5話 愛おしき者(6)

 差し伸べられた手を、突き放してしまった。でも、これでいい。嫌われ者の蛇神に戻っただけだ。二度と温もりを求めることはないだろう。あとは、何にも干渉できないこの状況から、いかにして果てるかだ。


(もう構うな。さっさと我など手放してしまえ)


 それなのにマヤは決まって傍にいて、懲りずに蛇神に声をかけ続けていた。飾り気のない話をして、時折明るくからりと笑う。そんな彼女が、ひどく眩しい。初めて目を交わした時は、肝の座った女傑と思ったが、なかなか人懐っこい娘だった。


 昔住んでいた所にも川が流れていたとか、近頃寒くて朝起きるのがつらいとか、軽食につまんだ漬物アチャールが美味しかったとか――――。とにかく、取るに足りないことを毎日。


 彼女曰く、神としての格を保つため、言葉を発しないことを誓ったのだという。周りの人と話ができなくなった分、心象世界の蛇神に語りかけていると聞いたときには、ほとほとうんざりした。いつも目を逸らして、返事はおろか相槌すら打たない。しかし、マヤはさほど気にしていないようだった。


 山は今日も災いで溢れているというのに、聞かされるイェンダの暮らしは、思ったより明るい。神の猛威に影響を受けやすい農耕や牧畜に頼りきることはせず、機織りの腕前を磨いて、なんとか身を立てているのだという。マヤを通して見た品々は、素人目にも息を呑むものがあった。


 もちろん人死にも出ているし、食べるものだってけして十分とは言えない。災いが緩む乾季の間であっても、かわりに身を切るような寒さが押し寄せる。だが、みな朗らかで真面目に働いて、他人の幸せや悲しみを自分のことのように受け止める。厳しい土地で生きるために思いやりが大切というより、そうでもしないと生き残れなかったのだと、マヤは言っていた。


「蛇神様。どうかお心を鎮め、イェンダに恵みをお授けください」


 あろうことか、毎日のように民たちは無垢な祈りを捧げている。恨まれた方が楽なのに。さらに念には念を入れて、人々の口にも戸が建てられていた。偽りの神話まで広めて。幼子たちは、現人神と蛇神の繋がりに気付かぬまま、大きくなっていくのだろう。


「どうしてそこまでして匿おうとする。旨味など何もなかろうに」


 あら、とやや驚いたようにマヤは目を丸くした。


「久しぶりにお話ししてくださると思ったら、そんなことをお聞きになりたいのですか?」


「そんなこととはなんだ」


 こちらは至って真面目だ。向けられた含み笑いに、口元を歪めて苛立ちをあらわにした。


「それはですね、わたくしたちイェンダの民が、チャンカヌ・バダル様を――――あなたを愛しているからですよ」


 あまりに度し難くて、一瞬固まる。


「………………は?」


 しばらく間をおいたのち、はっと我に帰るや否や、思わず気の抜けた声を上げてしまった。愛されるようなことをした覚えはないし、愛してくれと頼んだ覚えもない。よりにもよって、最も解せない言葉を、証として突きつけてくるとは呆れたものだ。


「あっ。そのお顔、信じておりませんね?」


 むっすうと頬を膨らませる様子は、出会った時とはまるで別人のようだった。この女は淑やかだったり、子供じみていたり、何かと忙しい。しかし民の前では威厳ありげに無表情を貫いているのだから、すこぶる不思議だ。ただ、おそらく現人神になる以前はこうやって人々と心通わせていたのだろうと思うと、胸の隅を申し訳なさが針でつつく。


「わたくしたちは故郷を追われて、もうどこにも行く宛はありませんでした。それに、さすらい続けるには何もかもが足りない。であれば、野垂れ死ぬにしても、せめて美しいところが良いと。そんな時、あなたの雲が見えたのです」


「それがなんだというのだ」


 蛇神にとってみれば、ただ邪魔なだけの、忌まわしきさが。無い方がマシだと、常日頃思っていた。


「朝日を受けて金色こんじきに輝き、昼は空の青さを際立たせ、夕には赤く燃え上がる。この景色は、あなたの素直で穢れなき本質そのもの。きっとここを統べるのは、善き神に違いないと思ったのです」


 そんなこと考えたこともなかった。雲なんてうっとおしいだけで、蛇神には何の益もない。まじまじと見ることもせず、いつだって手で避けていた。でも、賜ったあの名前。ずっと訝しんできた事柄の糸口が掴めそうな気がして、そのまま耳を傾けた。


「天の神様があなたに贈った名は『輝ける雲』。それを知って、なおのことパスチム山を故郷として愛そうと心に決めたのです。光を受けてこそ……真心に照らされてこそ、才が花開くであろうという希望が込められた、素晴らしき名ではありませんか。お姿が黒い蛇であるから惑わされてしまいますが、むしろしきを祓うのが、あなたの持つまことたちなのです」


 身に余ることだ。畏れ多いことだ。期待されても何一つ返せない、向けられた情に応えることすら怖気付く、筋金入りの意気地なし。地を這いつくばるのがお似合いの卑しい蛇なのに、しきを払うだなんて片腹痛い。しかし、ふと優しい腕を思い出してしまって、途端に切なくなる。


「ああ……」


 溢れ出るものを抑えきれずに、俯いた。しき神に敗れてこの方、あちこち壊れてしまったのか、すぐこうだ。マヤに不甲斐ない姿ばかり晒して、なよなよとわらべのように縋っている。これでは神の威厳など、誰もが聞いて呆れよう。


「我は……そんな大それた神ではない。ましてや愛されて良い存在などでは決して……!」


 声がくぐもる。マヤの言葉は喉につかえて、容易に飲み込むことはできなかった。今まで他人に心を砕いたことなど、一度たりともなかったから。でも、どうしてこんなにも苦しいのだろう。なぜ、苦しくても手を伸ばそうとしているのだろう。


「嫌味ばかり向けられていたあなたには、天の神様の優しさは純すぎたのでしょう。でも、愛とは相手の幸せを願い続ける覚悟であり、その者が永らえるよう努めることでもある。天の神様は、あなたに安らぎを与えたかった。幸せになって然るべきと言祝いだ。たとえ信じてもらえなくとも、けして揺らぎはしないのです。わたくしたちだって、見離すつもりは少しもありませんよ」


 真っ直ぐで、眩しくて、温かい。天の神とマヤだけでなく、祈りを捧げる民さえもひどく純朴で、彼らの想いがまことであったらと、心のどこかで切に願っていた。大きな力を前にしても、労りを忘れず強く在る、その姿は何よりも美しい。


「ずっと、ずっと、幸せになってはいけないと思っていた。呪われた命だと。それでも、ここにいても……生き恥を晒しても許してくれるか……? 天の神様に報いたい。そしてイェンダの民に。――頼む。教えてくれ、マヤ……」


「あったりまえです! 何事も生きてこそですよ」


 すかさず、はつらつと言い放たれて、胸のつかえがすっと下りた気がした。力がへなへなと抜けて、涙腺も輪をかけて緩んでしまう。


「どんなにつらくても、自ら変わろうと天の神様をお訪ねになった。それはとても尊いことで、間違いなはずありません。本当はお一人にしてあげたいのですけど……どうか、わたくしはいないものと思って、大いに泣いてくださいな。涙するのは気持ちを鎮めるための、誰でもできるおまじないですから」


 触れられないとわかっていながら、マヤは蛇神の隣に静かに身を寄せると、小さな手で背をそっと撫でるようにする。無理に宥めるようなことはせず、泣かせてくれたことが、何よりありがたかった。

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