第1話ー4 儀式はここに

      04


 みふぎ(仕事上の名前)に黒が見えないことは知っていた。

 黒というのは、すずしさん(みふぎの父)がその色から付けた名称。

 呪いとか怨念と言い換えた方がわかりやすいかもしれない。

 みふぎは子どもの頃勘違いしてたけど、

 黒が見えていたのはすずしさんで、

 黒を祓っていたのがむすぶさん(みふぎの母)てのが正しい。

 すずしさんが黒を見つけて、むすぶさんが祓っていたのだ。

 みふぎがむすぶさんとすずしさんの両方の能力を持っていれば何の問題もなかった。

 もしこれで、どちらの能力も受け継いでいない場合、

 私の監視や努力はすべて無駄になる。

 事実、みふぎには黒は見えていない。

 見えなくても、祓えるのならまだ望みはある。

 私はこれを早急に確かめないといけない。

 でも私にも黒は見えないし、どうすれば。

 何か方法は。

 あった。

 事故物件や幽霊屋敷なら、黒が見えなくたって黒はいる。

 会社のデータをいじくって、事故物件を探した。

 あった。

 でも黒の祓い方をよく知らない。

 祓えるなら大丈夫だろうと思って、みふぎを連れ出した。

 結果、みふぎに黒が取り付いて、むすぶさんとすずしさんにきつく叱られた。

 あの二人は、私をみふぎに近づけたくないみたいだった。

 それはそうか。

 社長の差し金でスパイでしかないんだから。

 みふぎが祓えるかどうかは後にしよう。

 すずしさんの眼だ。

 この眼をどうにかして。

 どうにかする方法が、

 一つだけ浮かんだ。

 社長にも妹にも誰にも言わなかった。

 だって誰かに言ったら止められるから。

 私の独断と偏見でやったってことにしないと。

 すずしさんは、本当にむすぶさんを愛していた。

 むすぶさんも、本当にすずしさんを愛していた。

 愛を壊すつもりなんてなかった。

 ただ、私は黒が見える眼が欲しかった。

 黒が見える眼を持った息子が欲しかった。

 それだけなのだ。

 でもそれがむすぶさんに知られて、私は。

 せめて、この子だけは産ませて。

 この子にあの眼があることだけ確かめさせて。

 駄目だった。

 むすぶさんの怒りは頂点に達した。

 祓うはずの黒を身体に溜め込んで、それをすべて私にぶつけた。

 私は。

 あの日、

 納のあの家で死んだ。







第4章 儀式はここに



     1


 ちょっと早めの夕飯を終えて、リビングに移動した。納はベッドに寝転がれるので自室を希望したが、3人がそれぞれ同じ立場で話せる部屋をと伯父が間に入ってくれた。

 確かに、納の自室で話すと納のテリトリィなので、おのずと納のペースになってしまう。いままでだってずっとそうだった。

 ああ、そうか。

 だから俺は納に逆らえなかったのか。師匠と弟子の擦り込み云々だけではなく。

 三人掛けの大きなソファを納が陣取って、俺と伯父はそれぞれ一人掛けに。

 長方形のテーブルを中央とし、俺の正面が伯父で、俺の左斜め前に納がいる。テーブルの長辺側に位置するのが納で、俺と伯父は短辺のほうに。

 照明はやや暗く、気にならない程度に環境音楽を流している。舞台監督は伯父がやってくれた。

「トキネはわたしの母――ムスブが殺した」納が誰とも眼を合わさずに言った。「嫉妬だよ。眼を持った子どもが欲しかったトキネはわたしの父――スズシに近づいた。どんな手を使ったかは知らんし、どうでもいいが、結果としてガキができた。トキネは産みたがったが、ムスブは赦さなかった。胎にいる間に殺したんだ」

 開始早々衝撃的は話で面食らったが、時寧さんならやりそうなのでそこまでおかしい話でもなかった。

「殺し方が悪かった。祓うべき黒を集めて怒りにまかせてぶつけた。そのせいで、死んだガキの眼がトキネに遺った。トキネは、黒が見えるようになった」

「もともと見えてた父親はどうなったんですか?」

「どうもしないさ。ほいそれと他人にあげられるもんじゃない。トキネは見える状態のまま、先生との間にガキを作った。それがお前の従兄だよ。ちなみに、敵前逃亡で死罪になってる」

 まさか。

 人違いってのは。

「トキネはどうしても自分の息子とわたしをくっつけたかったらしいな」

「ユキは見えてるんですか?」ユキというのは従兄の愛称。

「本人は見えてないと言ってるね。はい、あっくんの分」伯父が紅茶を淹れてくれた。「みふぎさんはカフェオレでよかったかな」

「本当に見えてないかどうかは、わたしも知らん。トキネなら知ってるだろうが。ああ、でもわたしとくっつけようとしてるんだから、実際見えてるのかもしれんな」

 紅茶はいい香りがした。

「もしくは、見えてないから、急遽作戦変更で自分の眼をお前に移植して、息子の代わりにのこのこやってきたお前とわたしをくっつけようとしたか」

 ひどい話だ。でもやっぱり、時寧さんならやりかねないという謎の確信。

「トキネはそこまで追い詰められていたんだ。責めてやってくれるな」

「あの、トキネさんて」

 死んでるはずじゃ。

「死んでるさ。ただ、死に方がよくなかった。ムスブがぶつけた黒が徐々に命を蝕んでな。肉体は確かに死んだ。だが精神というか、残留思念みたいなものが黒と融合してな。もともと黒は誰かの残留思念だったり呪いだったりそうゆうものが長い時間をかけて匿名性を帯びたものだから、相性ぴったりというか、元を辿れば同じものなんだ。以前わたしが忠告したのを憶えているか? ニンゲン大のものに注意しろって。あれは、ニンゲン大ていう表現は実は正しくない。黒は、最終的にニンゲンの形、違うな、ニンゲンになる」

 黒が最終的に成ったニンゲンが、

 時寧さんの形をしているだけってことか。

「形だけならいいんだが、曲りなりもトキネの残留思念から端を発してるばかりに、中身もトキネと大差ない。いや先生の前で言い切るのもアレだが、あれはトキネだ。トキネ以外の何者でもない」

