6

 不穏な空気だった。

 役場に着くなり、玄関で日名子さんと数名の男たちが厳めしく立ち塞がっていた。富田と斎藤はいなかったが、皆で腕を組んでこちらを睨みつけている。ススキノでチンピラが徒党を組んでいるようだ。先生が口を開くよりさきに非難の言葉が飛んできた。 

「堂島先生、あなたに血を採られた者が、具合が悪いと言っているわ。いったいどういうことなの。おかしな実験をされたって話も聞いたし」

「いきなり、なんのことだ」

 前にコッタが言っていた噂であるが、先生にとっては初耳となる。午前中はそんな素振りもなく上機嫌だったのに、百八十度の変わりようだ。

「みんなのジャンジャもひどくなっているわ。あなたたちがヘンなことをしているからでしょ。血をとった時に、ヘンな薬を混ぜたんだわ」」

「ちょっと待ってくれ。ここで採血したのはそんなに多くないぞ。診察もしたが、手持ちの薬を処方しただけで、おかしな実験などしていない」

「ジャンジャの幼虫は、今日みたいな嵐の日に活発になるんです。症状が出やすくなるからですよ」 

「幼虫って、なんの話よ」

「ジャンジャは、やっぱり寄生虫症だったんですよ。瑠々士別で採血した中にいました。見たことのない個体で、完全に新種です。我々は大発見したんですよ」

 重くてピリピリと帯電した空気を読まずに、横山さんの溌溂とした声が響く。

「そんなわけないじゃないの。ジャンジャはジャンジャよ。誰にもわからない謎の病気なんだ」

「いいえ、たしかに寄生虫です」

「だったら、証拠を見せなさい」

「顕微鏡が壊されたから、それは無理だ。カメラもやられたしな」

 保古丹島に顕微鏡があるのなら証明できると先生は訴えるが、そんなものはないと一蹴されてしまう。

「ほら見なさい。ジャンジャを発見したなんて、大ウソじゃないのさ。一回目から私たちをたぶらかしていたんだわ」

 さらに、私たちの大発見を虚偽だと決めつけた。

「本当だ。俺たちは見つけたんだ。いまここに採血したての標本がある。顕微鏡があれば、あんたの、その目で確かめられるんだ。ジャンジャの正体を見れるんだ」

先生の人差し指が日名子さんの目玉を指し示した。医者は必死の形相だが、村長は素知らぬ顔だ。

「もう、うんざりだわ。あなたは保古丹島の島民を苦しめた。血を盗っただけでなく、ヘンな薬の実験台にしたんだわ。贔屓の製薬会社からワイロをもらったんでしょ」

 ここで腕組していた奴らが汚い言葉で罵声を浴びせてきた。先生はひるまずに反論しているが、横山さんは気圧されて黙ってしまった。

「まだまだ採血しなければならないんだ。たのむ、協力してくれ。寄生虫の正体をつかんで生活史を解明できれば、予防の方法が確立できるんだ。苦しみから解放されて、穏やかな人生をおくれんだ。な、な、日名子、たのむよ」

 この状況で日名子さんに協力を求める先生は、神経が図太いを通りこしている。

「あ、あのですね、船さえ出してもらえば根室か釧路で顕微鏡を手に入れますので、それで、」

 ほんげっ、と呻いて助手がぶっ倒れた。横山さんの顔面に、腕組していた男の拳が炸裂したのだ。相当に剛拳だったようで、鼻を押さえている指の間から血が滴り落ちている。せっかく勇気を振り絞って口出ししたのに、手痛い藪蛇となってしまった。

「横山っ」先生が叫んだ。

 ここで私がなにか言うと、横山さんと同じ目になってしまうだろう。殴られた経験がある者ならわかるが、非力な人間が一発でも食らうと意気消沈どころではない。映画や漫画では反抗するが、現実世界での暴力は圧倒的な制圧力があって、たいていの場合、やられる方は無気力になる。

「てめえ、この野郎」

 でも先生は違った。戦争で死線をくぐり抜けただけあって、根性はいまだに帝国陸軍軍人であった。助手を殴った男の襟首をむんずとつかむと、足を払って突き飛ばした。相手は背中から床にドンと落ちて、「ぐおう」と苦しげに唸っている。いい音がしたので打撲がひどいことになっているかもしれない。

 別の男たちが一斉に掴みかかった。先生は一人を背負い投げしようとするが、一瞬のスキを突かれて数名に圧し掛かられてしまった。さらに奥からぞろぞろと加勢の男たちが現れて、手足胴体首を押さえられて身動きできないほどに拘束された。彼らの中に、十円玉ハゲでおなじみのスケベ中学生哲夫が交じっていたのはご愛敬だ。

「やめろ」と言ってはみたものの先生に加勢はしなかった。殴られるのが怖くて、突進できなかった。

「はなしてあげなさい」日名子さんの指示で、男たちが先生から離れた。スケベ哲夫がどうたと言わんばかりの得意顔を見せつけていて、心の底から憎たらしかった。

「先生、大丈夫ですか」

 首をしたたか絞められたみたいで、ゲホゲホとセキ込んでいる。背中をさすってやると、俺よりも横山を看ろ、と言われた。助手は鼻血を垂らしながら蝋人形みたいに動かない。とりあえず命に別状はないと判断した。

「堂島先生たちには帰ってもらいます。そして、二度とこの島には入れません。人体実験をして島民をおもちゃにするなど、言語道断です。ナチスはいらないんだ」

 先生に異論はなかった。というか、何かを言える状況ではないことは明白だろう。抗議すれば、また首を絞められることが確実だ。まだ無傷である私にまで暴力が振るわれるかもしれない。だから医者は黙っていた。

「ああ、痛い。鼻骨が折れた感じですね。うん、これは腫れますよ」

 横山さんが、やっと元気を取り戻した。涙を流しているのは、あくまでも鼻が痛いだからであって、精神的な衝撃が原因ではない、と後で言い張りそうな不貞腐れ顔をしていた。

「ここにいる間は外に出ないでちょうだい。保古丹島でインチキ診療とかは、わたしの目の黒いうちは許さない。嵐がおさまって船が出せれば退去してもらいます」

 先生と横山さん、私から自由が奪われてしまった。天候が回復して出航できるようになると、強制的に保古丹島を出されてしまう。それまでは、あてがわれていた部屋で軟禁状態だ。せっかくジャンジャの虫を発見したのに、これではあまりにも無念ではないか。

「インチキ医者」

「ヤブ医者のくせして偉そうにしやがって」

「おれたちをバカにしてたんだ」

 罵りを受けながら部屋へと連れていかれた。廊下に富田と斎藤がいて、私たちを一瞥すると、アゴをしゃくって入るように命じた。どうやら軟禁ではなくて監禁のようだ。

「横山、芳一、軽々しく行動するなよ。どういう思惑かは知らんが、日名子は本気だ。あの用心棒ども、腹の中に匕首(あいくち)を忍ばせているからな」

 ひえ、と肝が冷えた。どこの任侠映画なんだよ。

「いきなり、村長さんはどうしたんでしょうか。来たときと態度が真逆になりましたね」

 鼻がつまってしまい。横山さんの声が豚みたいになっている。顔の中央がぷっくりと腫れ始めたので、先生が応急的な手当てをした。骨が折れているのかはわからないが、いかにも痛そうだ。鎮痛剤を処方されたので勢いよく飲んでいた。

「俺たちがやった採血や診療で重篤になるはずがない。日名子は言いがかりをつけてきているが、その真意はなんなんだかな」

「ひょっとして、ジャンジャを治されるのがイヤなんじゃないでしょうか。どうも、村長さんの家はジャンジャでいろいろやっていますし。ジャンジャ保険とか」

「その線はあるな。口では島民の辛苦を和らげたいといっていたが、ジャンジャにかこつけて、自らの利益にしているかもな」 

「ジャンジャのお祭りも、嵐がなければもっと盛り上がっていたでしょうから。村長さんの権勢が続きますね」

 先生たちは気づき始めている。やっぱり日名子さんは一筋縄ではいかない女なんだ。アヤメがそれとなく言っていたことは的を外していなかった。

「瑠々士別の賊はコソ泥なんかではなくて、最初っから俺たちの活動を潰しに来たのかもしれんな。日名子の指示も考えられるぞ」

「そこまで疑ってしまうのはどうかと思いますけど」

 顔を殴られて出血したのに、横山さんはやさしい。

「まあ、疑い始めたらキリがないか。瑠々士別で採った標本があるから、帰ったらジャンジャの寄生虫を発表できる。そうしたら厚生省も動くし、調査団が派遣されるだろう。そうなれば日名子もおとなしく従うしかない」

 監禁状態というのは不便なものだ。便所で用を足しても、腹に匕首を忍ばせた男が外にいるので、途中で何度も止まってしまった。オシッコに時間がかかり、扉の外から「早くしろ」と急かされるほどに遠いものとなった。結局、膀胱に三割ほどを残してしまって、どうにも気分が悪かった。眠れずにいると、引き戸が静かに開き、小さな気配が入ってきた。

