第7話 島本刑事家庭不和事件

私が夕方にミステリ研の部室に顔を出すと、既に来ていた兵頭部長が私に声をかけてきた。


「一色さん、一樹兄さんから今度の土曜日に夕食を一緒にしないか聞いてくれと言われたけど、どう?」


一樹兄さんとは兵頭部長の従兄の立花一樹さんのことで、明応大学医学部法医学教室の助手をしている。


「えー、デート?一色さん、立花先生に気に入られちゃったの?」とちゃかす美波先輩。私は顔が熱くなってしまった。


「そ、そんなんじゃないと思いますけど・・・」


「一樹兄さんは一色さんに相談に乗ってほしいと言ってたから、また謎を解いてほしいのかもしれないけど、本当のところは知らないよ」と兵頭部長。


「また、おもしろい、と言うか、妙な話を聞かせてくれるだけですよ」と私は平静な顔を装って言った。


「じゃあ、いいんだね?」と兵頭部長が確認してきた。「文学部の入り口に迎えに来るよう伝えておくよ」


「い、いえ、私が医学部の入り口に行きますから」とあせって言った。


土曜日になると、私は指定された時間に先日お邪魔した医学部棟の入り口前に立った。まもなく立花先生がひとりの男性を連れて医学部棟の中から出て来た。


「一色さん、お待たせ」


「こんにちは。・・・その人は?」私は立花先生の後ろに立っている四十歳前後の恰幅のいい男性を見ながら聞いた。


「この人は島本さん。刑事なんだ」


「え?本物の刑事さんですか?」


「こんにちは、一色さん。あなたのことは立花先生から聞いています。今日はぜひ僕の話を聞いてもらって、お知恵を拝借したいと考えてお邪魔しました」と渋い声で言う島本刑事。


どうやら何らかの謎を解いてほしそうな様子だ。デートじゃなくてほっとした・・・ような?


「私でお役に立てるかどうかわかりませんが」と一応謙遜したが、犯罪事件の話でも聞けるかと思ってちょっとわくわくした。


二人に連れられて近くの小料理屋に入る。それほど高級そうな店ではないが、居酒屋よりは料理の値段が高そうだった。


仲居さんに四畳半の個室に通される。室内にあったテーブルの奥の方に私と立花先生が並んで座るよう島本刑事に促され、島本刑事は入り口側に座った。すぐにお品書きを手に取り、仲居さんに瓶ビールを注文する。


「一色さんもビールでいいかい?」


「私は未成年なので、お茶でけっこうです」


「じゃあ、オレンジジュースを」と勝手に注文する島本刑事。さらにお造り盛り合わせや焼き鳥盛り合わせや漬け物などを、私の好みを聞きながら適当に注文していった。


「一色さんはこういう店初めて?」


「はい。ちょっと緊張します」


「たいした店じゃないから気を楽にして」と島本刑事が言っているうちに飲み物と料理が来たので、すぐにコップに注ぎ合った。


「それじゃあ乾杯!」と、私はジュースを、二人はビールを注いだグラスを持って乾杯する。そして島本刑事はぐびぐびとビールを一気に飲み干すと、取り皿にたっぷり醤油を注いで私に差し出してくれた。


「ありがとうございます」と小皿を受け取って礼を言うと、島本刑事は自分で自分のコップにビールを注ぎながら本題に入ってきた。


「僕はよく司法解剖の立ち会いに来る関係で、有田教授や立花先生と懇意にしているんだ。先日、教授の許にお邪魔した帰りに立花先生と雑談していたら君のことを聞いてね。何でも謎解きが得意だそうじゃないか?僕の抱えている問題を解いてほしいんだ」


「犯罪事件ですか?」期待して尋ねる。


「いやいや、そんなんじゃないよ、僕の個人的な悩み」と島本刑事に言われて私はちょっとがっかりした。でも、実際の事件の捜査情報を第三者に漏らすわけにはいかないよね。


「どんなお悩みでしょう」気を取り直して聞き返す。


「実は中学生の娘にね、最近嫌われているようなんだよ」・・・家庭の問題でしたか。


「思春期の娘が父親を嫌うことはよくあるそうだよ」と立花先生が口をはさんだ。


「一説では、近親婚を避けるための本能だと言われているけど。一色さんはその点どうだった?」


「私の家はラーメン屋をしていて、父と母は朝から夜まで働いていました。私も家の手伝いをしていましたが、夜はもらったおこづかいで買った探偵小説を読んだり勉強したりしていましたから、父とけんかするような状況はほとんどありませんでした。父のことを特に嫌ってはいませんでしたけど」と、ここ数年来の父との関係を思い出しながら答えた。