 ぞくり、と背筋が冷えた感覚があって。

 不自然な雑音と頭重感のあとに視界に飛び込んできたのは。

 圧倒的な黒。

 ニンゲンの大きさをしたそれはすでにニンゲンと呼んで差し支えない。

「トキネ」

「時寧さん?」伯父が納の視線を追うが、捉えられていない。

 時寧さんは、納の隣に座っている。

 位置としては、俺と納の間に。

「ダーリンに、見えなくてごめんてゆっといてくれる?」

 納は黙ったままなので、俺が伯父に伝言した。

「ダーリンに見られたくなくてね。見られたら嫌われちゃうから」

「嫌われるのが嫌なら、嫌われるようなことをするな。基本的なところを勘違いしてる」

 伯父にだけ時寧さんの声が聞こえないため、俺が書記をすることにした。愛している人がそこにいるのに会話に参加できないのはあまりに忍びない。チャットアプリに打ち込んで逐一伯父宛てに送信。手書のメモよりこっちのほうが早い。

「みふぎはいいよね。必要とされてるし、愛されてもいるんだから」

「レーを殺ったのはお前だな?」

「理由なんかわかるでしょ? 小張オワリのとこと仲良くさせるわけにいかないの。あの家は、頭がおかしいんだから」

「おかしいかどうかは置いておくとして」納が溜息を吐く。「触媒を殺って、顔の皮を剥いで、ち■ことタマを切り落としたのもお前だろ?」

 伯父が顔をしかめた。

「ちょっと、ダーリンドン引きじゃん。やめてよね。別に死体をどうしようとどうだっていいでしょ? もう死んでるんだから」

 もう死んでるんだから、というのが。

 時寧さん自身のことを差しているように聞こえた。

「死んでれば何をしてもいいのか?」

「生きてる側に言われても説得力ないなあ。そもそも誰のせいで死んだと思ってんの?」

「誰だったかな」

「むすぶさんがあそこまで嫉妬深いと思ってなかったなあ。ちょっと精子もらっただけじゃん。そのくらいで呪い殺されたら堪ったもんじゃないよ。結局そのせいで二人の間がギスギスしちゃってさ。みふぎならわかるんじゃない? 触媒を黒で汚染する方法」

「ムスブがスズシを汚染させて、その反動でムスブも消えたんだろ? 自業自得、因果応報だ」

「まったくさあ、みふぎらしい返答だよね」

 タイプが忙しくて紅茶を飲む暇もない。

 伯父のためにも、原文ママの表記が求められる。

「ユキのやつがヒヨって行かなかったけど、なんでかあの家にいたあっくんを利用させてもらったわけ。ごめんね、ひどい伯母さんで」

「心こもってないんで、いいです」

「うわー辛辣。でもあのときだけみふぎの止めてた生理止めなくしたから、あっくんとイイコトになってるといいね」

「止めてた生理を止めなくしたんなら生理になってるってことだろ? じゃあイイコトにはならないんじゃないか。教えてくれて助かったよ。久々にナプキンでも買うか」

 文字で入力しにくい話題は勘弁してほしい。

 伯父も困惑顔をしている。俺もそうゆう話題は聞きたくなかった。

「弟子、大丈夫だ。その可能性はない。だってお前」

「言わなくていいです」

「もっちゃんが捨てといてってゆってたから、私が役に立ててあげようと思ったのになぁ」

「余計なお世話です」

 もっちゃんというのは、母のことだ。

「俺の眼を元に戻してください」

「えー、どうしよっかなぁ」時寧さんが顎を上げる。「意気地なしのユキの根性叩き直すのは無理そうだし、使い途のないあっくんに生きる意味をあげようとしただけなんだよ?」

「トキネ、口が過ぎる」

「大丈夫です。慣れてますので」

 母から存在ごと無視されるよりずっとマシ。

 ただ、文字に起こすのがしんどいだけで。

「あっくん、本筋に関係ないところは省いてくれていいんだよ?」伯父にも気を遣われる。「ありがとう。トキネさんにまた会えただけで、私は嬉しいんだから」

 納はそもそも見えていなかった。

 時寧さんが死んだことによって、黒の時寧さんの力で見えるようになった。

 その力を俺に移動させた。

「あのとき俺に協力を仰いだのって」

「そう、私がやれって言ったの」時寧さんが得意そうに言う。「だってそうしないと、仕事にならないからね。実際、みふぎ、祓えなくなったらクビだよクビ。もっちゃんにもそう言ってあるし」

 なるほど。時寧さんに解雇を脅されて慌てて俺に頭を下げに来たのか。

 いま思えば、納らしくない。

「で、どうすんの?これから」時寧さんがソファで脚を組む。「私としてはみふぎに跡継ぎを産んでもらいたいんだけどなあ。できたらユキじゃなくてあっくんと。そのために黒が見える眼にしてるわけだし」

「トキネ、まさか知らないのか?」納が眉をひそめる。

「全然言わなくていいです」

「わたしの家でやったアレは失敗してるんだ。見てなかったのか?」

「童貞じゃなかったてやつじゃないの?」時寧さんが首を傾げる。

 駄目だ。

 伯父に首を振ってここはオフにさせてもらう。

「え、違うの?」時寧さんが俺を見る。「童貞じゃなかったから失敗したっていう」

「トキネ、わかったぞ。んだな?」

 沈黙が、

 肯定の合図。

 しんと、静まり返ったリビングに、

 環境音楽がラジオみたいなノイズになっていたのが不気味で。伯父がスイッチをオフにした。

「入れないんじゃなくて、入らないの」時寧さんが両手を挙げた。降参の合図ならいいが。「あの家、黒がえげつないことになってるの、知ってるでしょ? だからなんとかしてもらおうと思って、みふぎに頼んだのに」

「えげつないことになってる理由の本体が何を言ってるんだ。わたしの家はわたしがなんとかする。トキネの思惑通りにはさせん」

「本体? そっちこそ何言ってるの? 私はここにいるじゃん。とするなら、あの家にいるのなんか、二人しかいないでしょ?」

「やっぱりそうか。道理で」納が額に手を当てる。「道理で手強いわけだ」

 俺にもわかった。

 あの家、納の家にいたのは、家の元の持ち主。

 納の両親。

 の成れの果て。

「早く祓っちゃってよ。目障りでしょうがない」

「祓うさ。そんなこと、トキネに言われなくなってわかってる。だが、言ったろう? トキネの思い通りにはさせない。モノには順序がある。まずは、祓いやすいほうから手を付ける。弟子!」