「芳一芳一」

 声でコッタだとわかる。電気は点けなかった。

「おまえ、なにやってんだよ。小学生はもう寝ろよ。夜更かしばかりしてると寝小便が治らなくなるぞ」

「おれはションベンたれじゃねえよ。犬のお姉ちゃんが芳一を呼んでこいっていうからさあ、眠いのに来てやったんじゃないかよ」 

 先生と横山さんは起きている。暗闇の中に四つの目玉がこちらを見ていた。

「みはりの人がお酒のんでるからさあ、出るならいまだよ」

 富田と斎藤が晩酌をしていて警戒が手薄となっているようだ。

「アヤメが、なんだって呼ぶんだよ」

「なんか知らないけど、だいじな話だって。ジャンジャと西出のことで、芳一たちがしらないことを話したいって言ってた」

 男と女の甘い語らいではなさそうだ。日名子さんの名が出るということは 一人では荷が重いと感じた。

「芳一、行ってこい。このタイミングでわざわざおまえを呼ぶということは、日名子の本意を知っているのかもしれないぞ。なにかを知らせたいんだ」

「それなら先生と横山さんも一緒に行こう。オレだけじゃ、話を聞いても対処できないよ」

「いや、三人がいなくなれば、さすがにバレるだろう。彼女はおまえを気に入っているんだから、おまえが行くべきだ」

「犬のお姉ちゃんは、芳一だけに話したいんだって」

 ご指名をいただいたことはうれしいけど、事態は暴力沙汰にまで発展して、おまけに監禁されている。アヤメから日名子さんのことを聞かされるのが怖いな。

「ジャンジャのことを知っているらしいな。ひょっとして感染経路に心当たりがあるんじゃないか」

 ジャンジャのことでアヤメが知っているのは、島の呪いということだ。

「もし日名子が物騒なことを仕出かす気なら、おまえだけでもいいからこの島を離れろ。瑠々士別に行って、村川に頼めば船を出してくれるだろう」

「僕になにかあったら、防研にある私物を母のもとへ届けてください」

 ヒソヒソ声で話しているわりには内容が悲壮すぎる。先生と横山さんは、取っ組み合ったり殴られたりしたからだと思うが、危険な気配を感じとっているようだ。緊迫感が私の尻をじりじりと押す。

「では行ってきます。すぐに戻りますから」

 ゆっくりしてこい、とは言われなかった。二人は無言で床に就いた。寝息も呼吸音さえも聞こえぬ見送りであった。  

 小学生の後について役場を脱出する。足音で気づかれるのではと心配したが、誰にも出くわすこともなく、あんがいと容易に出られた。雨はやんでいたが風が強く、それが冷たくて感じて寒気がした。「こっちだこっち」と急かされながら、視界の効かない暗闇を這うように進んだ。 



「呼んでない」

 玄関に立ってアヤメと対面すると、開口一番そう言われた。

「え」

「だから、芳一なんか呼んでないから。あたし、これからレコード聴いて寝るんだから邪魔しないでよ」

「ええーっと、つまり」どういうわけだ。

 重大な話があるから呼び出されたはずなのだが、けんもほろろな態度を当たられてしまっているぞ。コッタは凍りついた子ザルみたいに動かないし、珍しく無表情でもある。そんな少年をアヤメが睨みつける。

「コッタ、西出からいくらもらったのさ」

 コッタは黙っている。頭部が重くなったのか、徐々にうつむいてきた。

「コッターッ」

 アヤメの叱咤が飛んだ。蹴飛ばされたように背骨がシャキッと伸びた少年は、周りをキョロキョロ見回した後、一度唾を飲み込んでからボソリと白状した。子供に渡すには、けっこうな額だった。「あけ美も大阪につれていきたいから、お金がかかるし」と言い訳をしている。

 いったい、どういうことなんだ。なぜコッタが日名子さんから金をもらうのだ。あけ美を万博につれていきたいとの心意気は買うが、いろいろとおかしいぞ。詳細な説明が必要だ。

「先生たちがジャンジャのことをどこまで知ったのか、西出が探りを入れてるのよ」

「日名子さんが」

「そう。先生は口が堅いから、助手の助手を手なずけて訊き出せって言われたさ。お金をもらったけど、あたしにその気はないからほっといたんだ。そしたらコッタを使って芳一をここに連れてきた。あたしが西出の言いなりに働くと思ってんのよ」 

 日名子さんがスパイしようとしていた。コッタが私を脱出させて、アヤメの家につれてきたのは策略だった。私を懐柔して、ジャンジャ研究の進捗具合を探らせるためだ。

 駄賃をはずまれたコッタは引き受けたが、アヤメは乗り気ではなく、金だけもらってサボタージュを決め込んだ。だから両者の連携がとれず現状に至る。どうりで、役場をすんなりと出ることができたわけだ。

「なんで日名子さんがスパイみたいことを頼むんだよ」

「前に話したでしょ。ジャンジャがあったから、西出の家は代々ホコタンの代表でいられたって。みんなが元気になったら、西出の保険も薬もお祭りも、ジャンジャに係るもろもろのことがいらなくなるっしょや。大損よ」

「まさか、日名子さんがジャンジャを流行らしているのか」

「ジャンジャは島の呪いなんだって何回言えばわかるのさ。バカなの、とうへんぼくなの」

 イマイチ会話というか思考が噛み合わなくて困惑する。アヤメが私を見つめていた。

「芳一、これからカナエに会わせてあげる」

「ウサギは、とくにいらないよ」 

「それは、カナコ。間違えないでよね、ぜんぜん違うっしょや」

 カナエはアヤメの妹で、西出の養子になっていて、西出神社の巫女である。激しいジャンジャダンスをする美少女だ。彼女と会うことで何がどうなるというのだろう。そもそもアヤメを信じていいのか。

「カナエに会えばジャンジャがわかるさ。すっかりわかる。そして、あたしは芳一を裏切らない。なんでかって、だってあたしは芳一を」

「み、巫女さんー」

 アヤメの言葉を遮って、コッタが素っ頓狂な声をあげた。昂った少年が目を輝かせてこっちを見ているが、うっとうしいから無視だ。

「カナエはここにいるのか」

「西出の娘になっているから、西出の家にいるよ」

「日名子さんの家にはいけないだろう。なんていうか、オレの姿をさらすことは、なにかと複雑なことになる」

 脱走して、あなたがスパイを依頼したアヤメと一緒にお宅の娘さんに会いに来ましたとは、とてもじゃないが言えない。情報量が多すぎて相手も混乱するはずだ。

「潜り込むっしょや」

「え」

「もう、何度もやってるんだ。そうしないとカナエに会えないからさ」

 日名子さんは、基本的に姉妹同士の面会を許していないらしい。というか、ほとんど家から出さないみたいだ。お祭りでのダンス披露は特別なんだ。巫女にまでしているし溺愛しているのだろうか。

「コッタは帰りな。もう夜中になるし、子供が夜更かしするとチンチンが腫れるよ」

「ええー、やだよ。おれもいっしょに行くよ。芳一の役に立つからさ」

 駄賃に釣られて日名子さんのスパイとなったのに、どの口がそれを言うか。巫女さんに会いたい気持ちが九割だろう。少しは反省してもらいたい。

「もし見つかりそうになったら、おれがネコのマネしてごまかすからさあ」

「ネコ、やってみな」

「うっきっきー」

 少年が跳んだり跳ねたりしている。それはあきらかにサルのマネであってネコではない。

「うん、使えそうね」

「ええーっ」

 ウソだろう。またいつ裏切るかもしれないのに、ネコをサルと錯誤している子供を連れて行くのかよ。

「行くよ」

 私たちはアヤメの家を出て、カナエに会いにゆく。コッタは喜んでいるが、私は気がのらない。ジャンジャの正体がわかるにつれて、ロクでもないことに巻き込まれる気がするんだ。



 西出家の広い敷地の中に、役場と神社と屋敷と、その他の建物が収まっている。カナエがいる部屋は屋敷のもっとも奥まった場所だ。西出家の正面から侵入することは憚られるので、役場の壁に背中をくっ付けて忍者のように気配を消して進んだ。途中、私たちの部屋の下を通過した時、鼻がつぶれた横山さんの豚イビキが聞こえたような気がして、ふふ、っと無言で笑ってしまった。

 イテテ。

 アヤメに太ももをつねられた。油断するなということだが、暗闇の中でよく私の表情がわかったな。

「あそこの建物にカナエがいるさ」

 西出の屋敷は平屋だが、昔の武家屋敷か寺院みたいに大きくて造りが豪奢だ。役場の奥に神社があって、さらにその奥が本宅となっていた。

 お堂のような建物があって、本宅と連絡廊下で繋がれている。そこがカナエの部屋だという。窓はあるが上の方であり、おまけに基礎の土台部分が高いので手を伸ばしても届かない。

「梯子がなきゃ無理そうだ。そうだ、オレがコッタを肩車したら届くんじゃないか」

「窓なんか使わない。潜り込むって言ったしょや。バカじゃないの」

 いい方法だと思ったが、アヤメはバカに言い聞かせるような口ぶりで却下した。

「あたしについてきて。暗くてなにも見えないから離れるんじゃないよ」

 建物の基礎部分に通気口があって、小動物が入り込まないように金属の網が被せられている。アヤメがそれを外すと、躊躇うことなく上半身をねじり込んだ。だけど長方形の穴は大人が通るにはギリギリであって、大きめなお尻がつっかえたようだ。闇の中から、ウンウンと、女の押し殺した声が聞こえてくる。

「なあ、ネコのマネしようか。したほうがいいべか」とコッタが真面目に問うので、止めておけと言ってやった。サルが出たと騒ぎになってはマズいからな。

 床下に入りきったアヤメが呼んでいた。私も行かなければならない。狭い場所は本能的に嫌いであり、案の定、尻がつっかえて狼狽してしまう。冷や汗をかきながらなんとか入りきることができた。子供の体は易々と通り抜けした。

 三人が揃ったところで、アヤメが通気口に上着を被せて懐中電灯を点けた。ここは密閉空間なので光が漏れ出る心配がない。ひどく低い姿勢の女と子供の顔が闇に浮かぶ。

「この上にいるから」

 コンコン、コンコンと頭の上の荒板をノックした。すると、ガタガタと足音がした。板がめくりあげられ、目にやさしい眩しさを背景に、可愛げな女の顔が見下ろしていた。

「み、み、巫女さん―、うっきーきー」

 ただちによじ登ろうとする子ザルを引きずり下ろして、アヤメが先に這い上がった。私が呼ばれ、最後にコッタが上がってきた。こうして床下からカナエの部屋への侵入に成功した。

