忘却の炎に焚べろ

 起きてまずやったことは、無力な自分を呪って壁を殴ることだった。ムーがいない。意識を失う前の最後の記憶に、あいつは逃げて、と言った。その前に銃声もした。

 多分組の奴らの仕業だ。消音器付きの銃を振り回している人間なんてそういない。

 何でか分からないが、あたしとムーに銃を向けた。そして今、ムーがいない。連れて行かれたのか。

「ふざけんなよ」

 怒りが沸々と込み上げる。人の大事なものを奪った組員にも、そして……ムーにも。もう一度壁に打ち付けた拳が痛かった。

「お前を置いて逃げるわけねえだろ!」

 あたしは迷わず来た道を駆け戻った。



 見張りに立ってた男の頭を後ろから掴み、ここに立っている理由を消す。突然の事に膝を折った男の頭を適当に放り捨てる。がらんどうになった入口から堂々と事務所に侵入しながら、ああ何か忘れたな、と失った記憶の片鱗が脳内に漂うのを感じた。本当に大切な記憶以外はどうでもいいんだ、あたしは。

 ムー。あたしのたったひとりの家族。友達。大好き。愛してる。いま迎えに行くから待ってて。

 絶対にこれだけは忘れないようにと脳内に何度も刻みつけ、階段を駆け上がる。あの臆病野郎はきっと三階の組長室だ。

 踊り場には二階の控え室から出てきたらしい鉄砲玉達が、何事かと数人出て来ていた。あたしの姿を見つけるや、奴らは階段を駆け下りてナイフを出し、襲いかかってくる。

 刃があたしに届く前に素早く懐に入り、その額に人差し指で触れる。それだけで屈強な男は何故今ここで刃物を振り回しているのか分からなくなったようで、その拍子に足を踏み外して転げ落ちていった。

 次々に雪崩掛かる男共をそうして躱し、頭に触れ、記憶の一部を抜いて階下に蹴倒していく。等価交換的にあたしの記憶も機銃掃射を食らったように穴だらけになっていく。

 二人で服を買いに行ったこと、仕事終わりに飲みすぎて吐いた後の呆れたムーの顔、介抱してくれたときの澄ました横顔、季節の花を摘んで渡した時の驚いたような顔。

 一人一人すれ違う度に忘れていく。寝て起きた後の余韻みたいに消えていく。何もかも。

「ああもう! これ以上忘れたくねえんだよ! 忘れるなよ!」

 戦意を失った若衆を背に、ピンク髪を掻き毟って叫ぶ。こんな奴らに構ってる暇はねえのに、差し出していい記憶なんて残ってねえのに!

 誰かが落とした古釘を拾い、左腕に突き刺し文字を刻む。『ムー』『ともだち』『たすける』……ぱっくり開いた傷から鮮烈な痛みが血と共に吹き出した。

「あああクソ痛ええええええ忘れるな忘れるな忘れるな!!」

 叫びに呼応するように、二階からさらに人が湧いてくる。そのうちの誰かが撃った銃弾があたしの左肩に命中した。

「あああ痛えじゃねえか!!」

「馬鹿! こんな狭いところで撃ってんじゃ――」

 溢れ出る血に脇目も降らず、男達に駆け寄って次々に記憶を抹消してやる。深い恐怖と憎しみを消すのに、たっぷり一年半分の思い出が掻き消えた。

 呆けた顔の男を階下に放り捨てると、あたしを撃った奴は震える手で拳銃を取り落とし逃げ出した。

 痛え、なんで肩から血が出てんだ。ここは……組事務所か。なんでムーがいない。見回して、左腕の血文字が目に入る。『ムー』『ともだち』『たすける』……そうか、きっとこの先で待ってるんだ、ムーが。

 絶対助けるから。待ってろ。もう、大切だという感情以外、ほとんど思い出せないけれど。

 落ちていた銃を拾って組長室の前に立つ男に向ける。

 今しがた扉を開いてボスに報告しようとしていたらしい彼に飛び掛かり、その勢いで部屋に足を踏み入れる。

 待ち受けていたボスは、扉の向こうから来るのが誰か確認しないままに連射したようだった。見張りの男に全弾命中し、彼は呻き声と共に崩れ落ちた。

 その陰から現れたあたしを見て、高そうなスーツの男は憎々しげにこちらを見た。

「死んだと報告を受けていたが……しぶといな」

 一歩踏み出したあたしに、ボスは引き金を引く。が、かちりと玉切れの音がした。どうやら無駄撃ちが過ぎたらしい。咥えていた葉巻を落とし、机の引き出しに予備の弾倉がないか探っている。あたしは歩みを止めない。

「もう消す記憶も残ってないだろ? 大切な人形のことを忘れても良いのか?」

 拾った拳銃を適当に構えて撃った。運よくその太った腹に命中し、ボスはくずおれる。あたしは歩みを止めない。

「おい、誰かいないのか、こいつを殺せ! 殺せ――」

 ボスの要請に応えるものは誰もいなかった。ひとり残らず逃げ出して、彼の元には何も残ってはいなかった。情けない顔が、あたしのすぐそこにあった。

「ムー、を返せ」

 喚くスーツの男の頭を両手で鷲掴みにして、額を突き合わせる。怯えて見開かれた両目がすぐそこにあった。こいつだけは許さない。

「あああああああああああああああああ」

「うおおおおおおおおおおおおおお」

 ありったけの怒りと脳内の残滓を忘却の炎にべて、目の前の男の脳味噌を白く白く染め上げる。記憶も、認知も、何もかも灰になって消えていく。

 視界がバチバチと白く瞬いて、背筋が震えて全身総毛立った。

 最後に思い出したムーは笑ってた。

 会いたいよ、ムー。

 これで邪魔する奴らはもういない。

 ああ、消えていく。

 待って、行かないで

 何ものこらない

 なんでないてるの

 ………………

 …………

 ……

 ……

 ここは

 どこ?

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