 納がソファから立ち上がったタイミングで、俺も中座して甕に水を入れて持ってきた。

「えー、触媒もないのにどうするの?」時寧さんは余裕の表情。「ああ、いるじゃん。あっくんを伴侶にする覚悟できた?」

「俺は嫌です」

「そうはっきり言われると傷つくな」納が肩を竦める。「でも安心してくれていい。お前は弟子で助手だ。触媒にはしない」

「ちょっと、ダーリンは駄目だからね」時寧さんが伯父に抱きつく。

 伯父がまったく気づいていないのが可哀相だが。

「当たり前だ。それに童貞じゃないだろ? 候補の外だ」

 とするなら、まさか。

 経慶けいけい寺でやったみたいに、自分で背負う気じゃないだろうか。

「納」

「お前いまだにわたしのことを名字呼び捨てか。みふぎさんと呼べ」

「あ、はい」

「おい、口だけの返事をするな」

「なにそれ、夫婦漫才じゃん」時寧さんが手を叩きながら大声で笑う。「ちょっと見ない間に相性ばっちりじゃないの、君ら。伯母さん嬉しいぞ?」

「トキネ、お前は殺しちゃいけない奴を殺して、しかも取り込んだ」

 納――もとい、みふぎさんの合図で、甕を頭の上でひっくり返す。

 水が、

 髪を、

 顔を、

 肩を濡らす。

「聞こえてるんだろ? レー。いまならお望みの永久触媒とやらにしてやってもいい。だから」

 戻ってこい!

 みふぎさんの珍しい腹からの声で、空間が軋んだ。

 時寧さんの身体が縦に裂けて、黒が霧状に噴き出してきた。

 まき散らされた黒が集まって、ニンゲンの形を創る。

 黒く長い髪は短くなり、格好も黒いワンピースでなかった。

 目立った特徴のない青年。

 おかげで誰かわからなかったが。

「レー」とみふぎさんが呼んだのできっとそうなのだろう。

 ジャン=シャオレー。

「ごめん、みっふー。僕」

「細かい話はあとだ。いまはやることがある」みふぎさんが後ろを振り返る。「先生、悪いが廊下に出ていてもらえるか」

「わかった。さようなら、時寧さん」伯父はあさってのほうに別れを告げて、ドアの向こうに消えた。

「せめてどこらへんにいるのか教えてやるべきだったな」みふぎさんが呟く。

「俺も退室しましょうか?」

「なんで弟子が立ち会わないんだ。お前がいなかったら、トキネのいる場所もわからんのに」

 え?

 まさか、いまのいままで。

「見えてなかったんですか?」

「だから最初から言ってるだろ? お前に手伝ってもらわんと仕事にならんと」

 黒が見えないなら、黒でできている時寧さんは見えない。

 とするなら、黒が原材料のジャン=シャオレーだって見えていないことになるが。

「わたしはプロだぞ? 気配くらいはわかる」みふぎさんがジャン=シャオレーの肩を小突く。

「祓うときは後ろ向かせてもらいますからね?」

「へえ、盛り上がってるとこ水を差すようだけど、いいの?」時寧さんは何事もなかったように肩を回す。「みふぎの理論で行くと、汚れたぞうきんで汚れを落とそうと躍起になってる構図になるけど?」

「痛いところを突くな、さすがトキネ。確かにそうかもしれん」

「何言いくるめられてるんですか」

「僕が時寧氏を吸収すればいいのかな?」ジャン=シャオレーが言う。「時寧氏がやったみたいに」

「できるのか?」納が訊く。純粋は質問ではなく、その気があるのか訊いている。

「やれないことはないかな」

「無理ムリ。何言ってるの? 私と小張オワリのガキじゃあ、密度が違うの。また吸収してあげる」時寧さんが手を伸ばす。

「レー!」

「いつでも。あ、違うか。僕が触媒だった」ジャン=シャオレーが頭を掻く。

 大丈夫か?

 みふぎさんは、いつもの呪文を唱え始めた。トランス状態に入ろうとしている。

「私を祓っちゃっていいの? てゆうか、祓えるの? 私はみふぎの恩人だよ? 気が咎めないの?」

いままさに消されようとしているというのに、時寧さんから恐怖や拒否の感情が感じられない。逆にこの状況を愉しんでいるようにも見える。

「私がいなくなったら、また見えなくなるよ? 仕事できる? 続けられる?」

「トキネと呼ぶから脳が誤認する」みふぎさんが言う。「違う。お前は、トキネじゃない。ただの」

 黒だ。

 後ろを向いていたのでその瞬間は見ていなかったが、時寧さんの声がしなくなって、ゆっくり振り返ると。

 肩で息をして床に座り込んでいるみふぎさんと。

 納の肩を支えるジャン=シャオレーがいた。

 時寧さんはいなかった。

「祓えたんですか?」

「たぶん、な」みふぎさんが息だけの声で答える。「先生を呼んでくれ。もう、終わったって」

「みっふー、ベッドまで運ぼうか?」

「ああ、頼む」

 廊下に出ると、伯父が壁にもたれかかっていた。廊下が暗いので表情はよく見えない。

「あの、終わったそうです」

「時寧さんは成仏できたってことなのかな」

 よくわからなかったので、黙っていた。

「ああ、私にも見えてたらなあ。もう一度、会えたのに」伯父が顔を覆う。「ごめん、ちょっと一人にしてくれるかな。落ち着いたら行くから」

 みふぎさんの自室。ベッドですやすや寝息を立てる納の横に、ジャン=シャオレーが膝立ちで見守っていた。

「あの、みふぎさんは」

「眠ってるだけだよ。ちゃんと祓えたから大丈夫。祓ったてゆうより吸収かな。なんかちょっと変な感じするけど」

「うまくいったなら、いいです」

 ジャン=シャオレーがタオルで優しくみふぎさんの髪を拭う。

「ところで、弟子くん。僕のこと見えてるの?」

 そういえば。

 あれ?