「うっわ、すごいな」

 カナエに注目する前に、部屋の中の様子に目を奪われてしまった。

「妹はお人形さんが好きなのよ。西出が好きなだけ買い与えているさ」

 十畳以上はある広い室内が人形だらけだ。百体はあるのではないか。小さいのから大きいのまで、日本人形からフランス人形まで、衣装の細部まで凝った高価なものが多い印象だ。専用のケースになど入れられてはいなく、むき出しのまま棚に、あるいは床に置かれている。無機質ながら、多くの視線が痛いと感じた。 

「おれ、宏太。犬のお姉ちゃんはコッタっていってるから、コッタでいいよ、コッタでさ」

 人形など見向きもせずに、コッタがカナエに粘着し始めた。いやらしくニタつきながら、酒場のオッサンみたいな息づかいだ。あけ美も連れてくればよかったか。

「カナエ、カナエ」

 アヤメが名を呼ぶが、カナエは静かであって、目線からの意思は弱々しかった。裸電球に照らされ表情は変わらない。生きた人間と、あまたの人形たちとの区別がつきにくい。

「西出が良くない薬を飲ませているんだ。小さい頃はさ、もう少しハッキリしてたんだ」

 日名子さんは、養子にした娘にわざわざ意識を濁らせるような薬を与えているのか。

「カナエ、ほら、ほら」

 アヤメが手拍子を始めた。ほとんど聞き取れないほどの弱々しさだが、妹はすぐに反応した。リズムをとるようにカナエの体が揺れ始めた。素早くステップを踏み始め、腰が揺れて腕が振られる。祭りのステージで披露したジャンジャの踊りだ。

「カナエがジャンジャよ、芳一」

 ジャンジャの踊りをしていることがジャンジャとなるのか。言わんとするところがわからない。  

「コッタ、床の下にいって、誰か来ないか見張ってて」

「ええーっ、やだよ。下になんてだれも来ないし、クモの巣があってベタベタするし」

「あんたはバッタを食べてるんだから、クモぐらい大丈夫っしょや」

「バッタは食ってねえよ」

「いいから、行って」

 アヤメの命令で、コッタは床下で見張りをすることになった。少年がしぶしぶと潜った穴に畳を被せると、キッとした鷹の目で私を睨みつけた。子供には知られたくない事実なのだと直感した。本番はこれからなんだ。

 カナエの揺れが徐々におさまってきた。完全に停止するのを待って、アヤメがしっかりと抱擁する。耳元で一言二言囁くと、密着をゆっくりと解いた。アヤメの目尻から細長く垂れた涙が滴っていた。

 カナエは浴衣姿である。アヤメは腰に巻いてある帯をゆっくりと解き始めた。妹は肌襦袢や裾よけを着けていなかった。帯を外され浴衣が脱ぎ落されると、すっ裸になった。股の部分に手が当てられていて、見えないようにしていたのは無意識だろう。覇気がなさ過ぎて、意図して隠しているようには感じられなかった。 

 姉の裸を見られただけではなく妹までとは、男にとって僥倖に違いない、とはいえなかった。なぜなら、それとは正反対の、地獄のような展開になってしまったからだ。

「・・・」

 これはけして遭遇してはいけないモノだと、本能的に察した。私の全身に鳥肌以上の突起が瞬時に出現した。この生理現象は保古丹島にきて初めてではなかったが、今のそれは火山級である。

「な、な、」なんだこれは。どうなってるんだ。

「よく見て」とアヤメが言う。

 よく見ている。だけどカナエの状態が理解できないんだ。

 アヤメよりもほっそりした体の、とくに胸から下、太ももにかけて大豆みたいな粒々がびっしりとくっ付いていた。数十はある。一つ一つが皮膚の中に少し沈んでいて、食い込んでいるように見えた。豆が付着している箇所は、周囲の皮膚が青く変色して腫れていた。

「豆か」

 これはなんだ。悪ふざけで体に大豆をくっ付けているのか。お祭りの余興を続けているのだろうか。

「豆じゃないよ。ほら」

 アヤメが、カナエの右胸の乳首の横にあった豆をつまんだ。すぐに取れると思ったが、しっかりくっ付いていて、姉よりも小ぶりな乳房があらぬ方向へ引っ張られた。外れる瞬間、パチンと音がしたような気がする。親指と人差し指でつまんだそれを、私のすぐ目の前に差し出した。

「顔?」

 豆の表面に模様があった。人の顔に見える。どこかで見たことがあるが、思い出そうとすると、心の中の自分がブレーキをかけた。なんだか妙なざわつきを覚え、太ももの裏がたまらなく痒くなった。

「手を出して」

 手にひらを差し出すと、つまんだ豆をのせてくれた。小さな顔が私を見上げている。心なしか恨めしそうに見えた。

「ん?」

 豆には毛が生えていた。左右側面の前半部から数本の毛が出ている。

「ん?ん?」

 いや、動いていた。もじょもじょと拙いが、たしかに動いている。

「おっわ」

 これは豆ではない。生き物だ。虫か。

「ダニだよ」

 そうだ、ダニだ。

 こいつは、たしかにダニだ。

 しかも、血を吸って何倍にも膨らんだ吸血ダニだ。豆の部分はダニのお腹であり、カナエの血をたらふく吸ってまん丸となったんだ。そして糸のような肢を動かしている。

「うわあ」

 私の背骨の髄に電撃が走った。

 カナエの体がダニだらけだ。後ずさって人形に足をとられて尻もちをついてしまった。ハッとして反射的に見上げた。

 カナエがすぐ前に立っていた。秘部を隠していた両手がだらりと下がっている。目を背けるのが紳士のマナーだが、よせばいいのに直視してしまった。

 ぎゃっ。

 ダニが集っていた。女性特有のほんわかとした盛り上がり部分に、わんさかとくっ付いているではないか。小粒のブドウの房をめり込ませたように、鈴なりになっていた。なぜか、その部分だけダニどもが密集している。カナエの体毛がないのは、こいつらに食いつくされてしまったのだと思った。

 縦のスリットには大きなヤツが並んでいた。合わせ目にボタンをかけたように、左右の肉壁を合わせてしっかりと食い込んでいる。これでは排尿するのにも苦労しそうで、いったいどうやっているのだ。

 うっ。

 香ばしいニオイが落ちてきた。ツヨシが漂わせている臭気を、もっと熟成させて煮詰めたような、とても濃い黄色だ。   

「このダニがジャンジャの正体、ジャンジャの元なんだ」

「元って、なんだ」

「このダニに刺されるとジャンジャになる。先生と助手さんは一生懸命に蚊を捜してたけど、蚊じゃないんだよ。ジャンジャを運ぶのはダニなのさ」

 ジャンジャの寄生虫を媒介しているのはダニだという。蚊ではない。アヤメは知っていたんだ。 

「このダニはね、クソきったない渡り鳥にくっ付いて暖っかいところからくるんだ。でもさ、寒い保古丹島じゃあ生きていけないんだ。すぐに死んでしまう。だから誰かの体で育ててあげないといけないんだよ。今は、カナエが温めているんだ」

 アヤメは、まるで他人事のように話す。自分の妹の体に無数のダニが喰らいつき、女性として神聖不可侵な部分まで蹂躙されているのに、なんらの処置もしようとしない。

「なんで、とってやらないんだ。こんなに寄生されて、可哀そうだろ」

 驚愕のあとに怒りが湧いてきた。

「なんでだ。医者に診せたのか」

「カナコは西出の娘。西出のものだから」冷めた声が返ってきた。

「西出のものって」

 そうか、これをやっているのは日名子さんだ。養子にした女の子にヘンな薬を飲ませて、体中にダニを集らせているはジャンジャが必要だからだ。

 島の人たちがジャンジャに苦しむと、西出の家は繁盛する。隔絶された小さな島でぞんぶんに権勢をふるえて、村長にまでなれた。寒さに弱いこの気色悪い粒々どもが、日名子さんと、彼女の家を繁栄させているんだ。 

「ジャンジャは呪いなんだよ。島の呪いさ。だけど呪いをするのは人なんだ。英雄ルルシクゥや侍さんたちを殺した報いなんだ。島は呪いそのもになった。だけど呪いができるのは人だけ。人がやるんだ」 

 呪いは存在するが、それは超常現象としてではなくて人が実行するのだと、アヤメは言っている。

「お父さんはね、お母さんが島の外から連れてきたんだ。もっといい暮らしを島の人たちにさせてやるんだって、船を何隻も買って会社を作った。お金は西出から借りたさ。メンメをたくさん獲って、いずれはみんなで島を出て、根室に会社を移すんだって」

 畳の下からコッタがドンドンと叩いていたが、まだ上げるわけにはいかない。

「でも船が全部沈んだ。お父さんが死んで、お母さんも死んで、すごくたくさんの借金が残った。ばあちゃんの薬売りだけじゃ返せないからカナエが養子になった。それでも足りないから、あたしは手伝っているさ」

 手伝っている、とはなんだ。日名子さんの家業に手を貸しているということか。

「それは、島の人たちにジャンジャを感染させているってことか」違うと言ってくれ。

「そうだよ」

 あっさりと認めた。ジャンジャを流行らせていたのは日名子さんで、アヤメもその一味であった。

「あたしがカナエのダニを運ぶんだよ。パンパンやるついでに、島の男たちにうつすんだ。血を吸う前の小さいのを小ビンに入れて、服に混ぜてやる。そうしたら女房までジャンジャになるんだ」

 アヤメの邪悪さを知りたくはないが、彼女本人が聞かせようとする。 

「シソジュースを売る時もだよ。背中を向けたら、ダニを振りかけてやるんだ」

 こうやってと、私に向かって投げつける動作をしてみせた。

「島が呪いとなってから、西出の家が呪いを広めていた。あたしの家は、産まれるのは女ばかりで、だれもジャンジャにならない。ダニがくっ付いても、ジャンジャにはならないんよ」

