第16話 不死の皇帝、病ん娘(むす)の恐怖を味わう

 一日の始まりは頬をなぞる舌の感触から始まった。

 朕の傷は気がついたら治っている性質だ。自力で回復魔法をかけることもできるが、大聖堂でそんなことをするわけにはいかない。既に血は止まっているはずなのだが、この神子・キサラがしきりにほじくってくるのでいまだに負傷したままだ。


 南大陸では珍しい、というか初めての香り。

 柑橘系だろうか、爽やかで甘い匂いに包まれた。


 それにしてもここはどこだ。先ほどの応接室じゃない。


「おはようございます、ローエン様。寝汗をお拭きしますね」

「いや、別に汗はかいてないのだけど」

「嘘……つきですね」


 朕のおでこに触れて、冷や汗を指でぬぐう。

「ほら、こんなにいっぱい。私が今からきれいきれいしてあげます」

 濡らしたタオルでそっと顔を拭かれる。

「この手錠を外してくれれば自分でできるんだが」

「だめですよぅ。あ、耳もお掃除しましょうね」


 ちゅる、ハァ……、あむ、んむ。れろ、じゅっじゅ。

「おおおおおおあああああっ!」

「動いちゃだめです。私に全部まかせてください」

 んっ、あむ。ふうぅ、ふうぅ。ちろちろ。しゅき。

「ぬふううううううううう!」


 頼む、それだけは勘弁してくれ。耳は、耳は……。

「はぁぁ、こんなに真っ赤っかになって。いい子いい子。あむん」

「今すぐやめてくれ。マジで頼む。他は構わんから耳だけは!」


 あのね、ASMR大好きな人たちにはわからんかもしれないけど、朕は耳ほんとにきっついのよ。こう鳥肌が全身に出て、吐きそうなほど気持ち悪くなるんです。

「はあ……はあ……。いや、ありがとう。それよりもお腹がすいたし厠に行きたいんだが」

「はい、かしこまりました。ふふ、じゃあ『今日は』これくらいにしておいてあげますね」

 明日もあるんかい。いや、ミィの罵倒の方がまだマシぞ?


「じゃあおしっこびゅーってしましょうね。はい、どうぞ」

「え、いや自分で行けるから」

「私の見てないところで何をするつもりですか? 私はローエン様のキレイなものもキタナイものも全部受け止めますよ?」


 だからといってオマルを笑顔で差し出されるのは無いよ。人としての尊厳が過労死しちゃう。

 ガチャリとベッドにつながれていた部分を外してくれた。一応立って用をたす方向でいくらしい。

 考え事をしていれば済むか。朕も男ぞ。その昔に調子こいて女性を集めたときにも似たようなシチュエーションがあったかもしれない。年の功は強いな。


 じょんじょろろー。

「あは、ちーちーおじょうずおじょうず」

 でもこいつはいつか始末する。朕の殺害リストの上位にランクインだ。

 

 それにしても、驚くべきことだ。

 この手錠、創造神の加護を受けている朕の膂力を以てしても外すことができない。バレない程度の、外見に影響がない魔法を使っても脱出が不可能だった。

神遺物アーティファクト』級の耐久性だ。キサラは便利な拘束具程度にしか考えてないかもしれないが、これが北大陸にあったら朕は相当な苦戦を強いられていたかもしれない。


「じゃあ、ふきふきしましょうね。それとも……」

「ぜひ拭いてくれ」


 脱出条件。絶対にスタンドしないこと。合体しないこと。暴発しないこと。


 戦火を潜った鉄血の意思と、動乱を乗り越えた鋼の心が朕の武器よ。

 明鏡止水。

 水面を揺らすことなく、夜に浮かぶ月を映し出す、研ぎ澄まされた精神は武に生きるものにとって必須の心得だ。

 茶室に籠りて恩師に一服の喫茶を味わってもらう。そのためには一挙手一投足に魂のすべてを込めること。それが禅の境地。


「じゃあこうやって私のお山にぱんつ被せて拭いちゃいますね」


 くああああああっ! 噛め! 自分の舌を噛め! 般若心経を唱えよ! 