 なんでだ?

「え、どうにかなりませんか?」

「時寧氏が完全にいなくなってないからかも。ここに」ジャン=シャオレーが胸に手を当てる。「一応、いるわけだし」

「え、じゃあ、このままってことですか?」

「僕に言わないでよ。みっふーが起きたら聞いてみなって」

 一件落着なのか、そうじゃないのか。

 俺の眼が元に戻らないとなんとも、実感しがたいところではある。

 翌日、

 祖父に呼ばれた。












     2


 祖父の屋敷からの帰りに、久しぶりに家に帰った。

 帰っても誰もいないはずだが、俺の行動を読んでいた(祖父から情報が流れたのだろう)社員が待ち構えていた。

 いろいろ問い質されたが、テキトーに受け流した。

 要約すると、俺を心配しているというだけだが。

 簡単な、ガキでもわかるカラクリがある。

 俺の心配をするのは、俺が社長の息子だからだ。

 俺が社長の息子でなければ、彼はそんなことはしない。

 唯一信用できるけど、心の奥底から頼っていいわけじゃない。

 そこを勘違いしないように、改めて自分を戒める。

 夕刻。

 事務所に行くと、相変わらずみふぎさんがラジオを聞きながらベッドでごろごろしていた。

 これまでと違うのは、そこにシャオレーさん(本名を呼びたくないと言ったら、せめてフルネーム呼び捨てはやめてほしいという要望があったので)が加わったこと。あの黒尽くめの髪の長い外見に戻って、せっせとみふぎさんのパシリに精を出している。いまはちょうどオムライスの買い出しに行かされている。

 ん?

 黒に買い物ができるのか??

 あ、いや、時寧さんだってしてたし、細かいことは気にしなくていいか。

「わたしのことを聞かれたんだろ?」みふぎさんがどうでもよさそうに言う。「正直に言ってくれていいぞ。なにせ雇い主だからな。報告の義務がある」

「誰も報告しないから、業を煮やして俺が呼び出されたんです」

「ああ、そうか。なるほどな。先生は守秘義務が徹底していて尊敬に足るな」

 ぐったりと力が抜ける。

「お前の眼だがな」みふぎさんが言う。

「なんとかしてください」

「レーがいるから弟子も助手も解任してやりたいんだが、その厄介な眼が割とお前のとこの会社の生命線でもあるかもしれない気もしてくる気もしないでもない」

「はっきり言ってください」

「お前が我慢すればいい」

「嫌です」

「わたしがやったんじゃないんだ。わたしに当たるな」

「みふぎさんしかいないんです」

「そうは言われてもな」

「他に専門家はいないんですか?」

「いないから、こうやってわたしが重宝される。わかるだろ?」

「誰かに押し付けるとかできないんですか。例えば、みふぎさんにあげるとか」

「もらえるならもらってやってもいいが、どの道移動のさせ方がわからんな」

 八方塞な気がしてならない。

 母の会社のために、俺はこのまま一生この眼と付き合っていかなければならないのか。

 あんまりではないか。

「お前、死のうとしてただろ?」

「いつの話ですか」

「いつもだ。いつも、死に場所を探してる。そんな眼だ。大方、わたしの家にも、そうゆう事情でふらふらやってきてたんだろ? ああ、そうだった。家もなんとかしないと」

 シャオレーさんが戻ってきて、一緒にオムライスを食べた。シャオレーさんも食べていたが、細かいことなので気にしないようにする。

 いや、細かいことなのだろうか。

 黒も食事をするのか?

「レー、このあとわたしの家に行く」みふぎさんが言う。

「え、みっふーのご両親に紹介してもらえる?」シャオレーさんの声が跳ねる。

「まあ、それに近いかもしれん」

「いつの間にそんな関係になってるんですか?」

「このたび、みっふーの永久触媒になった僕です」シャオレーさんが恥ずかしそうに頭を掻く。

「弟子に言質取られてるからな。仕方ない。本当に、仕方なくな」

「そんなこと言って。満更でもないみっふーなのです」

「うるさい。わけわからんこと言ったら、お前ごと祓ってやるからな」

「みっふーに祓ってもらえるならそれもいいかも」

「やかましい」

 なんだ。

 本当は、好意があったんじゃないか。

 みふぎさんの自宅訪問を見送る気満々だったのだが、まだ弟子を解任してもらえていないらしい。

「最後の仕事だ。ちゃんと見届けろ。それにそもそもお前が使い物にならんから」

「はいはい、もういいですから」

 みふぎさんの家までそう遠くないので、徒歩で移動した。さながら墓参りの一団のようだった。俺は甕を持っているし、面持ちは気分爽快とは言い難い。

 墓か。

 時寧さんのお墓はどこにあるんだろう。

 俺が時寧さんの葬式に参列できなかったのは、ひとえに母が拒否したから。

 俺は、母に、家族とは思われていないから。

「また闇に沈んでるんだが」みふぎさんが顔をのぞきこんでいた。「わたしでよければ吐いてけよ?」

「吐けってそんな取り調べじゃないんですから」

 着いた。

 よかった。道端で人生相談をする破目になるところだった。

「レー、ちょっと様子を見てきてくれ」みふぎさんが言う。

「行ってくるね」

 しまった。

 いまのがシャオレーさんだけ外させる作戦だとしたら。

「まずいな。この間より深くなってる」

 眼が。

 痛い。

「おい、大丈夫か。直視するなと言ったろう」

 ずきんずきんと、眼の奥が痛む。

 黒が、

 流れ込んでくる。

「いいか? できるだけ、見ようとするな。目線を合わせるな。そこに何があるのか、それが何なのか、もしくは誰なのか、特定しようとするのも駄目だ。わかったな? わかったら手を握ってくれ」