 アヤメはきれいな体をしている。妹のカナエには無数のダニが喰いついていて、殴られたように腫れあがっているが、ジャンジャの症状である瘡蓋は一つもない。

「自分のやってることがわかってんのか」

「だって、仕方ないっしょ。保古丹島に生まれたものは呪われなきゃダメなんだよ。ジャンジャにならなきゃいけないんだ。だって、英雄を殺したんだから。侍の奥さんや子供まで引き裂いたんだ」

 アヤメは、出自の不運や生い立ちの不幸、運命の過酷さを島の呪いにかこつけているのではないか。

「逃げろよ。西出から逃げて、この島からも逃げればいいんだ」

「どこに逃げるのさ。島の外に知り合いなんていないさ。ここにいれば、コッタもいるしカナエにも会える。カラダを売れば、島の男たちはみんなやさしくしてくれるんだよ。シソジュースを買ってくれるんだって」 

「やさしくしてくれるのにジャンジャをうつすのか。家族にまでダニを寄生させるのか」

「しかたないっしょやっ。西出にやれっていわれたら、やるしかないんだ」

 感情が極まって、押し出された涙滴が細長く垂れながら頬を伝って落ちている。悪いことだと承知している。だけど自分の力で現状を変える術を知らないし、逃げる器量もない。根っからの悪心でやったことじゃない。どうしようもないことだってある。借金を抱え、妹を人質にとられている。孤独な娼婦になにができるというんだ。誰かが手を差し伸べてやらなければならないんだ。  

「ここを出よう。オレについてくれば大丈夫だ。日名子さんは札幌までは来ない。もし来たら蹴飛ばしてやる。オレと一緒になれ。それでいいじゃないか」

 私の気持ちに偽りはない。アヤメという存在が頭から離れない。

「だって、芳一はでめんとりっしょや。その日暮らしじゃ食べていけないべさ」

 この場面でその現実を言われるのは苦しい。女というのは、気持ちがぐちゃぐちゃな時でも生活感があって困る。

「ここの仕事が終わったら、おれは病院の職員になるんだ。おっきな病院で、将来は事務長になる。だから、金の心配はない。まったくない」

 これはウソではない。先生が紹介しくれると言っていた。

「あたしを、芳一のお嫁さんにしてくれるの」

「そうだ。アヤメはオレの嫁になるんだ」

 胸を張って言い切ってやった。初めて会った時から、こうなる予感がしていた。

「カナエは」

「もちろん連れて行く。なんせ病院務めだから給料はいいんだ。二、三人は養えるさ」

「カナコは」

「ええーっと、ウサギも大丈夫だ。札幌のニンジンをいっぱい食べさせてやる」

「コッタは」

「コッタは、そのう、なんていうか、あいつの母ちゃんが大阪につれていくし、あけ美もいるしツヨシもいるし、大勢はなにかと時間がかかる」

 コッタのことは後で考えることにする。

「あたしはパンパンしてたんだよ。どのツラさげて、事務長さんの奥さんになれるのさ」

「オレだって、ススキノでさんざん夜遊びしてたさ」

「みんなにジャンジャをうつして、呪いをばら撒いてたんだ。あたしは地獄の女なんだ」

「呪いじゃない。呪いなんてないんだ。借金を返すためだ。あの人が一番悪い。地獄は西出であって、アヤメじゃない。もうしなければいいんだ」

 アヤメの罪は消えないだろう。島民に知られると、八つ裂きにされてしまうかもしれない。それを考えてもここを出るのが正解なんだ。

「西出はぜったいにカナエを手放さない。カナエのカラダでしかこのダニは生きていけないんだよ。ほかの人に噛みついても、ジャンジャをうつすだけですぐに死んでしまうさ。卵を生めないんだ」

「アヤメもカナエも、この島から出ればすべが変わる。ジャンジャがなくなれば、西出の家は落ちぶれてなにもできないさ」

「どうやって逃げるのさ。だれも船を出してくれないよ」

 西出に歯向かう者は、ここにはいないということだ。佐藤夫婦が生きていればと悔やまれる。

「そうだ、瑠々士別に行こう。村川さんだったら船を出してくれる。事実を話したら・・・」

 いや、それはダメだ。ジャンジャを感染させている女を、ジャンジャに苦しめられている者がどうして助ける。そもそも、アヤメは瑠々士別でも体を売っていたのか。シソジュースを売っていたのか。

「瑠々士別でパンパンはしてないよ。西出商店が品物や薬を売りに一軒一軒回るんだ。そん時に手下がバラまいているさ。あたしがやるよりも何倍も何十倍もダニをばら撒いているさ。だから、あそこはジャンジャが強い。西出の痒み止めが良く売れる」

 カナエのダニが産んだ大量の卵は、日名子さんがふ化させているとのことだ。なぜか、ダニはカナエのカラダでしか生きられないし、子孫を残さないのだという。 

「西出に逆らえないさ。あの人はなんでもする。ひどいことをするのにためらわない。芳一なんか、かなうわけないべさ」

 たしかに私では太刀打ちできそうもない。あっちには見るからに屈強な用心棒がいるし、数でも圧倒的だ。

「先生がいる。先生は戦争で何度も死にそうになってるんだ。怖いものなしだし、もと軍人に知り合いもたくさんいる。警察だって知ってるんだ」

 アヤメは恐怖で縛り付けられている。身の危険はないと安心させてやることが、悪事から遠ざける手っ取り早い方法だ。ここは我が叔父に活躍してもらうしかない。

「死ぬよ」

 え。

 突然の発言はカナエだった。いままでつっ立っていただけだが、私に向かって指をさしている。彼女の体を見るのはつらい。とくに下腹部は悲惨の極致だ。

「医者は死ぬ。医者のケライも死ぬ。あの人が、そうするって言ってた」

 考える力はないのだと思っていたが、無気力なだけで意思はあるようだ。ただし、彼女が伝えてくれた内容は危険だった。ただの、たわごとだと思いたい。 

「アヤメは、この人を焼くんだ。死んだこの人を、バラバラにして焼くんだ」

「カナエ、もういいんだよ。ありがとね」 

 アヤメがカナエの前に立ち、もう一度抱擁する。ダニだらけの体を、さっきよりも強く抱きしめた。

「そう。西出は決めたのね。先生と助手さんは、よっぽど都合が悪いらしい」

 アヤメが私を見つめている。ずっと見つめていた。その時が、とても長く感じた。

「カナエを連れて、いまからここを出るよ。先生たちを助けて村川さんのところに行くんだ。あたしはぶっ殺されるかも知らないけど、あそこしか西出に対抗できないからさ」

 アヤメがカナエを連れて島を出る決断をしてくれたのはうれしいが、先生たちを助けるというのは難易度が高い。ひとまず根室にわたって警察を呼んだほうがいいだろう。

「先生はあとから島を出る。いま無理に出そうとする大もめになるぞ」

「わからないの。西出は先生を殺すよ。あの坊ちゃん助手も。そして芳一もさ。カナエがその話を聞いてたんだ」

「いや、まさか。オレたちは明日にでも島を追い出されるんだ。殺す必要がないだろう」

「ジャンジャを知ってしまったじゃないのさ。生かしておけないっしょや」

 先生はジャンジャの寄生虫を発見した。私はアヤメから西出が行っている秘密を知らされてしまったが、そのことを西出まだ知らない。仲間ともども一蓮托生にしてやる、ということか。 

「呪いにとり憑かれた女はね、なんでもやるんだよ。人殺しなんか屁でもない。何度もやってるさ」

 アヤメは西出日名子の数々の悪行を知っていた。まさかとは思ったが、島民を殺したことがあるらしい。まるで殺戮の島ではないか。アヤメやカナエだけではなく、私たちもただちに脱出しなければならなくなった。

 畳の下がうるさかった。一人で見張りをしているコッタが辛抱しきれずに持ち上げてきたが、間髪入れずに踏んだのは私とアヤメの足だ。

「ぴゃあ」

 下から悲鳴が聞こえた。アヤメが素早くカナエに浴衣を着せた。数秒してから、小さな頭がのっそりと畳をあげた。

「なにするんだよ。おれの首がおれたべや」

 首を斜めに傾げながら、コッタが這い上がってきた。

「芳一」

 いままでの話はコッタには内緒だと、アヤメの目が語っている。ずっと押し殺した声で話していたので、その真意は了解済みである。でも、すぐにバレることになると思う。せめて島を出るまでは、懇意にしていた者を失望させたくはないのだろうな。

「どうやって先生たちを助け出すんだよ。見張りがいるし、オレではあいつらを倒せないと思う」

「芳一に期待してないから大丈夫だよ」素っ気ない返答が返ってきた。

「なあ、なあ、巫女さん、巫女さん、手えにぎっていいかなあ」

 コッタが、いやらしいオッサンのようにカナエにまとわりついている。危機的な状況を理解していない小学生は気楽でいいな、と思ってしまった。

「あれをやるしかない」

 そう言うと、アヤメが畳の下に潜った。

「すぐに戻ってくるから、待ってて」

 何をするのか知らないが、待っていることにした。

 コッタに、先生たちを救出してアヤメとカナエも連れて、この島を出て行く旨を伝えた。

「え、なしてよ。犬のお姉ちゃんと巫女さんまで行くことねえべや」

 説明はややこしいので、だいぶ端折っている。コッタは疑問符を頭の上に浮かべて、カナエは黙ったままだ。

 三分くらいしてアヤメが戻ってきた。畳の上にデンと置かれたのは、金属製のタンクである。

「物置から灯油をかっぱらってきたさ。派手に燃やしてやるよ」 

 なんと、アヤメは建物を燃やす気である。西出のクビキから解き放たれたのはよいが、やり過ぎても困るぞ。

「殺されるよりはマシっしょや」

 いきなり灯油をぶちまけ始めた。ぞんざいなやり方であって、うかうかしているとかかりそうになり、あわてたコッタがカナエの手を引いて、あっちへこっちに逃げ惑っている。

「みんな床下へいって。モタモタしてると、焼きサンマになるんだから」

 ボワッと火が点いて、十秒も経たないで部屋の中が火炎地獄となった。人形たちがメラメラと燃えてゆく。美しかった顔が一斉に焼けて醜くなるさまは、ある意味壮観な眺めだった。  

