6話 望み叶わば(4)

 いつの間にか隊商の面々も広場までやって来ていて、亡くなった家族や友人を前に泣き崩れている。祭りの時はあんなに色鮮やかだったのに、景色は鈍く烟ってどこかはっきりしない。


 ここはもう終わりだ。元どおりに立て直すとなれば、ゆうに数十年は要する。残った人だけで暮らすにはあまりに過酷で、たとえ手を掛けても賑わいが戻る見込みは全くない。だからきっとラケたちは、集落を――棄てる。打つ手なしの状況に、段々と嗚咽の中に自分へのせせら笑いが混じりだした。


(ああ……そういうことだったんだ)


 気付いてももう遅い。昨夜川辺でラケを焚きつけていた頃には、すでにしき神はひと仕事終えていたことになる。あとは自身を倒させることで仮初の安らぎを与えて、戻った一行が高みから勝手にどん底へ堕ちるのを悠々と見届ければいい。奴は分散こそすれど、死することがないのだから。


 いともたやすく嵌められてしまった。これでは蛇神が抜かっていただなんて、とても言えない。むしろ夢を通じてやり口を知らされていたのに、自分が手中に収められていたと思い至らなかっただけ、こちらの方がタチが悪かった。あの怪しげな靄は、今頃どこかでしてやったりと喜びに酔いしれているのだろう。


 ずる、と後ろで音がした。目元を拭いて振り返ると、おびただしい屍をかき分けて、小さな人影が弱々しく這い寄って来ている。それが泥だらけの腕を細かに震わせながら上体を起こすと、肩からおさげ髪がはらりとこぼれ落ちた。


「お……にい、ちゃん……?」


 聞き馴染みのある声に、考えるよりも先に走り出していた。


「アニタ!」


 担ぎ上げたディヤがよろめくのも厭わず、今にも倒れそうな妹のそばに膝をついた。右手で支えた体は、息をするたびぜいぜいと苦しげに肺を鳴らしている。災いの病に侵されてなお生きていてくれた嬉しさと、目を背けたくなるほどのやつれた姿に、言葉が見つからずただ名を呼び続けた。アニタは湿った咳をしながら、ラケの上着を握りしめる。


「どうして、どっか行っちゃったの?」


 唇をほとんど動かさず、虚ろな顔で尋ねる。


「ごめん……現人神様をお守りしてたんだ。でも安心して。怖い神様はいなくなったよ。もう、もう大丈夫だから……!」


 言いながら夢中で妹の背をさすった。その間にも彼女の呼吸は、みるみる間隔がひらいていく。遅れて歩み寄った父も加わって必死に声を掛けるも、消え入りそうな命を前にして、むしろ二人でまごつくばかり。ラケは一縷の望みを託して、もう一人の少女を仰ぎ見た。


「現人神様! 妹をお救いください。どうかそのお手を!」


 強く乞い願う。アニタはまだ辛うじて息があり、不幸中の幸いか、死に至るほどの傷は見当たらない。病さえ癒せば、助かる見込みが大いにあった。それなのに。


「いらない!」


 差し出された赤い手は、悲しくも拒まれた。


「どうして! そんなこと言わないでくれ……。このままだと、いずれおまえも!」


 いいの、とアニタは呟く。黒ずんだ頬に涙の筋が走った。


「なんで一緒にいてくれなかったの? お兄ちゃんの嘘つき。現人神様が生きてても、みんな死んじゃったら意味ないじゃない!!」


 喉を締めたような痛々しい絶叫。胸を鋭く貫いた声が頭の中でこだまして、ラケを繰り返し責め立てる。


「頼むからじっとしててくれ!」


「いや……!」


 じたばたと身を捩る小さな娘を父がなんとか宥めようと試みるが、何かに取り憑かれたように掻い潜ろうとする。ラケの方は気がすっかり抜け落ちて、あっけからんと受け入れがたい光景を眺めていた。アニタは兄の襟を捉え直すと、患う少女とは思えない力で強く揺さぶる。激しい剣幕で迫るその瞳は、怒りに黒く燃えていた。


「どうせ死んじゃうなら、ただそばにいてほしかった。あたしのこと守ってくれるって言ったのに! ううん、それだけじゃない。お兄ちゃんは家族を、集落を見殺しにしたんだ!!」