「いや、うちの娘もね、つい最近までは父親思いのいい子だったんだ。家事もよく手伝っていて、料理も家内に習ってうまい飯を作れるようになっていたんだ。それなのに一週間前から急に不愛想になって、わざと僕にまずい飯を出すようになったんだ」


「彼氏でもできて、そっちに夢中になってるんじゃないか?」とまたもちゃかす立花先生。


「そういうのを下種げすの勘繰りって言うんだ。僕は男じゃなく、若い女性である一色さんの意見を聞きたいんだ」そう言って島本刑事は私の方を向いた。


「どう思う?」


「娘さんが不愛想になられたきっかけに心当たりはないのですか?」


「家内が実家に帰ってからかな?・・・逃げられたんじゃないぞ、立花先生」と先手を打って立花先生に言う島本刑事。


「家内の母の具合が悪くなって面倒を見に行ってるんだ。それまでの娘は暗い顔をしていても、愛想笑いは見せてくれていたのに・・・」


「奥さんがいなくなって、娘さんが食事を作るようになったら、以前と違っておいしくない食事が続いたのですね?」


「そうなんだ」と言って島本刑事は刺身を一切れ取ってたっぷりの醤油に浸し、うまそうに口に入れた。


「うん、うまい!」すぐにビールをのどに流し込む島本刑事。


「ぷはっ!ビールもうまい!最近はあまり家で飲ませてもらえないんだ」


「お酒を出さないのも娘さんの意向ですか?」


「そうなんだ。・・・別に僕の酒癖が悪いわけじゃないんだが」立花先生の顔を見ながら言う島本刑事。


「奥さんがご実家に帰られる前にも娘さんが暗い顔をしていたと言われましたが?」


「うん。元々明るい娘だったけど、半年前に家内の父が亡くなってからかな。可愛がってもらっていたのに急だったから、ショックを受けていたのが尾を引いていたみたいで・・・」島本刑事は今度は漬け物に醤油をかけた。


「それはご愁傷様でした。失礼ですが、差し支えなければ奥様のお父様の死因を教えてもらえますか?」


「な、何だい、急に?・・・ただの脳卒中だと聞いているけど、病死じゃないって言うのかい?」あわてて聞き返す島本刑事。


「そういうことじゃありません。・・・失礼ついでにもう一つお尋ねしますが、島本刑事は血圧が高いんじゃないんですか?」


「そ、そうだよ。毎年健康診断で引っかかっているんだ。よくわかったね?顔に出てるのかな?」


「ビールを飲むとすぐに顔が赤くなるからかな?」


「いいえ。先ほどから見ていると、お刺身に醤油をたっぷり浸けたものをおいしいとおっしゃいましたし、元々塩気のある漬け物にも醤油をかけて召し上がっておられます」


「そうか。塩分を取り過ぎると高血圧になるって、数年前から言われ出しているからね」と立花先生。(註、昭和四十四年当時)


「立花先生、高血圧になるとどういう弊害がありますか?」


「高血圧が続くと動脈硬化になって、脳卒中や心筋梗塞を起こしやすくなる。日本人なら脳卒中の方が多いかな?」


「塩分を控えれば脳卒中の予防になるんですね?」


「そうだよ。最近、塩分摂取量が多い秋田県や長野県で食事の減塩運動が始まったと聞いたことがある」


「家内の実家も、僕の出身も、どちらも長野県だ」と島本刑事が言った。


「でも、そのことと娘に嫌われていることが、何か関係があるのかい?」


「ええ。・・・立花先生、飲酒も血圧に悪いのですか?」


「うん。大量に飲酒すると高血圧になりやすいってことも言われるようになったね」


私はそれを聞いて島本刑事に聞いた。


「娘さんが作られたまずい食事というのは、塩気が足りないという意味じゃないですか?」


「そうなんだよ。煮物もみそ汁も何もかも薄味で物足りないんだが、塩や醤油やソースなどの調味料が食卓から消えていて、娘に言っても出してくれないんだ。だから娘に相当嫌われていると思っていたんだ」