 灯油ではなくガソリンではないかとの疑念がある。それほど火炎の勢いが強力だった。熱波を浴びながらも、アヤメの顔は不敵な笑みを浮かべていた。彼女の内側もメラメラと燃えているようであり、焼き場の光景を思い出してしまう。

「あっちあっち、うわあ、焼けちゃうよ」

 さ迷っているコッタとカナエをつかまえて床下に放り込んで、私も潜り込んだ。アヤメもすぐに降りてきた。火炎の熱を十分に浴びたのか、彼女の体が熱いと感じた。そのまま這って外へ出る。

 灯油のタンクは、あと三つあった。アヤメは一つを持って、闇の中へ消え行ってしまう。火はまだ建物の外に出ていないが、カナエの部屋から煙が出始めていた。

 アヤメが行った方向を見ていると、突然ボッと明るい点が現れた。少しして、また点ができる。西出の敷地にある建物に次々と油をぶっかけて、火を点けていた。タンクが空になると素早く戻ってきて、またタンクを持った。

「芳一も一つ持ってきて。っもう、三つじゃあ、ぜんぜん足りないっしょや」

 ご指名があったので私もタンクを一つ持って、アヤメのあとに続いた。彼女は、忍者みたいに軽々とした身のこなしで先へと行く。放火の手伝いなどしたら犯罪者となるが、殺されるよりはマシだと覚悟を決めた。

「燃えろ、燃えろ、ぜ~んぶ、燃えてしまえ。ジャンジャ、ジャンジャ、ッヒャー」

 踊っていた。

 燃え始めた建物を目前にして、アヤメが大仰に体を振っている。昂る心の内を叫びながらの激しいダンスであった。巨大なクモを業火で炙っているような、滅茶苦茶な動きだ。喜んでいるのだが、なんだか苦しんでいるようにも見えた。  

「芳一さあ、犬のお姉ちゃんになんかしたのかよ。あれ、おっかしくなってるべや」

 アヤメの行動が大胆不敵すぎて、コッタが訝っている。島を出て私の嫁になれと言ったことが嬉しいのだと、楽観的に考えることにする。

「なんだ、火事か。誰かいるのか」

 男の声がした。暗がりの向こうに数人が確認できる。西出の家の者たちだろう。

「おまえら、なにやってんだ、コラア」

 私たちはすぐに建物の陰に隠れたが、アヤメは違った。煤けた体を晒しながら、炎とともにいきり立っている。男たちが駆け寄ってきてもダンスを止めなかった。

「おまえ、アヤメか」

「なにやってんだ、正気か」

 炎の前で踊っているのが、そして火を点けたのがアヤメであると即座にわかって驚いていた。もちろん、顔見知りなのだろう。    

「うわっ、なにするんだ」

「こらっ、止めろ」

 アヤメが男たちに油をぶっかけ始めた。「ジャンジャ、ジャンジャ」と歌いながら、豪快に撒き散らしている。目の前に火事を見ながら燃料まみれになるのは、誰もが肝を冷やす体験だ。女がマッチを取り出してシュッとこすると、悲鳴をあげて逃げてしまった。

「あはははは、ザマミロ、クッソオヤジどもが。ジャンジャ、ジャンジャ」

 雨はやんでいたが風は強いままで、アヤメの煽りに呼応したかのように、さらに強風となっていた。火事は見る間に勢いを増し、秒速5メートルの速さで建物を燃やしている。突風に巻かれた火炎の渦を作り、屋根の上でその身を無秩序にくねらせていた。

「犬のお姉ちゃん、まだやる気だよ」

 やる気というのは放火ではなく、ダンスのほうだ。アヤメは踊り続けるという呪いをかけられた人形のようだ。気持ちのどこかがブチンと切れてしまっているのは確かだろう。

 その高揚感を尊重してあげたいが、そろそろ引き上げ時である。三人でアヤメのところへ行く。

「アヤメ、もういい。逃げるぞ」

「だれかきたよ」

 人の声が近づいてきた。ヒソヒソとではない。大声で叫んだり怒号を発している。火事の消化と火つけ犯人を逮捕するために、気合を入れているのだ。こんなところでもたついていると、明日を前にして狩られてしまう。  

「いまのうちに、先生を助けるんだよ」

「お、おお」

 いきなり、アヤメが正気に戻って焦ってしまった。建物の炎に照らされた顔は煤だらけであって、前髪が焼けてチリチリとなっていたが、機知に富んだ瞳で私たちを見ている。

「これで先生たちの部屋が手薄になったさ。火事のドサクサでここを出て、瑠々士別まで走るんだ。コッタはカナエから手を離さないで。この子、けっこうドンくさいから」

「おれは巫女さんから、ぜったい離れない。ぜったい」

 コッタは大喜びだ。この状況をどこまでわかっているのかな。おそらくカナエのことで、小さな頭の中が幸せでいっぱいなのだろう。後で事実を知ったら大騒ぎしそうだ。ここまで来たら、こいつも島から出さなければならない。

 身軽に動くアヤメのあとに続く。くノ一忍者は人の気配がするやとっさに身を隠し、暗闇の中をなんらの躊躇もなく進む。私は一足も二足も遅れてしまい、コッタとカナエは意外にも乱れない。ちっともドン臭くなんてなかった。

「なんだっ」

 突如、空から大音量が降ってきた。耳の柔らかな内側を錆びた針の先で引っ掻くような音で、すごく不快だ。

「サイレンだよ。西出のババアが騎人古の連中を叩き起こしているのさ。西出の家が燃えるのは、島の一大事だからね」

 炎は、西出日名子の家を滑りながら勢力を拡げている。この島に消防署があるとは思えない。それこそ集落の全員が消防団員とならなければ全焼してしまうし、強風にあおられた炎がほかの家に燃え移るかもしれない。

 金切り声のようなサイレンに不安感を掻き立てられながら、役場の入口にきた。人の出入りの間隙をついて侵入し、廊下を忍び足で進む。案の定、先生と横山さんが寝ている部屋に見張りはいなかった。静かに戸を開けて中へと入った。 

「先生、無事ですか」

「芳一か。なんで戻ってきた」

 先生と横山さんは起きていた。電灯も点けず窓際に寄って、外の騒動に聞き耳をたてていた。この部屋に窓はあるが、開かないような構造になっている。

「サイレンが鳴って明るくなってますけど火事でしょうか。空襲ではないですよね、はは」

 横山さんの薄ら笑いは心の不安をあらわしているな。先生は、私の連れに注目した。

「アヤメ君も一緒か。それとコッタと、その娘さんはどこかで見たな」

「アヤメの妹で、カナエです。日名子さんの養子となって神社の巫女なんですけど、なんというか、すごくややこしいことになってまして」

 事情を話すのは厄介だと感じた。アヤメを糾弾し、コッタを傷つけなければならない。

「ジャンジャの秘密がわかったんです。アヤメもからんでいて、カナエが原因でした。日名子さんが黒幕だったんです」

 説明を端的過ぎたのか、真実の重要さが先生には伝わらなかった。しきりと窓の外を見ている。

「島の呪いを西出がやってるさ。あたしも手伝ってカナエが育てているんだ。妹はジャンジャの母で、呪いの発射基地なんだよ」

 アヤメの告白に、コッタがキョトンとしている。

「芳一さん、呪いの話をさせるために、わざわざアヤメさんを連れて戻ってきたんですか」

「違うよ。ジャンジャの虫を感染させていたのがアヤメとカナエで、そうするように脅迫していたのが日名子さんであって、西出の家なんだ。ジャンジャは人の手によって感染させられていたんだ。アヤメや西出の家の者がやってたんだって。自然になったんじゃないんだ」

 ここまで言って、ようやく先生が反応してくれた。

「感染させていたって、どういうことだ。蚊を人為的に広めていたということなのか」

「おじさん、蚊じゃない」

「だったらなんだ」

 アヤメが窓際に行きカーテンを閉めた。部屋の電灯を点けると、いきなりカナエの浴衣を剝ぎ取った。

「わっ」

 コッタが凍りついてしまった。肉親以外で初めて見た女の全裸姿が、ブツブツだらけの醜怪さだ。尻もちをつきながら部屋の隅へと逃げてゆく。彼は大人になっても女性を愛せなくなるかもしれない。

「これはなんでしょう」

 横山さんの目が細くなる。先生が舐めるように見ていた。

「ダニだ。マダニか。いや違うな。模様が独特で、ジャンジャの幼虫に似ている。北海道にも本州にもいない種だ。こんなの南方でも見たことないぞ」

 先生がピンセットを取り出して、アヤメのお腹にくっ付いている一匹を引きぬいた。それを電灯にかざして、じっくりと検分している。

 これらのダニは、この島にやってくる渡り鳥に寄生している。北国ではすぐに死んでしまい、なぜかカナエのカラダでしか生存できない。カナエの体を、いわば苗床みたいにして子孫を残していると説明した。 

