもしれない。

 けれど真っ白な無の空間、これ以外にできることは何ひとつとしてない。今見てるのはただの夢で目覚めるだけかもしれない。


 何が何だかわからない状態。けれど画面以外に示される道は何一つとしてなかった。

 ならせめて、昔の楽しかった過去に心委ねながら穏やかに成仏するのもいいだろう。

 そう考えながら画面に手を押し当てると、薄い膜を破るような感覚の後に手首までするりと入っていった。


「っ………! いくしか……ないか……!」


 後ろを振り返っても画面の向こう側を見ても見えるものなど変わらない白。

 ここに入ったらどうなるかわからない。けれどもし死んでいるとなれば、これ以上酷いことが起こるとも思えない。

 私は意を決して半ば勢いに任せながら地を蹴って画面に飛び込んでいく。


「いった……! って、また白い空間?」


 勇気を振り絞って飛び込んだ画面の世界。

 けれどその先はまたも真っ白な空間だった。


 さっきと何一つ変わらない果てしない無。

 しかし今度は振り返ってみると、さっきまで見ていた画面がまるで鏡写しのように反転しながら動いているのが見て取れた。


 それはまさに障子を破った先にはただ今と連続した世界が広がっているような感覚。

 何もない空間から何もない空間。それならばさっきの場所へ戻ろうと飛び込んだ画面に引き返そうとしたところで、私の視界は大きく揺れ動いた。


「えっ……!?なにこれ……!?」


 大きく揺れ動く世界、それは足が何かに取られているのだと即座に理解し下見ると、白に飲み込まれている足が目に入った。

 なんだか沼に嵌ってしまったかのよう。必死に引き抜こうとするも出ることはなく、逆にドンドン下へと飲み込まれていく。


「嘘!?どうして!?」


 さっきまで硬い地面だったのにどうして……!?

 そう考えながらもがき沈み、腰辺りまで達したところで正面の画面を見ると、映し出されていた絵は既になく、大きな白いフレームだけが移っている。


 しかし画面の端に何かの影が揺れ動いた気がした。

 反射的に目を向けると"ソレ"は中央までゆっくりと動き、こちらを向くように身体を回転させる


「なんで……私……?」


 "ソレ"は、紛れもない私だった。

 よれたスーツ姿、髪の手入れも怠り目の下には濃い隈が目立つ今の私。

 それでも普段の猫背姿はもうなく、しっかり背筋を伸ばした"私"は私を見ると楽しそうに手を振ってみせる。


「行ってらっしゃい。楽しんで」

「なんで……!?あなたは――――わぷっ!」


 そこで私の疑問の声は強制的に閉じられた。

 突然現れる第三者。"私"の姿に気を取られている間にも、どんどん白い沼は私を飲み込んでいった。

 腰から胸へ、胸から首へ。次第には口まで達した私は言葉さえも発せなくなってしまう。


 このまま飲み込まれて窒息してしまうのだろうか。

 でも死んでる?身に窒息なんて意味あるのだろうか。

 そんなことを考えながら視界は光に覆われ、私の全てが沼へと飲み込まれていく。


 ―――と、直後に襲われる睡魔。

 もはや何の抵抗も出来なかった私は、睡魔に誘われるがままに目を閉じ意識を失ってしまった。



 ―――――――――――――――――

 ―――――――――――

 ―――――――



「ほら、起きなさ~い!」

「むぅ……もうちょっとぉ………」


 なにやら大きな声が私に投げかけられ私はそれに抵抗する。

 起きる?何を?こんな心地の良いのに、なんでそれを手放さなきゃならないの?


「そんな事言ってたら遅刻するわよ! ほら、早く起きてトイレと顔洗ってらっしゃい!!」

「うぅ……わかりましたぁ……」


 身体をダンゴムシのように丸めて抵抗の意思を示すも虚しく、私の身体は軽々と抱えられて強制的に立ち上がらされた。

 このまま力を抜くと身体が倒れてどこかを頭にぶつけるかもしれない。そうほとんど反射で考えながら2本の足で立った私は眠い目を擦りながらトイレへと向かっていく。



 あぁ……もう朝が来てしまったのか。

 下期収支計画は作った。今日という再びの会議の日が来てしまった。

 しかし随分と母親みたいなことを言う人だったな。あんな人ウチの会社にいたっけ?

 いろいろな違和感に襲われるも眠気には勝てず、それら全てを放り投げて私はトイレへと向かっていく。


 あれ、トイレってこんな道だったっけ。

 なんだか随分と視線が低い上に構造も違う気がする。私どこで寝てたんだっけ。

 フラフラと壁にぶつかりそうになりながらも、『見たことがないけど見たことがある』道を通ってトイレに行き、便座に座り込む。


 なんだか変な感覚がありながらも用を足し、手と顔を洗うために洗面所へ。……あれ?オフィスに洗面所なんてあったっけ?まぁいいや。

 洗面所にたどり着いた私は台に登り、まだヒンヤリと冷たい水で手を洗いながらボーっと顔を洗い、何気なく鏡を見る。


「…………あれ?」


 そこで私は数多くの違和感にようやく気づく。

 洗面所?ここはどこ?

 それにさっき登った台ってなに?

 更に用を足す時に覚えた違和感は?


 鏡を見ながら段々とクリアになる視界。

 ボケたピントを合わせるようにようやくしっかり前を見れるようになった鏡に移ったのは――――私の姿だった。


 しかしだたの私の姿ではない。いつか遠い過去に過ぎ去った私の幼児の頃の姿だった。


「えっ!?なに!? なんで!?」


 ありもしなかった私の姿の変化に驚きながらも前のめりになって自らの顔を見ると、過去との相違点にもようやく気づく。

 私の髪が少し短い。この時代の私はずっとロングでやっていたのにベリーショートくらいまで短くなっている。それに少し顔つきも違うような……?


「これ、私なの……? ―――あいたっ!」


 自らの顔を調べるのに鏡に近づき、下半身が洗面所下の棚の取っ手に当たった時、突然鈍い痛みに襲われた。

 それは何かが潰されるような感覚。お腹でもないもっと下の、内臓のようななにか…………


「なに………これ…………?」


 そこは腰よりもっと下、股に位置するもの。

 私は患部に何が起こったのか確かめるため、ズボンを大きく広げて上から覗き込む。


「えっ………なに……これ……!? ウソ!?なんでこんなのがある・・の!?」


 覗き込んだ私はあるはずもないものを見てしまった。

 それは女の私には100%あるはずもないもの。

 しかし人間にはある・・人もいる。現実で見たことはなかったが、確実に世界に存在する人の約半分は持っているもの。


「どうしたの?みお。またお水ビシャビシャにしちゃった?」


 私の声に反応を示したのか、寝ている私を呼びかけた声の主が洗面所に現れる。

 彼女はおよそ10年前から会うことが出来なかった人物。会いたくても会えない、遠くの世界に旅立ってしまった人。


「お母………さん」

「……まぁ!ママじゃなくてお母さんって呼ぶようになったのね! また1つ成長したわね~!」


 戸惑う私を意に介すことなく喜びながら頭をなでてくるのは、昔亡くなったはずのお母さんだった。


 ここでようやく理解する。


 そして私のこの容姿、見覚えのあるこの景色。

 私はあろうことか過去にタイムスリップし、その上男になってしまっていたのだと―――――

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