第45話 閑話:アニエス・ワーウィックの逆鱗

 ことを成した。残るはこの命を聖帝陛下に捧げるのみ。

 アニエス・ワーウィックは滝のように涙を流していた。自らの怠慢、不忠、油断により、斯様な苦労を聖帝ローラント一世にかけてしまったことを、心の底から悔いる。もはや殉死以外に道はない。そう強く考えていた。


「やめよ、朕は臣下が死ぬのを見とうない」

「へ、陛下……」


 不始末を犯した家臣に対し、かけられた言葉は慈悲。生きよ、と命令された。

 身体中の力が抜け、地面に短剣を落としてしまう。アニエスは己が企図していた行動が、陛下の心痛を誘うものであると知り、自分の未熟さを強く恥じ入った。

 だが訊ねずにはいられない。果たしてこのような無価値な自分が、今後とも近衛としてあっていいのかと。


「聖帝陛下、臣めは近衛としてあるまじき失態を犯しました。如何様にも処分されることは覚悟のうえでございます。されどこの身は陛下の盾として消費されるを選びました。それ以外に身の振り方を知りませぬ」

「うむ。では朕が卿の罪を赦免しよう。此度の仕儀は朕の自由意志による放蕩である。よって帝国において罪人となるものは無し。何人もその任を解かず、これまで通りに朕に仕えよ」


 前例なき寛大なる言葉。アニエスはもはや感動のあまりに身が震えるのを抑えることができなかった。

 1700年という長き間、帝国の苦難を一身に受け、臣民を指導教育し、兵に愛情を注ぎ続けてきた偉大なる皇帝の言だ。平素であれば一介の家臣が聞くことすら許されない玉音を、遍く将兵に直接届けるという厚恩に、あちこちで泣き崩れるものが多数現れた。


「陛下のご厚情、一臣下として恐悦至極でございます。できますれば陛下の御恵みを帝国三億の臣民にも賜りますよう、伏してお願い申し上げます。どうぞ臣めと共に帝国へお戻りくださいませ」


 玉体への直訴は斬首されても文句のいえない蛮行だ。それでもアニエスは近衛として、一人の帝国人として今後の繁栄を願わずにはいられなかった。

 聖帝ローラントの行動に直言するなど、言の葉に昇ることすら畏れ多いことではある。一死大罪を謝す思いでアニエスは言葉を絞りつくした。


「朕はこの南大陸で生きる。帝国は卿らが統治せよ。自らの力で考え、適切な政治体制を開発し、民衆の最大幸福に寄与すべく知恵を出し合うのだ」

「そ、それはあまりにご無体な……我らに落ち度がございましたら即座に改めまする! どうか帝国を、民をお見捨てにならないでくださいませ!」


 原因はなんだ。誰の責任だ。何が陛下の心を惑わせた。アニエスは頭を最大限に回転させる。

 ローラント一世の言葉から、今後の帝国に支柱が無くなる可能性が示唆された。それは大いなる混乱と、帝権不在による権力闘争が始まることを意味する。

 なぜだ、なぜ陛下は……。答えは出ない。アニエスは自らの矮小さと無能さを心より嘆いた。なぜ自分は陛下の御考えの一端すらつかめないのかと、南大陸の土を握り締めながら絶望の淵に追いやられていた。


「近衛騎士アニエスよ、卿は朕に仕えて何年になる?」

「え、はっ! 10歳の時に側仕えに召されて以降、10年間お仕えする栄誉を賜っております!」

「10年か。ふ、思えば卿も年頃の子女。恋の一つでもする機会があったろうにな。不憫なことをしてしまった」

「そのようなことはございません! 我が身、我が心は陛下と共にあります。情の理論で動くほど腑抜けた訓練はしておりませぬ。御心砕き誠に感謝いたしますが、私は幸福であると断言できましょう!」