「中間宿主は蚊じゃなくてダニだったか」

「ダニの感染症はありますが、まさかあの寄生虫の幼虫を媒介していたということですか」

「顕微鏡で確認してみないと結論は出せないが、その可能性が大だな。この島にダニはいなかったから盲点だった。それにしても日名子がジャンジャを広めていたとはな」

 先生は医学者であるので聞き取りだけで結論とはならない。ジャンジャの幼虫がダニの体から検出されて確定となるのだ。

 先生は、カナエの女性器に鈴なりとなっているダニを、ピンセットで慎重に取り除き始めた。不憫に思ったのだろう。

「芳一、逃げるんならいまのうちだよ。カナエの豆はあとでも取れるさ」

 そういうことだ。私たちには時間がない。

「先生、逃げましょう。日名子さんは明日にでもオレたちを殺す気です。船の事故に見せかけて、死体を燃やして証拠を隠滅するんだ」

「まあ、そうなるだろうと思っていたよ。夜が明ける前に強行突破しようと、横山と話をしていたんだ」

 やはり先生も西出日名子の殺意を感じとっていたんだな。

「ひょっとして、火事になっているのは芳一さんがやったのですか」

「あたしがやったよ」

 アヤメが言い私が頷くと、横山さんは感心したような顔だ。

「コッタ、立て。おまえも一緒に連れて行くから」

 小学生といえども、秘密を知った者を生かしておかないだろう。連れて行かなければならない。 

「犬のお姉ちゃんと巫女さんが、ジャンジャをやってたって、なんでだよ。おれの母ちゃんと父ちゃんも、ジャンジャでひどかったのに、なんだよ、なんだよ」

 当然の反応であって、コッタの心境も痛いほどわかる。しかしながら、いまは混乱や戸惑いが許容される余裕はない。モタモタしていたら、この孤島に自らの墓碑銘を刻むことになる。

「コッタ、コッタ、落ち着け。あとでちゃんと話すから、いまは逃げるんだ」 

「父ちゃんは毎晩、毎晩苦しんだんだ。だから、ジャンジャのないとこに行こうとがんばったんだけど死んじまったんだ。おれや母ちゃんを楽にしようとしたんだ」 

 アヤメはコッタの父親にも体を売ったのだろうか。いや、これ以上の真実は余計だ。

「ノロイは、犬のお姉ちゃんじゃないかよ。ぜんぶ犬のお姉ちゃんのせいだ。父ちゃんをかえせよ。かえせ」

 アヤメを睨みつけながら必死の形相だ。これはなだめるのに骨が折れるぞ。

「コッタ、俺を見ろ」

 先生がコッタの両肩に両手をおいて、そのまましゃがんだ。しっかりと肩をおさえて、顔の高さを合わせている。

「おまえの好きなものはなんだ」

「え、なんだよ」

 尖った感情の切っ先をいきなりへし折られて、コッタは当惑している。

「ちゅ、ちゅうかまんじゅう。あと、らくがん」と力なく答えた。

「好きな人は」

「巫女さん」と、カナエを見ないように言った。

「巫女だけか」

「あと、犬のお姉ちゃんと母ちゃん、それとツヨシとかヤスオとかミノルとか。あけ美もだよ」最後の人物は消え入りそうだった。

「いいか、コッタ。おまえの好きな者たちは、みんな救われる。俺がジャンジャを治すし、ジャンジャにならないようにしてやる。ジャンジャをなくしてやるんだ。これは絶対の約束な」

 先生がコッタを説得している間に、横山さんがカナエに浴衣を着せている。陰部に集っている粒々は後で取り除くと、目線が語っていた。

「だから、いまはガマンだ。あとでたっぷりアヤメに言ってやれ。そん時は、俺も聞いてやるから。いいか、日名子たちに見つかれば、巫女もアヤメも母ちゃんも、みんな大変なことになる。」

「あけ美も」

「そうだな。あけ美が悲しまないように、おまえが頑張るんだ。いまから瑠々士別まで走る。巫女さんを連れて行けるか」

 コッタは考えを巡らせている。利発な子なので、きっと最適の解答を導いてくれるはずだ。

「わかった。おれ、走るよ。巫女さんを守ってやるんだ」

 いい返事をもらえたが、少年はカナエを見ていないし、アヤメの目線を無視していた。彼女が近づこうとすると意識的に距離をとる。とりあえずは上出来だろう。

「先生、脱出にさいしての作戦名はどうしましょうか」

「アホか、んなもんねえ。とにかく誰にも見つからないで、村川の家まで走るんだよ」

 寝ぼけたことを言う助手を一喝して、先生が部屋を出た。皆が後に続く。幸運にも誰にも遭遇せず役場の外へと出られたが、サイレンと人のざわめきがうるさかった。

黒い夜空が火事の炎を反射して、ほんのりと明るくなっている。強風にあおられた火の勢いが、制御不能な大火事となっていた。

「あらまあ、おめえたち、出てきたのか」

 仁美婆さんだった。とくに驚いた様子でもなく、すごく驚いている私たちを見つめている。

「早く逃げろ。西出がなんまら怒ってるべや。おめえたち、ぶっ殺されるぞ」

 すでにアヤメや私は極悪放火魔として、集落中に手配されているとのことだった。正面から出たのではすぐに見つかってしまうので、役場横の隙間から行けと言う。火事はもちろん、カナエを連れ出したことに鬼の形相なのだそうだ。

「おめえら、そこにいたか。動くな」

 ドスの効いた声がやってきた。役場の門から富田が向かってくる。とっさに皆が走り出した。最後は私で、なぜかというと、ガラにもなくしんがりの役目を果たそうと思ったからだ。

「ぎゃっ」

 富田が、てっ転んだ。敷石に強打したらしく、右ひざを抱えて呻いている。仁美婆さんが箒の柄で足を払ったのだ。おまえも行けと言い、うるさそうに手を振った。

 私は走った。先生たちに追いつく間際に、ちょっとだけ振り返って見た。富田が仁美婆さんを殴っていた。ゲンコツではなく、引っ剥がした敷石を振り上げて、ガツンガツンとやっていた。燃え始めた役場を背景にして、凶暴さをいかんなく見せつけた。

「あれは死んだわ」

 私の呟きが聞こえたわけでもないのに、皆の逃げ足が速くなった。こっちだ、こっちだ、と後ろで男が喚いていた。これはマズい。

「固まってたらダメださ。別れたほうが目立たなくなる。それとオトリがいればいい」アヤメの提案だった。

「よし、それだな」先生が即採用した。

 先生と私が囮となって追っ手を引きつけている間に、アヤメとカナエとコッタたちが逃げるというシンプルな作戦である。

「横山、瑠々士別へ突っ走って、日名子の悪事を説明して村川に応援を頼め。数には数だ」

 返事もせずに助手は走り去った。懐中電灯も持たずに、ドンくさい医者が無事にたどり着けるのだろうか。

「あっちは数が多い。追いつかれるかもしれないさ」

 自ら策を弄してもなお、アヤメは最悪を見据えていた。

「おれ、かくれる所、知ってるよ。ホコタンのだれも知らない、おれだけの穴だなんだ」

 コッタは、島民も知らない隠れた防空壕を知っていた。

「もし追いつかれそうなら、いったんそこへ逃げ込め。やり過ごしてから走ればいい」

 月明かり程度な薄闇の中へ、コッタがカナエの手をつかんで引っぱってゆく。頬になにかが触れたと思ったら、アヤメの手だった。

「芳一、あんまり無茶すんな。捕まったらタダじゃすまないんだから」

 仁美婆さんは頭蓋のてっぺんを叩き割られていた。あれよりもひどいことをされる場面を想像する。戦慄してブルッと身震いしていたら、アヤメの顔がグッと接近してきた。

「ふんがっ」

 キッス、を、されてしまった、すごく唐突に。

 暗かったのと反射的に顔を引いてしまったので、私の鼻頭にアヤメの柔らかな唇が当たり、鼻の穴をベロで舐められた。唾のちょっと酸っぱくて香ばしいニオイがしたが、すぐに消えてしまった。

「俺の最初のチューは日名子だったな。その女に殺されようとしているのは、なんの因果か」先生が残念そうに言った。

「調子にのるなよ、バカ芳一」パシッとビンタをして、アヤメは行ってしまった。

「ほほほほ、ほ~ん、これって、なんだろうか」。

「芳一、走るぞ」

 展開が急すぎて、気持ちが追いつけない。とにかく走るしかない。

 この野郎、捕まえろ、と怒声が聞こえている。バチバチと焼ける音のほかにガチャガチャと人が動き回る気配もあった。追手が迫っている。

 アヤメたちは瑠々士別へと向かった。先生と私は追っ手を引きつけるために、騎人古の集落へと向かう。家々の間をデタラメにすり抜けて、時間と距離を稼ぐ。ろくな外灯がないだけに姿を発見されにくいのは好都合だ。ただし、非常事態のサイレンが鳴り響いているので、人々がわらわらと家から出てきている。まもなく発見されて、その情報は追っ手へと伝えられた。

「あそこにいるべさ」

 見つかってしまった。赤ん坊を背負った女性が、「あそこあそこ」と私たちを指し示していた。すぐに逃げるも追っ手に塞がれてしまう。 

「おんどりゃあ」

 先生が叫びながら突っ込んでいった。石炭庫にあった剣先スコップを拾い上げて、ブンブンと振り回している。それほど根性が据わっていない連中だったのか、ワーワーと悲鳴をあげて逃げた。大したことないなと思ったら、左の頭に激震が走った

「芳一」

 先生の声が聞こえて、次に地面の硬い感触が全身を打った。痛いなと思ったのも束の間、重たいものが圧し掛かってきた。身動きできず恐慌状態になっていると、やたらと顔面が痛い。誰かが殴っているようだ。すごく衝撃があって、死んでしまってもおかしくないほどだ。

「ゴンッ」と、いい響きがあった。「ぐおえっ」と嗚咽を吐き飛ばして、私の上にいた人物がぶっ倒れた。見覚えのあるその男は、西出日名子の用心棒の斎藤だった。先生のスコップでぶん殴られたのだと、少し後になって知った。

「芳一、立て、走るんだ」

 視界が狭まっている。声を出そうとしたが、口の中のどこかが激痛だった。歯が折れたか、唇か頬を切り裂いてしまったのか。ためしに唾を吐いてみると、シャバシャバとして鉄臭い。暗くてわからないが、けっこうな量の血を吐いていた。

