第1話 コケる美女

 青く澄んだ空に静かな雲が流れていた。東から流れてくる暖かな風が、周囲に広がる草原の若草と美しい刺繍が施された衣の裾と彼女の金糸のような髪を静かに揺らしている。


 その若い女は広大な草原の中に独りで立ち、天に向けて両手を広げた。体いっぱいに光を受けながら、この素晴らしい自然を恵んでくれた神に祈りを捧げる。重ねた両手を額に当てた彼女は、バスケットを提げて歩き始めた。


 少し歩いて、コケる。草の上の傾斜で数回転がった後、立ち上がり、服に着いた草を払ってから彼女は再び歩き始めた。足下を見回しながらゆっくりと進み、またコケる。立ち上がって歩み出すと、今度はすぐに、浅い窪みに落ちた。服についた土を払いながら窪みから出てきた彼女は、再び足下を見回しながら歩いていく。


 森の手前まで来ると、彼女は息を飲んで立ち止まった。バスケットの蓋を開け、そっと屈む。バスケットから瓶を取り出した。日焼け止めクリームと美白クリームだ。瓶を見つめた彼女は頭を何度も振ってから、それらをバスケットに戻した。その時だった。森の中にギラリと光る物が動いた。彼女は腰を抜かしてその場に座り込む。目はひたすらパチクリを繰り返していた。


 森の中の暗闇からうめき声とも叫び声とも分からない声が聞こえてきた。女は耳を塞ぎうずくまった。恐怖のあまり、生まれたての小鹿のようにブルブルと震えている。


 静寂からのうめき声は次第に大きくなってきた。女は顔を上げた。さっきまで怯えていた臆病者も、ときに大胆になる。そう、『臆病者、ときに大胆になる』というエッセイのごとく。彼女は大声で叫んだ。


「お化け、あっち行けえ!」


 当該エッセイとは少し違うが、結果として、暗闇の声はピタリと止んだ。女はホッと息を吐く。すると、今度はカサカサと音がした。その音は重なりながら大きくなってくる。やがて音の出所がはっきりと分かるようになり、今度はその音と共に草をかき分けながら小人たちがこちらに突進してきた。緑の肌の鬼のように恐ろしい顔に鋭い牙、細く剃った短い眉毛、アロハシャツに金のネックレス、しかも、手には斧や棍棒や焼き肉のタレの瓶を握っている。それはゴブリンの半グレ集団だった。


 その醜い魔物たちは、よだれを垂らしながら彼女に襲い掛かった。すると、閃光と風を切る音がして、同時に数体のゴブリンたちが空に飛ばされた。深く切られた体から黄緑色の血を拭きながら、森の奥へと飛ばされていく。それを見た他のゴブリンたちは悲鳴をあげて退散した。


 座り込んだまま茫然としている彼女の横で鎧が動く音と剣が鞘に戻される音がする。顔を向けると、そこに銀の鎧に身を包んだ若い男が立っていた。青い瞳の端正な顔に白い肌、肩の下まで垂れた長髪は真っ白だった。

 彼は女に手を差し伸べて言う。


「お怪我はございませんか」


 ハッと我に返った彼女は、彼の手を取って立ち上がった。


「ご、ございません。ありがとうございました」


 彼女は深く腰を折って一礼すると、その場で軽くジャンプしては何度も両手を上げた。その場で回ったり、目をパチパチとさせている。それを見た白髪の青年が驚き顔で目を丸くしていると、どこからか彼の隣に歩み寄ってきた中年の男が口髭を動かしながら言った。


「この国の感謝の示し方ですよ。作法なのです。ところ変われば、ですな」


 口髭の男はニヤリと笑ってから、麻の衣のフードを被った。彼の横を白い犬が駆け抜けて、彼女に飛び掛かろうとする。


「ひろし!」


「キャウンッ」


 髭の男が犬を蹴った。犬は草むらの中に飛ばされ、そのまま斜面を転がり落ちていく。その先の沼から水を叩く音がした。


「まったく、あの馬鹿犬が。若い女を見るとすぐに突進しやがる」


 髭の男は腰の帯からヤギの革で作った水筒を外すと、それを口元に運び傾けた。強い酒の臭いが漂ってくる。


 鎧姿の白髪の青年は青いマントを身にまとうと、彼女に言った。


「この辺りは魔物が多い。女性が独りで歩くのは危険ですよ」


「あの、失礼ですが、貴方様は……」


「私はデュラハン・アルコン・ドレイク。この者は私の従者でヨッド・カーウァ」


 腰の帯に水筒を戻していた髭の男は軽く会釈をした。


「さっきの犬は……」


「ひろしです。忘れて下さい。勝手に我々の旅についてきているだけですから」


 一度沼の方に心配そうな顔を向けた彼女は、青年の方を向きなおし、再び尋ねた。


「旅の途中なのですか。どちらから」


「アルラウネ公国から来ました」


「え?」


 驚いた顔で、女は半歩後退した。

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