「嫌われたのではなくて、島本刑事の体のことを気遣っていたのですよ」と私は言った。


「半年前に好きだったおじいさんが脳卒中で亡くなった。・・・脳卒中が高血圧で起こりやすいこと、塩分摂取や飲酒が血圧に悪いことをどこかで聞いたのでしょう。そして父親である島本刑事も血圧が高い。半年前から島本刑事の健康を心配されていたんじゃないですか?」


私はジュースをすすった。


「そして一週間前に母方のおばあさんの具合が悪くなって、島本刑事も突然倒れるんじゃないかと不安が強くなったと思いますよ。・・・そこで塩分を減らした食事を出すようにしたのでしょう。お酒もついでに控えさせて」


「そ、そうだったのか。僕のために・・・」島本刑事は目頭を押さえた。


「でも、それなら一言言ってくれたらよかったのに」


「『塩分を控えないと脳卒中になっちゃうよ』と言うと好きだったおじいさんのことを思い出すし、最悪な事態が頭をよぎってしまうので、口に出して言えなかったのではないでしょうか?」


「・・・娘の反抗期じゃなくて、もっと医学的な問題だったんだね」と立花先生が口をはさんだ。


「奥さんのお父さんが脳卒中で亡くなって、血圧の高い島本刑事に娘さんが減塩食を出すようになったって説明してくれれば、一色さんにわざわざ来てもらわなくても僕でも答えられたのに」


「まさか義理の父の死因と僕の高血圧が娘の行動に影響しているなんて思わなかったから、そういう説明をできるわけがないよ」と島本刑事。


「むしろ少ない情報からいろいろ聞き出して、そういう核心事を引き出した一色さんの手柄だよ」


そう言った島本刑事が醤油をかけた漬け物を箸でつかもうとしていたので、私は漬け物の皿を手元に引いて食べるのを阻止した。


「娘さんの思いに応えるためにも塩分は控えてください」


うなだれる島本刑事。「娘の気持ちは嬉しいが、今後ずっと味気のない食事を続けなくてはならないのか・・・」


「そんなことありませんよ」と私が言うと、島本刑事が顔を上げた。


「薄味の食事を食べ続けていると舌が慣れて、薄味でもおいしく感じられるようになります。むしろ薄味の方が食材の味がわかると思いますよ。そうなると逆に今までの塩っ辛い食事が食べられなくなるでしょう」


「そうか。・・・薄味に慣れるまでがんばるよ」


「料理に出汁を利かせると、塩気が少ないのが気になりにくいらしいですよ」


「そうかい?・・・なら」と言って島本刑事はテーブルの上に置いてあった味の素の小瓶を取ると、醤油がかかっていない刺身にふりかけた。


味の素は調味料として、醤油やソースとともに家庭の食卓に置かれていることが多い。この小料理屋にも置いてあった。


「うん。何となく醤油が付いてなくても気にならないような気がする」味の素だけを付けた刺身をほおばって話す島本敬二。


「塩や醤油じゃないからって、あまりかけ過ぎない方がいいと思うよ。何事も程々が一番だから」と立花先生が釘を刺していた。


食事が終わるとにこやかな顔で島本刑事が私に礼を言った。


そして店の前で別れ、私と立花先生は反対方向に歩き出した。ちなみに今夜の食事代は島本刑事のおごりだった。


「今日も謎を解いてもらった。さすがだね、一色さんは」


「それほどのことじゃありません」まともに褒められると顔が熱くなる。


「また一緒に食事を行こう。君が興味を持ちそうな話をしてあげるし、時には相談に乗ってもらうこともあるだろうから」


「はい」と私は微笑んだ。立花先生とつき合っていると、いろいろ刺激がありそうだ。


立花先生と楽しく雑談を交わしながら歩いて行く私の姿を物陰から見られていたことに、私はまったく気づいていなかった。

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