「口の中が切れているんだ。あとで診てやる。汚い指をつっ込んで、あまりいじくるなよ」

 殴られたことはあるが、死を感じたのは初めてだ 足どころか体まで震えていて、うまく立てない。自分の身に起こっていることが信じられなくて、呆然自失になっている。

「とにかく走れ、死ぬ気になって走れ」

 先生に背中を押されている。人の声とざわめきと懐中電灯の光点が、四方八方からやってきて、数メートル進んだところで囲まれてしまった。どうやって切り抜けるか考える暇もなく、よってたかって捕まえらえてしまった。その際に殴る蹴る、さらに殴る蹴るの暴行を受けてしまう。口の中がワヤになってしまい、とても気持ちが悪かった。

 いくつもの懐中電灯に直射されているので眩しくてたまらない。西出日名子が目の前に立っているのがわかった。私は両腕を捉まれている。「先生、先生」と呼んでみるが返事はなかった。

「おまえがカナエを連れ出したんだな。どこへやった。アヤメと一緒か」

誰かに髪の毛を鷲掴みにされて、激しく振られた。首が胴体から離れてしまうのではないかと心配になった。鼻にガツンと衝撃が走り、頭の中がツーンとなった。殴られるのは、もうたくさんだ。

「カナエはどこに行った。隠れているのか」

 知らないと答えようとしたが、口の中の感触がヘンで言葉が出ない。

「しゃべらないのか。こんな唐変木に、わたしもナメられたもんだわ」

 西出日名子の声だが、以前とはまったくの別人みたいであり、友情の欠けらも感じなかった。

「二人とも土場につれていくよ。あとの者は火を消しな」

 脇から両腕を抱えられて、私は引きずられている。先生も同じ状態だった。だいぶやられたようで、ぐったりとしている。ときどき膝頭が障害物に当たるが気にされていない。痛かったが、なりゆきを振り解くほどの元気はなかった。

 大きな作業小屋というか、納屋みたいな建物に連れてこられた。汚らしい椅子に座らされて、手足を縛りつけられた。よほど厳重に巻いているので身動きができない。先生も同様で、私の対面にすわらされていた。

 狭くなった視界で小屋の中を見回すと、ノコギリやハンマーなどの不穏な道具や器具類が壁にかけられていた。入ってはいけない場所だとわかる。

「いいかい、雑用係のお兄さん。これからすごく痛いことするから、西出日名子に言うべきことを思い出したら、素直に言うんだよ」

 西出日名子の説明が終わるやいなや、左手のひらを強引に開かされた。台のようなものが手のひらと密着し、確固とした支えとなる。錆一つないカナヅチを持った富田が無表情で見ていた。斎藤もいて、腕を組んで見下ろしている。

「ガツン」、ときた。

 硬質の釘打ちが振り下ろされて、目ん玉が破裂してしまいそうなほどの激痛が炸裂した。潰されたのは小指だと思うが、痛くて怖くて見られない。おそらく皮膚が裂けて骨が露出しているはずだ。

「ガツン」、ともう一丁きた。同じ場所だから、小指が潰されただけではなくて骨を砕かれたと思う。一発目ほどの猛烈な痛みじゃないのは、すでに神経が切れてしまっているのだろう。だけど、精神は絶望の地平へと一歩を踏み出していた。

「ガツン」、と三回目だ。今度は親指であるのが確信できた。さすがに親ともなると苦痛も次元が違った。痛いなんてものじゃないぞ。尻の穴から数千度の灼熱が噴き出している。いっそのこと死んでしまいたいと願った。 

「こいつ、クソ洩らしたべや」

 けして嘲笑されているわけではない。こういう場面に慣れているのか、私の拷問官はすまし顔である。

「ちょいとお兄さん、粗相をするくらいなら、しゃべっちゃいなさいよ。あれはわたしの娘なんだし、返すのが当然でしょ」

 西出日名子の甘ったるい声の言う通りにしたくても、私はコッタが隠れている秘密基地を知らない。知っていたとしてもアヤメたちの安全と交換になる。それが等価となっても、私の良心が生涯にわたって許さないだろう。

「ど、どっかいった」

「なんだって?」

「だ、から、どっか行った。オレは知らないんだ。どっかに走ってたから、知らない。や、やめてくれ。もう、やめて」

 美女にキッスされた僥倖を相殺してあり余るほどの地獄だ。これ以上の苦痛は耐えられない。藁にもすがる思いで、なさけない言葉を吐き出してしまった。

「左の指を全部潰してから、歯をほじくればいいんじゃねえべか」

「しゃべりずらくなるからダメだ。膝を叩き割ったほうがいい」

 斎藤と富田の会話が辛い。こいつらが同じ人類だとは思えなかった。斎藤は後頭部が痛むのか、しきりに手を当てて気にしている。富田は油田掘削にでも使いそうな、大きなパイプレンチを手にしていた。あれで膝を打ち据えたら、膝頭が割れるどころではなく、足そのものが砕け散ってしまう。野球のバッドのほうがまだ良心的だ。

「おい、日名子、日名子よう」

 椅子に縛り付けられてぐったりとしていた先生が、気力で意識を回復させた。

「芳一はなにも知らんぞ。こんなマヌケな甥っ子に、大事なことを教えるわけねえだろう」

 それは一理あるし説得力を有している。無垢な子供のように、私は何度も頷いた。

「あのダニがジャンジャの元凶か。養女といえども、自分の娘にダニを集らせやがって。おまえは地獄の閻魔様も感心するほどの人でなしだ。腐った鬼め」

 西出日名子が振り返った。富田が先生の髪を掴んで、グイッと引いた。見下げる鬼女と見上げる医者の視線がぶつかって火花を散らしている。

「ジャンジャはねえ、この島が西出にくれた、とってもおいしい呪いなんだよ。あのダニのおかげで、西出の家は代々繁盛してきたんだ。病気になると困るだろう。困難があって人は人にすがるんだ。災いを作り出せるものが力のある者なんだ。不幸をどれだけ操れるか、機転の利くものだけが支配者となるのさ」

「この、クソったれめ」

「あはははは」

 西出日名子が手を叩いて喜んでいた。先生からの罵りを侮辱だとは思っていないのか、クソったれであることを受け入れて嬉々としている。

「教えてやるよ、晃が探していたジャンジャの秘密をさ。始まりの呪いをね」

 モデルがランウェイを闊歩するように、したり顔で私たちの前を往復していた。

「むかしね、この島にはラッコがウナるほどいて、最高級の毛皮が獲れたんだ。将軍家や朝廷にまで献上してたんだよ。昆布も鮭もオットセイまで一級品で、すごくね、豊かな島だったんだ、いまと違ってさ」

 ふと思い立ったように、西出日名子の動きが止まった。先生のすぐ前に立って腕を組む。

「その当時、保古丹島を仕切っていたのはルルシクゥさ。やり手のアイヌで、商場を通じて松前藩と交易してた。ここにはアイヌと和人がいたんだ。ルルシクゥはウラカワやアッケシやパシクルのアイヌと懇意で影響力があった。松前藩も迂闊に手が出せなかったんだ。まあ、争うよりも交易していたほうがい儲けるとの判断だったんだ。ルルシクゥの独占だよ」

 アヤメが言っていた英雄ルルシクゥの話だ。こちらのほうが、リアリティーがあると感じた。

「そんなおいしい話を日高の砂金取りの一家が聞きつけて、ここに来たんだ。そして、商場を仕切っていた役人に密告したんだ。ルルシクゥが毛皮なんかの商品を津軽や南部に横流ししてるって」

 アイヌとの交易は松前藩の独占であり、ほかとの取引は幕府に許可されていなかった、と補足説明があった。

「ガツン」ときた。油断していたら突然だった。

「ぎゃっ」

 不意をついた四度目は薬指で、反射的に見てしまった。爪が叩き潰されていた。斎藤がニヤリと笑っている。拷問係が、いつの間にか交代していた。先生が怒鳴り散らし、西出日名子が面白半分な拷問は止めるように注意した。まったくもって迷惑な行為である。抗議したかったが、嗚咽と涙しか出せなかった。

「ええーっと、どこまで話したかしらね」

「砂金取りが密告したってところだ」苦々しく先生が答えた。

「そうそう、その砂金取りが西出のご先祖様なんだけどね。それで、ルルシクゥと松前が争いになって、もうすっちゃかめっちゃかさ。もの凄い戦いだったみたいよ。トカチやらクシロのアイヌが加勢にきて、たくさん死んだって。ルルシクゥが強くてさ、松前がやられるやられる」

 西出日名子はケラケラと笑っていた。

「それで、松前がルルシクゥ側に{ツクナイ}を渡すから、戦いを止めるように頼んだんだ。まあ贈り物をして、降参というか手打ちよね」

 前にも聞いた話で、こちらのほうが詳細だ。

「でも、松前は謀ったんだよ。宝物を差し出して和解するフリをして、そこに手勢を配置した。ルルシクゥは切れ者だったけど、アイヌの信義には忠実だったのさ。{ツクナイ}をするものが謀略などしないってね」

 文化の違いと言ってしまえばそれまでだが、松前のやり方は汚いし、ルルシクゥ側も警戒心が薄すぎだ。

「その歴史とジャンジャが、どう関係するんだ」

「関係は大ありよ。だって密告はウソだったし、松前方にだまし討ちするよう仕向けたのが砂金取りたちだったんだから」

 今度は真顔だ。先生ではなく、なぜか私を見ていた。鬼というか般若の形相だった。彼女の頭にツノがあっても驚きではない。

「ルルシクゥ側のおもだった者たちが殺されたんだ。そりゃあ、ひどかったさ。捕らえられた者たちも、みせしめのためになぶり殺しだ。その様子をね、女房や子供たちに見せたんだよ。火あぶりやら打ち首やらで、泣き叫ぶ声が根室まで聞こえたって話さ」