 みふぎさんの冷たい手に触れた。

 外気温より冷たいせいで一気に身体が現実に引き戻された。

「よし、わたしが手を引く。何かを感じたらいまみたいに手を握れ」

 ぎゅう、と力を入れた。

「みっふー」シャオレーさんが戻ってきた。

「どうした?」

「ここって前からこんな感じ? 僕がこれまで住んでたどの事故物件よりもやばい」

「知ってるだけで三人死んでるからな。しかも内二人はわたしの血縁ときたら、やばいことになるのも已むを得まい。弟子、行くぞ」

「ねえ、弟子くんここで待機のほうがよくない? 見るだけなら僕がいるし」

「それも已むなしか。どうする?」

 眼が。

 開かない。

 肯定のときは手を握る。

 否定のときは手を。

 離した。

「わかった。連れてきて悪かったな。待機よりは帰った方がいい。家から離れれば眼もマシになるだろうさ」

 甕を冷たい手に託した。

 どうか、

 無事で。

 眼を。

 押さえながら、ゆっくり。

 ゆっくり家の塀伝いに歩く。

 頭がぐるぐるして、吐き気がして、喉が詰まった。

 弟子なのに情けない。

 助手なのに使えない。

 家から距離を取るに従って、まともに歩けるようになってきた。

 眼を。

 眼が。

 拒否する。

 見えないときはフツーに入って滞在もできたのに。

 見るなと眼が告げる。

 その黒は、

 総量と密度が段違い。

 寒気が止まらない。

 歯の根が合わない。

 家に背を向けて逃げ帰るしかないのか。

 いや、ここで余計なことをして心配をかけるほうが問題だろう。

 帰るしかない。

 帰って。

 来なかった。

 伯父に連絡したが、みふぎさんが帰れと言うなら待つしかないとの返答。異常事態だというなら尚更、危険に飛び込むべきではない。伯父の言い分は理解できた。

 でも、胸のざわざわが治まらない。

 夜に行くのは憚られたので、次の日の朝を待って。

 みふぎさんの家に行ってみた。

 黒は。

 ない。

 嫌な感じもまったくしない。

 お祓いが成功したのか?

 しかし、それなら帰ってこないのはなんでだ?

 中に。

「入んねえほうがいい」従兄のユキだった。「や、久しぶり? でもねえか。こないだ会ったか」

 ユキはみふぎさんの自宅を顎でしゃくった。

「ちょっとまずいことになってる。説明すっから、とりあえず、こっから離れっぞ」

 この家は経慶けいけい寺の山と隣接している。千段近い石段を上がった先が境内となっている。

 石段の麓まで移動した。

 樹冠が大きいせいか、単に樹木が多いだけなのか、ここだけ妙に暗かった。

「何しに来た?」こんなに早朝に。

 ついさっき朝日が昇ったばかり。

「なんで俺疑ってんだよ? 虫の報せってやつだよ。信用してくんねえなら別に」

「無事だよな?」

「そいつがなんとも」

「どういう意味だ?」

「入んねえほうがいい、つったけど、ぶっちゃけ入れない。中から鍵がかかってるとか、そうゆうことじゃなくって、なんつーかな、入れねえようにしてるってゆうか、中のもん、出さねえようにしてる」

「中にいるのか? みふぎさんは」

「だから落ち着けって。なに? 他人の心配とか。らしくねえじゃん。キャラ変わってんぞ」

 俺のイメージなんかどうでもいい。

「わざと中に立て篭もって、黒を出さないようにしてるってことか」

「黒? ああ、納家が言ってるアレだっけ。事故物件に溜まってる怨念を可視化とかおもれえよな。ガチっぽくて」

「茶化すな。みふぎさんは、本気でやってるんだ」

「どうどう。そんなつもりねえって。悪かったって。とにかく、黒?てのを全部どうにかするまでは、出てこねえんじゃねえの?」

「なんでそれをお前がわかるんだ?」

「いいか?誰にも言うなよ」ユキがきょろきょろと周りを見てから。「お前にだけ教えとくわ。俺の秘密。その黒いのが見える」

 ああ、わかった。

 いまわかった。

 俺の付け焼刃の眼は、

 昨日ショートして使い物にならなくなった。

 だから、さっき家に近づいてもなんともなかった。

 まだ中でみふぎさんたちが戦っているのに、眼がなんともないってことは。

 そうゆうことだ。

 よかったのか。

 これで。

 眼が元に戻って嬉しくないわけがない。

 そのはずなのに。

「おいおい、どうしたよ。オカルトだから意味わかんねーとか思ったんだろ?」

「そうじゃない。わかった。教えてくれて助かった。ありがとう」

 伯父にだけ話した。ユキの眼のことは言わずに。

 また祖父に呼ばれたが、今度は無視した。

 しばらく誰とも関わりたくなかった。

 そうやって、春が来た。

 俺は。

 中学に上がった。

 小学校なんかほぼ行ってないってのに。


















     3


 みふぎさんが戻ってこなくなって2ヶ月経った。

 日記というか備忘録を付けることにした。

 なので誰にも見せるつもりはないし、ただの独り言を書き連ねてあるだけなので、万一誰かの眼に触れることになったとしても、他人からはそれほど興味をそそらないと思われる。



