5話 愛おしき者(2)

 しかし、夢のような安らぎは儚く終わった。天の神が受け入れても、他の神々がそれを許さなかったのだ。


「憎き蛇神が、ついに天の国を攻め落としにかかったぞ! きっと天の神様は、恐ろしいまやかしに惑わされているのだ。このままでは、世の秩序が失われてしまうだろう。何としてもお救いせねば!」


 館を取り囲んだ神々は、口々に叫ぶ。蛇神は罵り声に怯えて、天の神の後ろへその大きな体を隠そうとした。


「天の神様。どうしたらみんなに好かれるのでしょう。……いいえ、そこまでは望みません。どうしたら、嫌われずに済むのでしょうか」


 光り輝く貴い女神は、しばし戸惑うように口を閉ざした。蛇神の野暮ったい髪を、そっとたわやかな指で梳いて、浮かない様子で語りかける。


「私が今何を言っても、心得てもらえそうにありませんね。あなたの清らかな心の証を、みなに見せられれば良いのですが……。そうすればきっと、あなたが善き神であると、認めてくれるはずです」


 害する気はないこと、怖がらないでほしいこと。そうみんなに伝えたかった。でも、示す手立てを持ち合わせていないから、今日こんにちまで苦しんできたのだ。うなだれる蛇神の耳に、とある神が発した言葉が聞こえた。


「もし、まこと善き神ならば、パスチム山のしき神を平らげてみせよ!」


 それを皮切りに、神々は尻馬に乗るがごとく、口を揃えて囃しだす。声は次第に大きくなっていき、館を囲んでの大合唱へと変わっていった。


しき神……?」


 初めて耳にした名に、白く滑らかな衣を引いて尋ねた。


「……近頃地上を荒らす、天に末路まつろわぬ神のことです。元々はありふれた小さなわだかまりが、一つ所に集まって、あろうことか他人を弄んでは楽しんでいるようなのです。私がみだりに手を下して万が一のことがあれば、一気に世の危機へ繋がりかねません。代わりに使いを何度か送りましたが、誰一人戻りませんでした。それほどに大きな力を持つ神なのです」


 話を聞いて、嬉しくて思わず飛び上がりそうになった。誰もが手を焼く不届者を倒せば、みんな自分を認めてくれるに違いない。相手がどんなに強かろうが、蛇神も身に余る力を持っている。己の真価を存分に発揮できる機会が、ようやく巡って来たのだと思った。


「ぜひ、ぜひこの蛇神におまかせください! 必ずやパスチム山から彼の者を追い出してみせましょう!!」


 ここぞとばかりに、自信たっぷりに申し出る。だが、天の神はしばし沈黙してから、静かに言った。


「あなたはあまりに無垢です。しき神は心の弱みを突いてくる。腕力でねじ伏せられる相手ではありませんよ」


 意気込む蛇神の胸に、彼女の話はもはや届かなかった。他愛もないことだ。そんな隙もなく、疾く打ち負かしてしまえばいい。


「いいえ、いいえ! むしろ、我以外に成せる者が、どこにおりましょう? 傷つける力を守る力に変えられるなら、これほど嬉しいことはありません。どうぞおまかせください!!」


 すでに心は固く決めていた。それなのに、天の神は勢いに押されながらも、徐々に言葉を強くしながら引き留め続ける。蛇神はなぜ止めるのだろうと、不思議に思うだけだった。


「いけない……行ってはなりません。相性が悪すぎます。それに、もし打ち負けるようなことがあれば、神々はあなたをもう、受け入れてはくれないでしょう。それでも良いのですか?」


 一瞬、言い淀む。だが、せっかく巡ってきたまたとない機会を、みすみす逃すわけにはいかない。大きな体は、力強い腕は、ぶ厚い胸は、しなやかな尾は、おそらくこのためにあったのだ。蛇神は強く強く、訴えかけた。はじめのうち、なんとか宥めようとしていた天の神も流石に折れて、全てを悟ったように深いため息をつく。


「……本当に良いのですね? そこまで言うならお任せしましょう。でも、無理だと思ったなら迷わず引き返しなさい。絶対に気を抜いてはなりませんよ」


「はい! 必ずや、やり遂げてみせましょう!」


 ぱあっと顔を輝かせて、蛇神は二つ返事で快く引き受ける。生きるための道が、ようやく開けたように思えた。何より、頼られることなど初めてだ。しかも他でもない、天の神から。


 蛇神は館を囲む神々に、しき神を倒すことを高らかに宣言した。彼らはやいのやいのと責め立てたが、天の神が遮ると一斉に口をつぐむ。


「よく聞きなさい。ここに連なりし名だたる神々よ。この者がパスチム山のしき神を倒せなければ、所詮それまで。しかし倒した暁には、今までの行いを改めることを誓いなさい。秩序をもって、天の神が命じます」


 神々はいささか不服そうにしていたが、二柱を引き離せるのならと、やむなく応じる。それに、どうせもう生きて帰ってはこれまい、厄介払いにはもってこいだと、蔑みの言葉を吐く者もいた。ともあれ、力と想いを示す道筋は立った。


「……蛇神よ。パスチム山はもともと誰の物でもない土地でしたが、その心意気を讃えて、あなたに授けます。治める者がいれば、しきが蔓延るのも少なからず抑えられるはず。気高く清らかな心によって、彼の地はとこしえにさきわうことでしょう。これより先、あなたの名は輝ける雲チャンカヌ・バダル。さあ、気を付けてお征きなさい」


 天の神の言祝ぎを受けて、蛇神改めチャンカヌ・バダルは、揚々と地上へと天降った。

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