 ぎゃーっ、と叫んで、当時の臨場感を再現した。たいがいに大きな声だったので、叩き潰された指がじんじんと痛んだ。

「ルルシクゥに替わって、砂金取りたちが島の利益を独占した。最初はうまくいったさ。大繁盛さ。だけどね、ラッコがだんだんと獲れなくなった。昆布や魚も不漁続きで、先細ってきた。もっとほかに儲ける手立てはないかねえ、と考えていた時にね」

 般若がニヤリと笑った。得意げに私を見てから先生と対面する。  

「ジャンジャの鳥がやってきた。体中に呪いをくっ付けてやってきたんだよ」

 とたんに夢見る少女の顔になった。この女は、どれだけの表情を持っているんだ。

「西出の女の子が見つけたんだよ。いい子だねえ。ダニが珍しくて、鳥からダニを引っ剝がしては人にくっ付けて遊んでたんだ。そしたらジャンジャンが広まった。薬が欲しくて、島の連中が頼ってくる。働けなくなって金を借りにくる。西出は大儲けだよ。ジャンジャを根付かせて、ジャンジャを恐れさせ、ジャンジャを敬うようにしたのさ」

 そうやって保古丹島にジャンジャ信仰が根付いてきたのか。惨劇の歴史から呪いが発生したということにして、たまたま見つけた病気を広めていた。砂金取りの山師は、パニックを利用して権力を我がものにする才に恵まれていたんだ。

「さあ、晃。わたしの大事な大事なジャンジャをどこに隠したのさ。あれは西出のものなんだから返しなさい」

 先生は沈黙で返答した。口をへの字に曲げて睨みつけている。

「わたしも探したいけど火事で人手がないんだよ。もし瑠々士別に逃げ込ませたんだったら、戦争になっちゃうよ。あんたのせいで大勢が死ぬからね」

 今度は脅しだ。瑠々士別へは行かせたくないんだな。

「晃、あんたもジャンジャになってみるがいい。そうしたら、きっと返したくなるから」

 ジャンジャのダニはカナエにくっ付いたままだ。いまこの場で先生にジャンジャを寄生させることはできない。

 西出日名子が目配せすると、富田が出て行った。一分もしないうちに四角い金属缶を持って戻ってきた。一斗缶だが、見るからに中身が不穏だった。いっぱいに入れられた炭が、音もなく真っ赤に燃えていた。さらに鉄の棒が数本刺さっている。想像力が豊かでなくとも、これから為されることがわかるってもんだ。

「ほら、わたしのジャンジャを見てごらん。保古丹島が作り出した呪いの傑作だよ」

 西出日名子が上着を脱いで、上半身を裸にした。毎度のように、私を見てから先生へ向いた。腰に両手をあてて、またもやファッションショーのモデル気取りだ。

「ああ、これは酷いな。前は、まったくなかったのに」

 ほどよく熟れた肌にジャンジャの症状である瘡蓋が多数貼り付いていた。その分布具合が、ジャンジャの寄生虫に似ているのは気のせいなのか。

「若い頃はジャンジャになるのが怖くてね。でも、わたしもジャンジャの島に生まれたんだから、ジャンジャを宿すのは当然なんだ。ジャンジャジャンジャ」

「自分にダニを食いつかせたのか」

「そうだよ。だって、ジャンジャの元締めがジャンジャになってないって、格好つかないっしょや」

 そう言って目配せすると、包丁を持った斎藤が先生の上着を切り裂き、剝ぎ取った。

「さあ、あんたも瘡蓋だらけになるんだ。ほんのちょっとだけ熱いけどガマンしなさいな」

 灼熱のガンガンに突っ込まれていた鉄の棒が引き抜かれた。柄の部分まで熱くなっているのか、布を巻いている。妖しく光る灼熱の先端を、西出日名子が舐めるように見ていた。そしてなんら躊躇うことなく、露わにされた先生の体に押しつけた。

「うぎゃあああああああああーーーーっ」

 凄まじい悲鳴だった。

 溶ける寸前まで熱せられた鉄棒が先生の体に押しつけられていた。同時に香ばしい煙が大量に立ち昇る。「ジュジュジュ、ブシュー」っと忌まわしい音がした。不謹慎ながら、あんがいと食欲をそそるなと思ってしまった。ただし、安い肉を焼いたような場末感があった。

「ぎゃあああ、ぎゃあああ、ぎゃああああ」

 焼きゴテは念入りに当てられていた。胸から下腹にかけて、十分に時間をかけて焼かれていた。無残なヤケドが広がり、先生の体が椅子ごと跳ねていた。リズムが一定であり踊っているようにも見えた。鉄棒の熱が冷めたところで、小休止となった。

「ほうら、晃の体もジャンジャっぽくなった。よかったね、これであんたも島の男だ。こっちのほうが、あずましいっしょや」

 先生の体は焼け爛れていた。ジャンジャの瘡蓋とは違うが、痛々しさは同等以上だ。物理的で非情な嗜虐ゆえに、受けている苦痛は計り知れない。

「それで、カナエはどこにいるんだ。早く教えるんだよ。これ以上熱いのはイヤでしょ」

「だれが教えるか、クッソババアー。シャーッ、ハッハハハハ」

 なんと信じられないことに、先生が高笑いをしている。焼けた鉄をさんざんに押しつけられて重症のはずなのに、なんて根性なんだ。胆力がありすぎて見ているほうがキツい。

「俺は戦地でさんざん地獄を見てきたんだ。砲撃で手足がふっ飛ばされて、火炎放射機で炭になった兵隊もいた。チンポが半分千切れて、股にぶら下がったままさ迷うやつもいた。あいつらの苦しみに比べると、こんなことぐらい屁でもねえ。なんも熱くねえわ。ぬるいくらいだ、ぬるいわ、腐れババアがっ」

「もう、戦争中じゃなんいんだ。あんたのたわ言なんて古いわ」

「ババア、おまえ年くったなあ。きったねえハダカを見せやがって。まあ、若い時もたいした体じゃなかったな。札幌の女のほうが数倍きれいだわ。所詮は田舎娘だった」

 どこかがキレてしまって尋常でない活きの良さだ。余計な煽りは命取りとなるぞ。

「斎藤っ、尖っているのをよこしな」

 斎藤が手渡したのは、先の尖った鉄棒だ。もちろん、灼熱で真っ赤になっている。それを先生の脇腹に突き刺して、ぐいぐいと押し込み始めた。出血を焼き固めながら、先端がゆっくりと沈んでいる。内部で血液やら体液やらが沸騰しているのがわかる。先生の表情が苦悶に満ち満ちていた。

「まだ死ぬんじゃないよ、ヤブ医者。あんたのチンポだって無事じゃすまないんだから」

「ババア」と言って唾を吐きかけた。それで気力を使い切ったのか、ぐったりとうなだれてしまった。

 西出日名子に新たな鉄棒が渡された。彼女は直前にとんでもないことを言っていたが、まさかそんなことはしないだろう。

「晃、あんたの大事なところもジャンジャだらけにしてあげるわ」

「オイオイ」

 やめろやめろ、それはダメだ。絶対によしてくれ。そんなことは人間がやってはダメなことだ。

 椅子に前傾して座っている先生を、斎藤が後ろからガッチリと抱えた。般若の顔に戻った西出日名子がズボンのチャックをガチャガチャし始めた。ズボンをずらして、ある程度を露出させたところで、なぜかまた私を見た。手にしている焼けた鉄棒が凶悪すぎる。心臓がドキドキして、手の痛みを忘れてしまった。目を背けたいのに見なければならない逆説に絶望する。

「ぎゅあぐあぎゃぎゃあああああーーーーーーーー」

 ぐったりしていた先生が猛烈に暴れ始めた。気がふれたように爆ぜまくっている。

先生のその部分を焼き切る勢いで、灼熱の棒を押しつけていた。体重をかけて、グイグイとやっている。ジュージューと音がして体毛が焦げる煙が立ち昇っていた。さらに本体が焼けただれる異様な臭気は最悪で、これは絶対に嗅ぎたくない。窒息しそうだ。

「おばさん、おばさん、火がほかの家に移ってたいへんだから、来てくれって、わあーっ」 

 いきなり入ってきたのは、あのスケベ哲夫だ。火事の具合を報告に来たようだが、先生に為された拷問に遭遇して吃驚していた。酸鼻を極める有り様を見て尻もちをつき、口を大きく開けてワーワー喚いていた。

「哲夫、ここに来るなって言ったしょや」

 スケベ哲夫は焼け焦げた先生の股間から目が離せない。あまりの惨たらしさに好奇心が刺激されたのか、しばし凍りついたように見ていた。

「すぐに戻ってくるからね。今度は若いほうのタマを焼いてやるから」

 火事の処理を指揮するために、西出日名子は哲夫と斎藤を連れて行ってしまった。二度と戻ってくるなと、心の中で罵声を浴びせてやった。あとには見張りとして、富田が残って睨みを利かせている。ビールの瓶に口をつけて、グビグビと飲んでいた。

 西出日名子が去り際に、先生のズボンを履かせてくれたのは武士の情けであった。ただし、そうされることに激痛を伴うのか、本人はかなりイヤがっていた。局部含め体中に重度の火傷を負わされたのに、まだ意識を保っている。ブツブツと西出日名子に対する怨嗟の言葉を吐き出していた。

「うるせえんだっ」

 先生の爛れたミゾオチヘ。富田が強烈なるコブシをめり込ませた。ガクッとうなだれて静かになると同時に私も叫んだ。もちろん、富田に対する罵詈雑言である。日本語が持っているありとあらゆる無礼な言葉が出てきた。手の激痛の分をお返ししているようで、なかなかに爽快であった。

「ぶっ殺すぞ、てめえ、コラア」

 富田から即座に反応があった。顔や頭をボカボカと殴られ、股間にも蹴りが入れられた。タマがヘソのあたりまで上がってしまった感触があって、この場で跳ねたい心境だが、緊縛られているからできない。痛みというより衝撃がキツかった。最後に腹へ一発もらったところで火花が散った。谷底へ落ちるように、そのまま意識を失ってしまった。

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