 4月


 みふぎさんがいないので事務所に行く理由もなくなった。

 家にいるのも落ち着かないので、仕方なく、学校に行くことにした。

 中高一貫の私立なので、小学校のときの同学年がそのまま繰り上げというわけではない。その点はありがたかった。

 友だちを作るつもりもなかったので、授業が終わったらすぐに家に帰った。部活なんかよりもっとやりたいこと、やらなきゃいけないことがある気がした。

 祖父に頭を下げて仕事を手伝わせてもらいたいと頼んだ。

 とにかく人の役に立ちたかった。

 みふぎさんみたいに、みふぎさんにしかできないことができるわけじゃない。

 俺は何もできない。

 何もできないから、なんでもやると言った。

 祖父はまずは勉強をしろと言ってきた。次のテストで結果を出したら考えると言ってくれた。

 なので勉強を頑張った。

 桜は咲いて散った。



 5月


 みふぎさんはまだ帰ってこない。

 結果は出た。

 祖父は約束を守ってくれた。

 本社には入れないので(母が俺を出禁にしている)支部を作ってくれた。

 ビルは決めていた。

 立地はいいのに、3階部分で何かよからぬことがあってまるごと空いていた店舗。

 1階部分を支部にして、

 2階と3階に引っ越した。

 俺が踏み抜いた非常階段も直した。

 祖父は条件を付けてきた。

 勉学と両立することと。

 社員を一人付けること。

 心当たりが一人しかいなかった。

 彼は立候補してくれたらしい。

 しかし彼は、祖父への報告義務がある。いわばスパイだ。

 それでもなんでもよかった。

 何でもやろうと思ったから。

 五月病なんかにかかっている場合じゃない。



 6月


 みふぎさんはまだ帰ってこない。

 あの家に近づくなと祖父に言われてしまったので、おいそれとのぞきに行けない。

 それでも校庭から見えるので、嫌いな体育の授業も外でやるとちょっと嬉しかった。

 事務員をしてくれる彼がメールフォームと、優先順位を自動で判断するシステムを組んでくれた。

 これで、入居者とお得意先の要望を吸い上げることができそうだった。

 梅雨がとかく鬱陶しかった。



 7月


 みふぎさんはまだ帰ってこない。

 なかなか要望が集まらないので、物件の掃除がてら顔を覚えてもらうことにした。

 挨拶に力を入れた。

 笑顔を向けることを意識した。

 入居者やお得意先が世間話をしてくれるようになった。

 もうすぐ夏休みだ。



 8月


 みふぎさんはまだ帰ってこない。

 直接困りごとを聞くことができるようになった。

 その場で解決できることはすぐにやった。

 解決できないことは持ち帰って事務員の彼や祖父に相談した。

 メールの件数が増えてきた。

 だんだん忙しくなってきた。

 夏休みはぜんぶ丸ごと、仕事と勉強に捧げた。



 9月


 みふぎさんはまだ帰ってこない。

 仕事が軌道に乗ってきているお陰で、勉学との両立が大変になってきた。

 でもテストの結果がよくなければ即支部は閉めることになっている。

 頑張らないと。

 クラスに友だちはできていないが、俺がいろんなところに顔を出しているので、興味を持った先輩二人が声をかけてくれた。

 ちょっと嬉しかった。

 マラソン大会がめんどくさかった。



 10月


 みふぎさんはまだ帰ってこない。

 忙しくて日記を書いてる余裕がない。

 ちょっと涼しくなってきた。



 11月


 みふぎさんはまだ帰ってこない。

 忙しい。

 滅茶苦茶忙しい。

 どのくらい忙しいかと言うと猫の手も借りたいくらい。

 俺一人では限界なのか。

 でも俺一人しかいない。

 一人で頑張るしかない。

 雨の日限定の買い物代行が好評で嬉しい。

 紅葉はいつの間にか枯れ葉になってた。



 12月


 みふぎさんはまだ帰ってこない。

 忙しすぎておかしくなりそうだ。

 クリスマスなんかやってられるか。



 1月


 みふぎさんはまだ帰ってこない。

 さすがに年末年始は休むことにした。

 入居者やお得意先から沢山年賀状が届いた。

 今年も頑張ろう。

 初詣にも行った。

 祖父と事務員と一緒に。

 商売繁盛。

 それ以外に何かあるだろうか。

 あった。

 みふぎさんの無事を祈った。

 神に祈るのなんか初めてだった。



 2月


 みふぎさんに会ったのは、ちょうど一年前。

 もう一年か。

 一年も経ったのに。

 みふぎさんはまだ帰ってこない。

 団地の奥さんたちからいっぱいチョコをもらった。

 チョコをもらったきっかけで、マンションに住んでいるマンガ家と知り合った。

 読ませてもらったけど、けっこう面白かった。

 俺をモデルにマンガを描きたいと言われた。

 正直勘弁してほしい。



 3月


 みふぎさんはなぜ帰ってこないのだろう。

 風の便りでいいから、無事だと報せてくれたらそれでいいのに。

 最悪のことばかり考えてしまう。

 従兄のユキにも相談した。

 そんなことよりホワイトデーを気にしろと言われて思い出した。

 やばい。

 間に合わない。

 支部最大のピンチだった。



 3月下旬


 みふぎさんから電話が来た。






     4


 それは春休みの、とある夕暮れ。

 家族にしか教えていない私用のケータイが鳴った。

 非通知だったが相手はすぐにわかった。

「生きてるか? 弟子」

 みふぎさんだった。

 喉の奥から1年間溜めに溜めた言葉が溢れ出てくる。その中で最重要で最優先の言葉を選別する。

「無事なんですか? いまどこに」

「どこにいるかは言えん。言いたくないんじゃない。言ったらお前、こっち来るだろ? それがわたしには少々困るんでな」

 声だけでは、みふぎさんの現状を推測できない。

 少なくとも、電話をかけて会話ができる状況にあるので、1年以上音信不通だったことを考慮しても、充分喜ぶべきなんだろうが、正直、そこまで冷静になる余裕もなかった。

「行かないんで、教えてください。いまどこなんですか? 大丈夫なんですか?」

「ちょっと落ち着け。わたしはこの通り、お前に話ができる状態ではある。だが、油断はできん。やっとこの状況まで持っていったんだ。長かった。長くかかったよ、本当に。連絡ができなかったことを、この通り謝罪する」

「謝らなくていいので、いまどこにいて、どうゆう状況なのか教えてください。それだけ聞けば」

「駄目だ。頼む、電話も結構ぎりぎりな状況でかけてるんだ。聞きわけのないことを言わんでくれ。お前にどうしても伝えたいことがあってな」

「やめてください。遺言みたいじゃ」

 ノイズ。

 ざりざりざりという不協和音。

 この音にひどく聞き覚えがあった。

 そこに、

 いるのだ。

 黒が。

 ニンゲンが。

「そうならんことを祈ってるよ」

 出先だったが、仕事用のケータイで事務員に緊急事態コールを送って、次の訪問先に日を改める旨の謝罪の連絡をしてもらった。

 それをしながら急いで自転車をこいで、みふぎさんの家に向かった。

 とにかく一秒でも早く。呼吸と鼓動が追いつかないくらいに。

「だから来るなと言ってるだろう?」みふぎさんの笑う音が聞こえた。

 移動しているのがすぐにバレた。荒い呼吸のせいで。

「家には入りません。入らないほうがいいんでしょう? ああ、そうだ。シャオレーさんは? そこにいるんでしょう?」

「ああ、まあな。ところでお前、あのあと、眼、戻ったろ?」

「なんでわかるんですか」

 だいじな質問を適当にいなされたことで、よからぬ想像が駆け廻る。

「やっぱりな。よかったな。これで弟子はめでたく解任だ。それを言っておこうと思ってな。いつまでもわけのわからん師匠の弟子じゃあ、顧客の信用に関わる。頑張ってるんだってな」