 ――――何も言い返せなかった。こんなことになるならば、たとえ滅びようとここに残って、みんなで最期を迎えればよかったのだ。民たちは現人神様が連れ去られるのを、どんな想いで送り出したのだろう。スニルは背中を押してくれたが、果たしてそれは本心だったのだろうか。誰もが快くラケたちに希望を託したのだろうか。否。


 現人神様に――そう感じたに違いない。


 あの時、イェンダは寄るを失った。虚しさを胸に抱えたまま、絶望の内で多くの人が悶え苦しんで息絶えたのだ。思い至らなかった自分に心底嫌気がさす。いや、怖くて気付かないふりをしていただけ。一番大切なことをなおざりにしたから、最も恐れていたことが本当になってしまった。


 命を燃やし尽くしてしまったのか、腕の中でアニタはがくりと崩れる。それに合わせるように、ぽつぽつと天から雨粒が落ち、瞬く間に大地を強かに打ち始めた。わずかに残された体温も、惜しむ暇もなく奪われる。濡れそぼつ妹を今一度ぎゅっと抱き寄せて、ラケは呟いた。


「俺たちが何をした……。――――現人神様。どうか、みんなを生き返らせてください。元のままに、昨日の朝のように。お願いですから……」


 しゃらりしゃらりと鳴る髪飾りの音で、彼女が首を横に振っているのがわかった。集落を守るあらたかな現人神といえど、死を帳消しにするお力はない。それは疑うまでもなく明らかで、返事はさして驚くようなものではなかった。それでも、問わずにはいられなかったのだ。


 家族が、友が好きだった。この地でともに過ごした、かけがえのない大切な人たち。いかに荒らかな場所であろうと、イェンダで生まれ、暮らしたことをどんなに誇りに思っていたか。だからあの輝かしい日々を取り戻したくて、しき神に挑んだはずだった。


「一体何のために……」


 捌け口のない悔しさを拳に込めて、ぬかるむ地面を打つ。血が滲むのを見かねた父が、やんわりと諌めた。


「もうやめよう。現人神様だって、おつらいはずだ」


 雨に洗われたラケの顔を、小さな手が柔らかく拭う。手の主がいたたまれなさそうにまなじりを下げるから、申し訳なくて再び俯いた。


「……ごめん。ディヤのせいじゃないのに」


 彼女はラケの頭を胸に寄せた。じっとりと重く水を吸った服の向こうに確かな温もりを感じて、涙が溢れそうになる。


 この少女に人の幸せを、と強く願っていたはずの自分が、現人神としての彼女に救いを懇願していた。それが、ひどく恥ずかしかった。所詮、守り神なしでは生きていけない、無力でみじめな人間にすぎない。自分がうわべだけの偽善者なのだと、ありありと突きつけられた気がした。


 やはり、現人神様だけをかばっても意味がなかったのだ。民は神ありき、そして神もまた縋る者ありき――。考えながら、ふと気付いた。まだ失っていない、小さな灯火が一つだけあることに。ゆっくりと立ち上がったラケに、父は無言で頷いた。


「これが私たちにできる、イェンダの民として最後のお役目かもな。もはや私たちに、現人神様は必要ない。誰もいなくなったから、というのはあまりに皮肉だが。でも今この時から、人として生きられる」


 それは一筋の光、せめてもの救いに感じられた。心に巣食う暗い靄が、風に吹かれて少しずつ晴れていく。難しいことは一切ない。彼女を地に降ろしさえすればよかった。


「ディヤ」


 振り仰ぐと、大きな瞳がまっすぐにラケを見つめていた。視線を交わしただけで、お互い同じことを思っているのだと、不思議とはっきりわかる。


「もう現人神でいなくていい。これからはちゃんと、自分で歩いていける」


 ディヤは想いを示すように首を縦にする。金の虹彩がラケを映して一層煌めいて、開けた未来を喜んでいるようだった。彼女がそう望んでくれたことが何よりも嬉しくて、自然と頬が緩む。全てを失った中でただ一つ、摘み取られることのなかった切なる願い。それさえ叶うのならば――――。


 深く息を肺に吸い込んで、高鳴る鼓動を落ち着かせる。そして意を決すると、彼女の足が大地をしっかり踏みしめられるよう気遣いながら、そっと体を折りかがめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る