 物悲し気な聖帝の顔が、アニエスの瞳に映る。そして二度三度と、頭をなでられた。我が子を慈しむように、ゆっくりと。

「大儀であったな」

「うぐ……へ、いか……ぐすっ」

 不老不死の皇帝の手が、自分のような俗人にお触れになられた。帝国では陛下がこのように臣下を労うことは至極稀なことである。


「許せ、アニエスよ。朕はこの南大陸で再び己を試したいのだ。故に卿らに命じる。朕は必ず北大陸に、帝国に戻るときが来る。それまでにより一層の繁栄を成すのだ」

 稲妻に撃たれたような衝撃だった。

 聖帝とは帝国であり、威光はすべて聖帝より発せられるもの。


 聖帝ローラントが自らの身を削った結晶ともいえる成果物を、貪欲に安楽を享受するだけの我らに託すと宣されたのだ。

 一層の繁栄を成せ。これは勅命だ。

 万難を排し、ありとあらゆる手段を用いても達成するべき事案である。


「詔勅、承りましてございます。されど我らすべて陛下の赤子せきしにして忠義の臣でございます。今後生まれ行く実りや富の所有権のことごとく陛下に献上するは、これ道理かと」

「無用なり。朕が食むべき富は朕自らが生む。そちたちは己の身を案ずるがよい」


 聖帝の意思は固い。これ以上は一介の騎士が口出しをするべき問題ではないとアニエスは判断する。聖帝の意思、すなわち帝国の意思だ。


 だが一点。この一点だけはいかに不興を買おうとも、糺しておかなくてはならない事柄がある。己が直面した未曽有の異変に、アニエスは血が凍るような思いだった。


「陛下のご聖断、しかと。しかしながら臣は陛下にお伺いしたき儀がございます。願わくば発言の許可を賜りますよう、伏してお祈り申し上げます」

「構わぬ、申せ」

「はっ、それでは……」


 一陣の風が戦場を舞う。大地に眠る人々の間をすり抜け、無念のうちに散った魂を乗せて天へと吹き上がっていく。その途中で、ローラント一世の髪の毛も連れて。



「陛下。その御髪は……一体……」


「……定めじゃ」


 偉大なる聖帝、誉れ高き皇帝の寂寥とした視線を、どうして見逃せようか。

 アニエスは一瞬にして悟る。陛下の毛髪を耕し、爆撃を仕掛けたのは南大陸人であることに。そう、すべてはこの穢れた未開の地が陛下に呪いをかけたのだと。


「なんという……ことを……。陛下、このアニエス、御心に触れること叶わずとも、常に陛下の御味方として側にございます。陛下の頭髪の乱れは帝国の乱れ。ひいては臣民が苦痛を共有すべき危機でしょう。聞け、皆の者!!」


 兵士たちが立ち上がる。彼らの双眸には殺戮の気炎が宿り、形相はまさに鬼神のごとし。帝国人の誇りが、名誉が、存在が。目の前で踏みにじられて立たぬは、これ武人として不適格なり。


「陛下の御髪を照覧せよ! 奇怪なる惨状を招いたのは今ここにある呪われし大陸だ! 我ら帝国人に唾を吐きかけ、汚泥を塗り、足を釘で刺したのだ。陛下の毛髪は国家の神聖な宝である。財貨を奪いし賊を生かしておく道理はこの世に存在しない!」


 ジャキンと銃が天に掲げられ、軍靴がカツリと踵を合わせる。

 帝国の正式な軍礼だ。


「蛮族どもに死の鉄槌を! 聖帝陛下に傷をつけた愚物どもを根絶やしにせよ!」

「おおおおおおおっ!!」

「聖帝陛下万歳! 帝国万歳!」

「南大陸に我々の軍靴の音を響かせるぞ!」


「全軍突撃! よもや命を惜しいと思うな! 北大陸人が生き残ればそれが我らの勝利だ!」


「待て、待ちなさい。いや、むべし」


 聖帝ローラント一世は、今渾身の決断を迫られていた。

 自らが建てた帝国の臣民の望みを叶えるか。

 それとも冒険の夢を見続けるか。


 全てを見透かす黒いオニキスのような瞳は、千人の賢者をも超える才知をたたえて、今全軍を鼓舞している。

「朕ここに――」


――

 いぇあああああああああっ!!

 無理、もう無理ぞ。誰だ、アニエスなんぞ送り込んだ大馬鹿野郎は!

 朕はただ冒険がしたかっただけというのに! 干し肉を口にくわえ、剣を一本腰に差し、無頼にワイルドに。

 どうしてこうなった。


 ごくり、と唾をのむ音が聞こえる。

 次、次の一言で全てが決まる。


「ち、朕は……」


 どうしよう。

 ええい、怯懦は敵ぞ。朕は自らの本質を見失ってはならぬ。

 すべては民のために。朕は、この南でも民と生きるのだ!

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