 駄目だ。

 泣きそうだった。

「お前の評判は聞こえてるよ。でも人助けに入れ込みすぎて自分を助けるのを疎かにしちゃいかん。お前は友だちが必要だ。もしくは恋人か。どっちでもいい。お前の闇の部分をさらけ出せる相手を見つけろ」

 頷くのが精一杯で、まともに相槌が打てない。

 正面から風が吹いていて眼にゴミが入ったせいだ。

「聞いてるのか?」

 はい、と返事をした。

 駄目だった。

 言葉が震える。

「なんで泣いてるんだ。そんなにいいこと言ってるか?」

 鼻水を拭う。顔がぐちゃぐちゃになっている。自転車なので顔は見られにくいのが救いだ。

「そのまま聞け。お前はこの一年で見違えるほど社会貢献をするようになった。元師匠としても誇らしい限りだ。学校にも行かず毎日孤独にぼんやり自殺の方法を妄想してたなんて言っても、もう誰も信じんよ。やっぱり人に有難がられてなんぼの世界だ。それが仕事になる。ああ、説教くさくなってきたな」

「続けてください」

 なんでもよかった。

 みふぎさんの声が聞けるなら。

 ぶっちゃけ、内容はあまり入ってなかった。移動に忙しくて。

「つまり何が言いたいのか言うと」

 きーんという高音と。

 ぶーんという低音が。

 同時に爆音で聞こえたのでビックリして転びそうになった。

「嫌な音がしたな。大丈夫か?」

「俺は問題ないです。ちょっとかすっただけです。みふぎさんは?」

「あんまり時間がない。悠長に話し過ぎたな」

 嫌だ。

 もう少しで着く。この角を曲がれば。

「そろそろまとめるぞ? 頑張ってるお前に頼みがある」

 急ブレーキ。

 自転車から降りて、玄関の前に立つ。

 正直に言うと、この先を聞きたくなかった。

 でも、聞かないと、と思った。

 だってそのために、みふぎさんは危険を冒してまで電話をしてくれているのだから。

 呼吸を整えて、顔を上げた。

「いいですよ。何でも言ってください」

「いい返事だ。わたしはこれから最後の仕上げに入る。祓えるかどうかは五分五分だ。まあ死力は尽くすが。それでな、もし、もしだ。もし上手くいって、わたしが路頭に迷っていたら、お前のとこで雇ってもらいたい」

「そんなことしなくてもすでに社員じゃないですか。籍はあるんでしょう? だったら」

 そう言い返しながら、意味が、真意がわかってしまった。

 みふぎさんは、最後の賭けに出ている。

「わかるだろ? トキネも言ってたし、現社長との約束にもなってる。わたしが清掃以外の事故物件処理ができなくなったら、解雇でクビだ。何のとりえもないひきこもりで慢性不眠症の疾患持ちの小娘が一人でやっていくには、この世は世知辛い。だから、お前の口利きで雇ってくれないか。お前じゃないが、雑用だろうがなんだろうがなんでもする。なんでもするから」

「そんな安く売らないで下さい。あなたは俺の、元師匠だった人です。特別待遇ポストを用意して待っています。だから、絶対に帰ってきてください。ただ、帰ってこなかったらこの話は流れます」

「手厳しいな。でもまあ、特別待遇は悪くないな。お前に恩を売っといてよかった」

 みふぎさんの声以外の音が大きくなってきた。

 玄関は擦りガラスなので中は見えない。

 ここを開ければ、会えるだろうか。

「愚かなことはせんでくれな」

 手を。

 戸から離す。

「ありがとう。じゃあな、元気でやれよ? 岐蘇キソ不動産、次期社長の実敦さねあつくん」

 名前。

「知ってたんですね」

「雇われてる会社の社長令息だぞ? 知らんでどうする。真っ先にこびへつらうべきだろうが」

「その割に顎で使われてたんですけど」

「忘れたな。そんな昔のこと」

 みふぎさんの莫迦にした笑い声が心地よかった。

 懐かしい。

 あのときに戻りたいのかと言われたら微妙だが、みふぎさんと一緒だったあの一週間は。

 生涯絶対に忘れない。

 一生憶えててやる。

「今度こそさよならだ。ああ、レーのことを気にしてたな。見えないなら電話を代わっても聞こえないだろうからな。代弁するよ。みっふーと仲良くやってます?だと? まったく、よく言うよ。お前がもうちょい頼り甲斐があったらこんなことには」

 一緒にいるならそれでいい。

 おかげでさっき駆け廻った嫌な想像が消滅してくれた。

 二人一緒なら、みふぎさんも無茶はしないだろう。と期待したい。

「ありがとうございました。どうか、ご無事で。俺は、みふぎさんが帰ってきたときのために、社長になって待ってますんで」

「おお、頼もしいじゃないか。これで安心して」

 地獄に。

「逝けそうだ」

「え? いま、なんて?」

 電話は。

 切れていた。

 非通知なので掛け直すことはできない。

 開けるなと言われたが、手が勝手にというやつで。

 鍵は。

 かかってなかった。

 中に、

 従兄のユキがいた。

「開けんなって、言われてなかったか?」

 家の中はがらんとして。

 何もないし、誰もいない。

 ただただ、長期に放置した空家のにおいが鼻につく。

 堪らず窓を開け放った。

 室内が長期に放置されたにおいが充満しているいうことから導き出される結論を、

 脳が否定している。

「だから入んなって」ユキは俺に付いて縁側に移動した。

「どういうことか説明しろ」

「まあまあ、座れって」

「入るなと言ったり、どっちなんだ?」

 なにが、

 どうなってる?