 くっそ、こいつ、その発想力をもっと別に活かせよ! これ絶対ダメな発明じゃん。てか流石に神子は下着つけてるのな。その辺はちょっと感心したわ。

 使い方が絶望的にド畜生だけど。


「はい、きれいになりました。まだびゅーってします?」

「イイエ。仏説摩訶般若波羅蜜多心経—―」

 キサラは不思議そうに小首をかしげていたが、気を取り直したのか食事の準備をするべくハンドベルを鳴らして教徒を呼んだようだ。観自在菩薩行深般若波羅蜜多—―


 香ばしい匂いが漂ってきた。ペストマスクの教徒さんが柔らかそうなパンをバスケットに入れ、茹でたジャガイモとオレンジ色のスープを持ってきてくれた。スープはニンジンをすりつぶしたものらしい。ちょっと安心した。


「ん」

「え、キサラが食うの」

「わらひがやわらかくひてあげへるんれふ。もにゅもにゅ」


 だめだ、こいつと一日居たら調教される。キサラ抜きでは生活できなくなる気がする。

「ローエン様、どうぞ。いっしょにもぐもぐしましょぅ」

「断る」

「だめですよぅ。きさらがもぐもぐを独り占めしたいんです。他の誰もローエン様にもぐもぐさせちゃいけないんです。それにほら、これ」


 キサラはカギをひらひらさせている。それをシスター服の谷間に入れると、口を近づけてきた。


「キサラの隠し味、めしあがれ――食べてくれますよね」

「ぐぬ、いいだろう。食べようじゃないか」

「やったぁ。はいあーん」


 くそ、生暖かくてどろっとしたものが流れ込んでくる。これじゃあ病人の流動食だ。味も何もあったもんじゃない。


「ぬぷ、あむ。んふっ、ん」

「待て待て、長いぞ」

「私ずっと待ってたんです。運命の番が現れるのを。それは神々しくて、尊くて、唯一無二で。それに教会では、こういうことはいけないって言われてたんですけど……ローエン様のお顔を見てるともう、魂が潤んでしまって、我慢できなくて」


――

 キサラの密着取材は食後も続いた。マジでこいつずっと朕の顔見てるんだけど。時折熱っぽい溜息を吐いているが、一向にカギを手放す瞬間が現れない。


「キサラ様、ご昼食のお時間です」

「ありがとうございます。では私が『責任もって』召し上がっていただきますので、貴女は下がっていてください」

「かしこまりました」


 なんだ、あの教徒。じっと朕を見ていたな。別に望んでやましいことをしているわけじゃないんだぞ。そういう目でみないでほし……い。

 教徒は頭を動かして何か合図をしている。

 朕の顔、パンかご。朕の顔、パンかご。


「はい、それじゃあなにからもぐもぐしますか? キサラの香りでローエン様を包んでさしあげますから」

「パンだけでいい。動いてないからあまり腹が減ってない。」

「はい、かしこまりました」


 キサラがパンを咀嚼しようとして朕は急いで止める。

「キサラ、硬いままがいい。その口で食べさせて……くれないか」

 顔がぱあぁっと明るくなる。地球で言えば満開の桜といったところだ。

 だが次の瞬間には無表情になった。


「おかしくないですか。朝はあんなに嫌がってたのに、どうしてですか。変です、疑問です。なんでそんなに積極的になったんですか。そうか――パン、これですね。確か今日の厨房はマリーナの当番でした。あの子のこねた小麦粉が食べたいんですね!  

私が食べさせるよりも、あの子の指の味の方がいいんですね! ローエン様は間違ってます。ローエン様は私の、私だけのことを見てくれなくちゃいけないんです!!」


 はぁはぁ、と肩で息をしている。確かにあからさますぎたな。これでは誰でも疑ってしまうだろう。ここは心砕くときか。


「いや、単純にパンが食べたかっただけなんだが……今まで黒パンしか食べたことがなくてな。キサラがどう思うかは知らないが、パンに罪はない。そして俺はパンが食べたい」


 がしっと顔を掴まれる。いたたた、爪を立てるな。

 じーっと目を合わせてくる。朕はこれに正面から挑む。


「ならよかったです。ふぁい、どーぞ」

「ああ、もらうよ」


 朕の口内にパンをねじ込み、一緒に舌が入ってきた。疑われないようにおっかなびっくりと先っちょを舐める。

「んううっ、くぅんっ。はぁ、はぁ」

「お、美味しい。いいパンだな」

「キサラ味のパンがお気に入りなんですね。ローエン様が眠ったら厨房に申し付けておきます。パンがいっぱいほしいって。もちろん男の料理人が作ったものですよ」


 ああ、美味しいよ。

 針金の味は久しぶりで、感涙にむせび泣きそうだ。

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