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 本州の中北部、日本海側の北陸地方に位置する新潟県では、ご存知の通りよく雪が降る。僕はこの新潟県で生まれ新潟県で育ち、高校卒業と同時に新潟県を出て行った。それからずっと、僕は冬の新潟県に帰ったことはない。

 まだ小学校低学年であった僕は、冬の日にはよく雪遊びをしていた。家族でスキーに行ったことも、あの頃は何度かあったかもしれない。スキー場なんて思い浮かべるだけでも僕にとっては毒だから、もうかなり記憶が曖昧だけれど。

 僕はいつもひとりで雪遊びをしていたわけではない。僕には同じ歳の幼馴染がいた。僕の地元は田舎で子供の数も少なく、家の近所で同じ歳だったのは彼女だけだった。もちろん学校に行けば同じ年の子供がたくさんいたが、彼らは小学生の行動範囲では到底足の届かないような遠地に住んでいる人ばかりで、冬休みに気軽に遊びに誘えるのは、彼女だけだった。

 しかし彼女はいつも僕との雪遊びにあまり乗り気ではなかった。彼女は小学校低学年の頃の僕とは正反対のタイプで、内気でインドアな人間だった。学校でも本を読んでいることが多かったし、僕は彼女が昼休みに校庭に出ている姿を一度も見たことがなかった。

「セツナ! 遊びに来たよ!」

 年が明けて早々に、僕はニット帽を被り首にマフラーを巻いて手袋をはめて足には大仰な長靴を履いて、全身を防寒具で覆いつくした格好で、セツナの家のインターホンを鳴らした。積雪によっていつもよりもインターホンが低い位置にあったあの視界を、今でも覚えている。

 インターホン越しにセツナの母親の明るい声が聞こえた。まだ三が日も終わらないうちからセツナを呼びに来る僕のことを、セツナの母親は快く受け入れていた。セツナの母親は明るくて豪快な人で、セツナの家の前を通るとこの母親の笑い声が聞こえてくることが何度かあった。そんな母親は自分と違って引きこもりがちな娘のことを心配していて、だから娘をよく外に連れ出してくれる僕のことをよく思ってくれていた、のだと思う。当時の僕はそんな母親の心情など毛ほども気にしていなかったが。

 インターホンを鳴らしてから十分ほど経って、やっと玄関の扉が物々しく開いた。朝のうちに家の敷地内だけは雪かきを済ませていたらしく、門の向こうとこちらで地面の高さにかなりの違いがあった。セツナは僕とほとんど同じ格好だったが、唯一露出されている目元だけでも、彼女が僕の来訪に苛立っていることは十分に感じ取れた。彼女は不機嫌そうに息を吐いて白い空気をくゆらせながら、気だるげに家の門から出てきた。

「雪合戦しようよ!」

「えぇ……」

 雪合戦だけは絶対にしたくなかったんだけどな、とでも言いたげにセツナは顔を顰めた。そこまで雪合戦に強いこだわりがあるわけではなかったので、僕は気を遣って「やっぱり雪だるま作ろうか」と言った。するとセツナはしぶしぶといった風に無言で頷き、その場にしゃがみ込んで雪を集め始めた。「どっちが大きいの作れるか勝負な!」と僕は彼女の背に向かって言ったが、彼女は何の反応も返さなかった。

 僕も彼女に背を向けて、せっせと雪をかき集め始めた。その日は前日の大雪から一転して雲一つない晴天で、真っ白な雪は太陽光を反射して輝いていた。その輝きに目を細めながら、僕は自分の手を熊手のような形にして雪を掘り、ひとつの玉として固めていった。

 それからは無心でただただ雪を集めて、その雪を雪玉に加えていくという作業を淡々と進めた。その間、セツナの様子は一回も見なかった。小学生の頃の僕は、こういう単純作業に没頭できるような体力を持ち合わせていた。

 やがて、僕の雪玉がバランスボールくらいの大きさになったとき、不意に背中に衝撃があって、僕は前のめりに雪の中へ倒れこんでしまった。四つん這いのまま振り向くと、セツナが手の平に雪玉を持って、こちらを睨むように見つめていた。

「い、いきなり何すんだよ」

「雪合戦、したいんじゃなかったの」

「雪だるまは? セツナの雪だるまは、どんぐらい大きくなった?」

「作ってたけど一回崩れて、めんどくさくなっちゃった」

 そう言って、セツナは手に持っていた雪玉を僕に投げた。僕は咄嗟に腕で顔を覆って、攻撃を防ぐ。僕はにやりと口角を上げながら、彼女の様子を窺いつつ自分の雪玉を作り始めた。彼女もすぐにしゃがみ込んで雪玉を作っている。

 いち早く雪玉を作り終えた僕は、野性的な高揚感の赴くままに、しゃがみ込む彼女の背に向かって思い切り雪玉を投げつけた。



「あ、僕の家、ここです」

 あれから十五分が経って、僕は雪女に肩を貸してもらいながらも無事帰宅することができた。目的であった食料調達も完了したし、適当にインスタント麺でも食べたら今日はもう寝てしまおう。

「では、僕はもう大丈夫なので。ここまでありがとうございました」

 僕が肩を外そうとすると、自称雪女はぐっと僕のジャケットを掴んでそれに抗った。

「いやいや、ちょっと待ってくださいよ。今の話どういうことですか? ただ楽しそうに幼馴染の女の子と遊んでただけじゃないですか。まだ何も起こっていないじゃないですか。今の話のどこに雪を嫌いになる要素があったんですか?」

