森と日記

今朝見た夢はいい匂い


 私と母の住む一戸建ちの青いお家は、緑の深い森の端に接していました。

その森は年中草木がたくさん生えていて、葉の色はいつも瑞々しく鮮やかに、思い思いに日光浴をしていました。

 お家のわきには森の入口があって、そこだけは不思議と木が生えずぽっかり半円形に開けていました。森の玄関にはいつも柔らかい芝生と可愛らしい花が生え、それを囲む木々がまるで小さな花々を見守るように、温かく、七色に輝く光をいつも注いでいました。

 私は光が溜まり緑が香るその場所が好きで、毎日のように一人で覗きに行っていました。

 しかし母から、森に入ってはいけないと、つねづね言われていたので、お家の玄関の近く、森の入り口で草木の香りを存分に飲み込むだけにして、その奥にある暗い小道はいつも見ないようにしていたのでした。

 お家には短い廊下でつながった離れ小屋があって、そこが一番森に近く、森からの光も入る部屋でした。しかしその小屋は私の生まれる前からずっと物置になっていて、たまに本を取りに入ったり、置かれた植木鉢に水をやりに入ったりするくらいしか人が入る事はありません。

 私は水やり係であったので、ときどき小屋の中でこっそり家族の過去を覗き見るのが好きでした。

 ある日、離れ小屋で遊んでいたときのこと、私は古びた日記を見つけました。その日記は誰もいない小屋に置かれた、ぼろぼろの青い机の引き出しに入っていたのでした。

 母に尋ねると、その日記は従祖父のモノであると教えてくれました。

 このお家はわたしたちの祖父が子どもの頃から住んでいた家で、離れの小屋はその弟である従祖父の部屋であったそうです。誰もいない部屋に置かれた植木鉢は従祖父の物だったのかもしれません。

 母が言うには、従祖父は人付き合いが好きでは無かったらしく、毎日あの森で物思いに耽り、家族ともあまり言葉をかわさず森だけに心を開いて、そんな日々の末いつしか心の病にかかり、若くして亡くなったということでした。

 私は離れで古びた椅子に座り、従祖父の日記を読みました。

 日記には従祖父の見た風景がありありと描かれていました。森の草木の様子、周りの人々の風景、従祖父がどのように世界を感じていたのか。従祖父の言葉は、それらを私の胸にはっきりと浮かび上がらせました。

 従祖父の儚げな細い文字は、私を彼の夢の世界へ連れて行ったのでした。

 日記を読み終わり、私は久しぶりに空気を吸い込んだ思いになりました。

そのとき私は、外の景色を遠巻きにしてひっそりと自分の世界で生きる従祖父の人生に、強い憧れを持ちました。

 私もこんな美しい世界に行きたいと、そう思いました。


 その日もまた私は森の入り口へ向かい、花をつんで遊んでいました。

 季節は夏だったように思えましたが森はいつも涼しげで静かでした。枝と木の葉で埋め尽くされた天井から、薄桃色や青色の光りがきらきらと漏れます。

 そのときの私は森の香りに惹かれるまま、木々の中に足を踏み入れました。

 日記を読んで予定を立てたのでも、母の言いつけを破ろうとしたわけでも、何でもありません。そのときはただ、足が前へと出たのでした。

 のんびりと奥に進むほどに体中を森の香りが抜け、心も満たされるようです。踏み出す足は体の重さを感じさせず、ふわふわの腐葉土に包まれて、胸の中までふわふわしてきます。随分歩いて背の高い木々に囲まれ、空の光もずいぶん遠ざかったころ、私はふらりと立ち止りました。

 ここまでくれば、もう人の音は聞こえません。

 私の身に触れるのは、僅かにそよぐほの温かい風と、擦れる葉の音と、湿った土と木の香りだけでした。その匂いを吸って、吐いて。そうしていると、自分から吐かれるものがまるで森の空気そのものだと、そんな気がしてきます。

 身体には森の香りがみちて、柔らかい光を浴びて、柔らかな風が骨までもすり抜けて、とても満ち足りた想いになって……。このまま、こうしてじっとしていれば私は<森>そのものになるのだろう。人でいる理由はもうない。このままでいいのだ。わたしの心にそんな思いが沸きました。

 すると急に強い恐怖感が全身を押しあげました。

 ここに居てはいけない。そんな思いがして、私は何かを振り切るように、全速力で出口へ走りました。森の音も香りも、もう何も感じません。ただ自分の息遣いと、枯れ葉を蹴る音だけが聞こえます。

 森から出て家の玄関を開けると、私は母を探して家の中を駆けました。

 台所の扉を開けて母を見つけると、あれ程までに私の身体を強く押していた恐怖はもうどこにも無くなっていました。私は母を見つめたまま、長く息を吐きました。

 そうして息を出し切った時、私の心に、今度は深い悲しみが湧き上がってきました。

 私は、従祖父のようにはなれなかったのだと、そう理解したのでした。

 しかし、いや当然そのほうが良かったのだという、確信めいた思いを心で繰り返しながら、私はその場でしゃがみこんでゆっくりと目を閉じました。

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