5話 愛おしき者(8)
腹の据わったマヤも、一度だけ弱音を吐いたことがあった。ある日、珍しくぼんやりしていたのが気にかかって声をかけると、おもむろに上げた顔はひどく苦しげだった。いつも艶のいい頬は、打って変わって血の気がない。
「わたくしは……本当に民を救えているのでしょうか」
「どうした。おまえはいつだって、集落のために尽くしているではないか」
それはそうですけれど、と弱々しく呟く。
「何度考え直しても時間が足りません。この命は人と同じで、いずれ散るでしょう。いえ、もっと早いかもしれません。わたくし亡き後、おそらくあなたはイェンダの民の誰かに移ります。その子が次の現人神となるのです」
マヤを失う。薄々勘付いていた事をしかと突きつけられて、心臓が縮み上がるような気がした。だが彼女が恐れているのは、きっと死ではない。
「地に足を着けられないのも、みんなとおしゃべりができないのも、別に構いません。でも、それを次代に強いてしまうことが、何よりつらいのです。記憶を引き継いで生まれ落ちるのでしょうが、その赤子はわたくしではありませんから。本当はこの命があるうちに、終わらせたかったのですけれど……」
そう言って再び俯く。努力が実を結んで集落を守ることはできたが、そこが目的地ではない。焦る気持ちは、蛇神にも少なからずあった。近頃、
神へ変じたとて、
「何度も現人神を看取ることになるかもしれません。ごめんなさい、あなたのせいではないの。わたくしができると天の神様に大口を叩いてしまったばっかりに……再び苦しい思いをさせてしまうなんて。あなたには笑っていて欲しかったのに」
もっとも、この期に及んで他人の心配とは流石に恐れ入る。だが、彼女もまた心ある故に憂える一人であり、消えてしまいそうなほど体を縮こまらせる姿は、痛ましくて見るに忍びない。触れられるのならば、その濡れた頬を拭ってやりたかった。震える肩を抱き寄せてやりたかった。しかし今は叶わぬこと。手も足も出ないのを、これほど歯痒く思ったことはない。
もとを辿れば、己の咎をマヤに押し付けてしまっているのだ。自分のせいで誰かが傷つくなど、本来あってはならないことだった。連鎖を断つこと自体は難しくない。内に秘めたこの魂を解き放ち、神の権能を天へお返しするだけだ。でも蛇神がいなくなれば、身を削るように積み上げてきた企ては、全て水の泡となってしまう。それをきっと、彼女は望まない。第一、現人神の力と蛇神の助けを失えば、イェンダの民は災いに虚しく呑まれることになるだろう。
一歩も引けぬのならば、せめてわずかでも魂を捧げて苦しみを取り除かねばならない。なぜなら、マヤは蛇神の――――。
「謝らないでくれ。無辜の命を喰らって、罪を背負うのは我なのだから。覚悟ならすでにできている。むしろ、おまえの願いがけして無駄でなかったと裏付けることこそが、これから現人神になるであろう者たちへの、何よりの報いとなろう。……だから案ずるな。必ずや、
そうして、にっと笑う。
「心の底からイェンダを――マヤを愛しているから」
秘めた想いをしっかりと言葉にした。晴れやかな気分も束の間、あとからやって来た面映ゆさに、思わず顔を伏せる。だがどうしても気になってちらりと相手を伺えば、面食らった気振りでぱちぱちと
「ええ……伝わっていましたとも。振る舞いからひしひしと。でも、あなたの口からちゃんと聞けてよかった。他の道をほぼ与えずにここまで来てしまったから、ほんの少し怖かったのです。ありがとうございます……私も愛しておりますよ。これでもう迷わずに、明日を見据えられます」
そこまで言わせて、急に自信がなくなってしまった。今度は蛇神が、申し訳なく肩をすぼめる。
「でも、おまえを幸せにはできていないな。いつも世話をかけて……すまない。いろんなものを貰ってしまったのに、何一つ返せていない」
「わかってませんねぇ。想い慕うお方と寝ても覚めてもずっと一緒だなんて、世の恋人たちが泣いて悔しがりましょう。安心してください。わたくしは、この上なく幸せですから」
人懐っこく笑う様は、まるで朝日が昇るようだった。向かうところ敵なしの、とびきりの愛おしさが魂に沁み渡る。瞳に光が戻ったことに、ひとまず胸をなで下ろした。こういうところが脆くてたくましいのだ。己を奮い起こしているだけで、巣食う問題はひとつとして片付いていない。そこはお互いわかっている。
でも、希望を持つとはそういうことなのだと。程度の差こそあれ、常に何かの犠牲の上に立って、けして清らかではいられない。だから背負っていく。全てを賭けて、奪った命と喰らうであろう子の道行きを償うために。その一方で、与えられた喜びを余すところなく味わって、マヤとともに笑うのだ。それが彼女を讃える
***
身の丈を超える力を得た体は少しずつほころびて、それからわずか数年ののち、若くしてマヤは旅立った。見え透いた強がりも、蛇神のことを想えばこそであったのだろう。そんな二人を労ってか、眠るような穏やかな最期が贈られた。
彼女と過ごした月日はあまりに短く、十年にも満たなかった。永きを生きる神にとって、それは流れ星が目の端を横切るようなほんの一瞬。されど、いっとう明るく輝いた乙女は、やわらかな光を心の奥底に置いていった。
強く美しく駆け抜けた人――――我の
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