「何も起こっていないわけではありませんよ。僕はセツナ——あの幼馴染の女の子と雪合戦をしたから、雪が嫌いになったんです」

「意味わかんないですよ。ただの素敵な思い出の一ページじゃないですか。どうしてそれがトラウマになるんです?」

「それはまあ……もういいじゃないですか。あなたも仕事があるでしょうし、僕もこう見えて、けっこう仕事が忙しかったりするんですよ。そもそもあなたは、これから高知に行かなければならないんでしょう?」

「いえ、高知に出張に行くことよりも、わたしはあなたの話を聞くことを優先します」

「あなたが独断で決めていいんですかね……」

「いいんですよ」

 彼女は僕に肩を回したまま、そして僕のジャケットを力強く掴んだまま、そう宣言した。

 しかし僕には、そんな彼女の熱意を尊重できない事情がある。

「僕はもう、これ以上雪の降る街に身を置いていたらどうにかなりそうなんですよ。だから申し訳ないですけど、あなたとはここで……」

「じゃあ、わたしがお兄さんの部屋までついていけばいいんですね?」

「…………」

 なんとなくそんなことを言い出すんじゃないかと予想していたから、それほど動揺しなかった。いや嘘だ、動揺はしている。その日会ったばかりの女性を自分の部屋に連れ込んだ経験は僕にはない。今まで健全な付き合いしかしてこなかった。

「それはさすがに、できませんよ」

「どうしてですか?」

 僕はそこで彼女と目を合わせた。さっきまで後ろめたい思い出話をしていたからか、まともに彼女の顔を見ることができていなかった。

 彼女は先程までと同じく、社会人女性らしい薄い笑みを浮かべていた。見るだけで警戒心をほぐされるような微笑み。この微笑みは彼女特有のものだと思った。

「……ごめんなさい。少しだけ部屋を掃除させてください。その後なら、部屋に上がってもらっても構いませんから」

「本当ですか? ありがとうございます!」

 そこでやっと彼女は僕から手を離した。にっこりと表情を緩めて、嬉しそうに手を合わせている。

 エレベーターを使って彼女ともに部屋の前に辿り着き、彼女を廊下に待たせたまま僕は部屋の中を適当に掃除した。それから彼女を呼びに行くと、彼女は何の遠慮もなく、まるで僕たちが旧知の仲であるかのように自然と部屋に上がり込んできた。履いていたクリーム色のヒールはきちんと玄関で揃えていた。

「へぇ、ずいぶんと落ち着いた部屋に住んでいるんですね。なんていうか……無趣味?」

「まあ、自宅で仕事をしているものですから」

 彼女は「へーそうなんですねー」と相槌を打ちながら、僕の部屋を色々と物色し始めた。本当に彼女には躊躇というものがない。僕の中の雪女のイメージでは、もっと慎み深くて上品で、それでいて腹の底冷えするような恐ろしさを持ち合わせているような、静かで怜悧な女性を想像していたのだけど。

 本棚の前でしゃがみ込んで、本の一冊一冊を指でさしながら確認している彼女に僕は呼びかける。

「あの、僕昼食がまだなので、これから食べてもいいですかね」

「あ、わたしもお昼まだなんですよー」と言いながら、彼女は首だけこちらに振り返った。

「あのー、わたしの分も用意してくれたりは……?」

「……わかりましたよ」

「あと、間違えて高知のホテルしか予約してないんで、わたし今日泊まる場所ないんですよねー……困ったなぁ……」

「……ソファでもいいなら」

「やったぁ! お兄さん優しいですね~」

 この人は僕のことが男に見えていないのだろうか。自分が今、一人暮らしの男の部屋に二人きりの状況でいるのだという事実に気付いていないのだろうか。僕という成人男性と一晩を同じ部屋で過ごすことの意味を、彼女はちゃんと正しく理解しているのだろうか。

 彼女がずっと無遠慮な振る舞いを続けているので、僕の側も彼女を来客としてもてなすのはやめにした。いつも通りにインスタント麺を二人分調理して、何の付け合わせも用意せずにラーメンを彼女に寄越した。

 いつもは一人で座るテーブルに彼女と向かい合う。僕が手も合わせないまま箸を持とうとすると、彼女にその腕を掴まれた。

「ちょっと待ってください。どうせなら、さっきの続きの話をしながら食べましょう」

「あぁ、まあ、そうですね」

 僕は軽く頷いて、ラーメンを一口啜ってから、あの日の続きを語り始めた。

 できるならこの続きは語りたくなかった。あそこで話を打ち止めにして真実は語らずに、彼女が好き勝手に僕のトラウマについて邪推してくれたほうがよかった。実は僕はセツナにずっと片思いをしていて、しかしその片思いは結局成就せずにセツナは僕よりも先に結婚してしまって、僕は今でも子供の頃に彼女と雪遊びをしたことを時々思い出してしまうから、僕は雪が苦手なんだ、とか、彼女がそんな風な的外れな推理をして納得してくれたほうが、僕は楽だったのかもしれない。

 しかし、一度語ると決めたからには、この先を語らないと意味がない。さっき彼女が指摘した通り、僕は話の中心的な出来事を何一つ語っていない。

 だから僕は、自分の犯した罪について、ゆっくりと語り始めた。

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