1話 天険のまほろば(3)

「ああ、もう一年経つんだなァ……。きっとエライ別嬪さんになってるんだろうよ」


 ゴダは館に手を合わせる。


「正直寂しくはあるけれど、それ以上に誇らしく思っているのよ。あの子……現人神様のこと」


 力ないハティラの肩を、ゴダがそっと抱く。ラケの目には、二人の後ろ姿がひどく侘しいものに見えた。どう言葉をかけようか迷っていると、ゴダが振り返ってラケとスニルを交互に見つめる。


「おまえさんたち、現人神様をしっかり守っておくれよ。……特にラケ、いや――神の御脚みあしさんよ」


 ラケの肩に大きな手が置かれる。じんわりと感じる温もりの中に、切実な思いが込められていた。


「ゴダさん……」


 彼の思いを深く受け止めて、ラケはゴダの手に自分の手をそっと添えた。


 ラケは侍従の中でも一番の側近だ。そのお役目は、神の御脚と呼ばれる。任ぜられた者は日中つねに現人神様に付き従い、その名のとおり足となる。つまり、彼女を抱きかかえてお運びするのが、ラケの役目だ。


 生きながらに神を名乗るのは、並大抵のことではない。親に会えないこともそうだが、彼女には神威しんいを留めておくために、多くの制約があった。


 言葉を発さないこと。祭りの日以外館から出ないこと。そしてとりわけ重んじられているのが、地に足を付けないこと。


 地面だけでなく、床に立つことすら許されず、座るものにすら気を使う。まじないを施した寝具や椅子など例外はあれど、生活をするにはことさら大変だった。人としての不自然さこそ、彼女を神たらしめるのだろう。


 神の御脚は、くじによって選ばれる。現人神様は災いの病を癒すため、仕える一年の間は健やかな心身を約束されたも同じだ。立候補者はみなこぞって徳を積み、げんを担いで選定に望む。誰しもが憧れてやまない、イェンダの誉れとされていた。もちろん、ラケも例外ではなかった。


 だが、役割に酔ってはならない。現人神様はイェンダの心臓だ。気の迷いや驕りは、集落の危機を招いてしまう。


 ラケはスニルに目配せした。彼も強い意志を持った目で答えてくれる。思いは同じだ。


 この実直で朗らかな夫婦にも報われてほしい。二人には、自分たちが集落の祭祀による犠牲者だとは、感じてほしくなかった。すべてのわだかまりを取り除くことは叶わなくとも、少しでも心穏やかに日々を過ごしてほしい。現人神様のお恵みを授かる者として、ある種の使命感すら感じていた。


「ああ、もちろん。天の神様に誓って、約束する」


 若人たちは決意を新たに、力強く頷いた。


***


 その後も四人で世間話をしながら、祭りの準備を進めた。ひと段落してふと顔を上げたとき、先ほどよりも人が増えていることに気がついた。すでに数人ほどが、手持ち無沙汰気味にそぞろ歩いている。あらかた飾り付けは終わったようだった。


 あちこちで細い煙が上がりはじめている。いつのまにか、広場には朝食のいい匂いが漂っていた。


 ラケは周囲を見渡して、深く息を吸った。色とりどりの災い除けの旗が風に舞い、青く澄み渡った空に見事に映えている。織絵巻タペストリーは陽の光に照らされて、織り込まれたかたの情景が、いきいきと浮かび上がっていた。風を受けて優雅にはためくさまは、心を奮い立たせる力がある。ゆうに百を超えるそれらには、イェンダの歴史と、人々の生き様が織り込まれていた。


 ラケには、自分が今ここに立っていることが、ひどく不思議に感じられた。途方もない積み重ねに気が遠くなる。この景色を見れば、イェンダの民でよかったと心から思えた。


「いい天気だ」


 スニルが誰に言うでもなく呟く。隣を見れば、彼もラケと同じように、しみじみと景色を眺めていた。


「うん――そうだな」


 ラケはもう一度、大きな肺をさらに大きくして、朝の空気を味わった。


「さてと、オレはメシ食いにいったん帰るわ」


「あ、俺もそうしようかな」


 会話を聞いていた夫婦は、やにわに立ち上がる。


「そうかいそうかい。じゃあ二人とも、これを持っていきな」


 ゴダはそばに置いてあった小さな籠をラケたちに手渡した。中を見れば、黄色いスモモがごろごろと入っている。集落の中で、新鮮な果実などめったにお目にかかれる代物ではない。そういえば、作業の途中で一度ゴダが抜けていた。今思うと、これを取りに行っていたのだろう。


「そんな、悪いよ」


「いいや受け取ってくれ。神の御脚と蛇神様に貢ぎ物をすりゃあ、徳を積んだことになるんだからよ」


 たしかにそういうものだが、いざ自分がもらう側になると、どうしても尻込みしてしまう。ハティラもぐいと籠を二人の胸へと押しやった。


「今日は忙しいだろうから、後日食べごろになるように見繕ったのよ。ご家族とも分けて食べておくれよ」


 まごまごしていると、スニルがスッと籠を手に取った。


「んじゃ、もらっとくよ。ありがとな」


 スニルはもらっておけと言うように、肘でラケを小突く。こうなったらラケも受け取るほかない。それにここで頑なになっても、ただ二人を悲しませるだけだ。


「……ありがとうございます」


 夫婦は満足げに、うんうんと頷いて顔を綻ばせた。

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