 頭の中が真っ白で。

 なにも、

 考えられない。

 てっきり家の中でみふぎさんたちが黒を祓っているのだと。

「何から知りたい?」ユキは含みのある、それでいて真面目な顔になった。

 埃まみれの縁側に座る。

 中庭から真っ赤な夕焼けが見えた。

「みふぎさんは」

 この先につながる言葉を聞きたくなくて眼を逸らした。

 黒の見えるユキが平気な顔をしていられるということは、

 祓えたということ。

 しかし、

 祓えたのなら会いに来てくれたっていい。連絡してくれたらすぐに飛んでいく。

 それがなかったということは。

 やっぱり、

 そうとしか考えられない。

「わかってんだろ? じゃあ俺は言わねえよ。言うなって言われてっし」

 ユキは、みふぎさんに頼まれて、

 いや、

 みふぎさんだった黒に頼まれて、

 この家の中で電話を繋げていた。

 俺の私用のケータイ番号を知っているのは、祖父と事務員と従兄以外にいない。

 俺に友だちはいない。

 みふぎさんも、俺のケータイ番号は知らない。

 カラクリがわかれば、なんだそんなこと程度の。

「しっかし、ホコリくせえな。カビか?これ」ユキは中庭めがけて大きなくしゃみをした。「やっべ。ハウスダストってやつかもしんねえな」

「まだいるのか?」

 黒になったみふぎさんは。

「いんや。お前が入ってきたタイミングで消えちまったよ。よっぽど見れらたくなかったんじゃねえの?」

 そんな逃げるようにいなくならなくたって。

 俺の眼はもう。

 黒は。

 見えないのに。

「泣くんなら話さねえぞ?」ユキが意地の悪いことを言う。

「泣いてない」

「じゃあ胸張っとけ。うちの次期社長様よ。ほれ、いいもんやっから」

 手を。

 出した。

「これは」

 鍵?

「渡してくれってさ。ああ、さっきじーちゃんに聞いたら、ここ、うちの管理になってるらしいぜ」

「いつだ?」

「いつって。んな細けえとこまで知らねえよ。データのぞいたらわかるかもしんねえけど。こないだおばちゃんに怒られたばっかだから、あんまやりたくねえの」

「懲りろよ」

「だっておもしれえもん。俺、将来そっちのほうやろうと思ってんだ。システムとか、作ったりするやつ。まずやりてえのが、本社のセキュリティ強化だな。高坊に突破されるクソザコソフト使ってるほうが悪い」

 ユキの倫理観の欠如ぶりはいまに始まったことではないから放っておくとして。

「悪かったな。もとはといえば俺が行かなかったから、んなことになったんだろ?」

 急に謝られてビックリした。

 あのユキの口から謝罪の言葉が飛び出したのと、

 ああやっぱりという納得。

 全部、

 お前のせいか。

「死んだ母ちゃんが急に出てきてよ、ど平日の夕方に、学校終わってからここに来いっつって。意味わかんなすぎだろ? 気味悪すぎて無視したわ。そしたら、人違いでお前が巻き込まれてるって。でももう終わったんだろ?」

 終わったというか、遅かったというか。

 俺みたいに付け焼刃でなくて、ちゃんと見えてるユキがみふぎさんの助手ないし弟子だったら。

 こうはならなかったんだろうか。何か力になれたのではないだろうか。

 そう悔やまれて仕方がないが、今更悔やんでも仕方がない。

 なんでこの男はいつも事後報告なんだろう。

「嘘ウソ。悪かったてのはホントだけど、行かなかったホントの理由、教えてやるよ」

「いい。どうせ碌でもない」

「わーってる。じーちゃんから聞いたんだろ? 死んだばーちゃんの旧姓。納っつうんだって」

 祖父は、俺に事実を伝えるのが義務や正義だとでも思っているのだろうか。母が何も言わない(そもそも口をきかない)ので、せめて自分だけは正直でいようとしているのだろうか。何もかも包み隠さず告げればいいというものではない。世の中には知らないほうがいいことのほうが多い。

 死んだ祖母の旧姓もその一つ。

 全然知りたくなかった。

「ばーちゃんもそうだし、あと俺のホントの父親、久慈原センセじゃないと思ってんだよね。だって俺見えてるし。黒?てのが見えてたの、久慈原センセじゃねえし。そうすっとさ、みふぎさんと俺は姉弟てことになるわけよ。最悪だろ? なんで姉ちゃんの触媒ってのにならなきゃなんねえんだっつって。母ちゃん黒てのに殺されたせいでアタマおかしくなってたんじゃねえかな」

 ユキが自分の父親を一度も「父」と呼ばない本当の理由がわかった。わからなくてよかった。

 胸糞が悪いだけ。

「だから、お前の眼が一時的に見えてたのって、たぶん母ちゃんの呪いでもなんでもないと思うんだよな」

「んなどうでもいいこと言うために待ってたのか」

「キレんなって。お前だけ一人ぽっちで地獄に落ちてるわけじゃねえよってことを、身を持って教えたやろうとしただけなのにな。あんまり伝わってねえみたいだな」

 急速に頭が冷えてきた。

 なんで現実はこんなにも重く苦しい。

 俺の上にだけ降ってる嫌がらせの雨は一生已まない。

「んじゃあ、帰るわ。電話つなげてやったんだから、俺のことも黙っとけよ?」

「生憎と言う相手がいない」

「そりゃいいや。この世の不条理の鬱憤とか晴らしたくなったら、いつでもどうぞ? つーか、俺らが性処理セックスしてるってのが一番意味わかんねえけどな」ユキは下品に嗤いながら、帰って行った。

 どうでもよくなってきてしまった。

 息を吸うと埃やカビの匂いがする。座った縁側は薄っすら砂が積もっている。

 溢れた泉が一瞬で干上がった感覚。

 立ち上がる力が入らない。

 空っぽで虚しいいつもの日常が待っている。

 知らない番号からメールが来た。

 ―――お前の童貞は、従兄がもらったのか?

 意味がわからなかったが、意味がよくわかった。

 後頭部を気持ちのいい音で殴られたみたいな感覚。

「みふぎさん? いるんですか?」きょろきょろと見渡したが、やはり俺の眼はもう黒が捉えられない。「最悪の質問ぶつけてこないでください。あと何度も言いますが、俺はまだ童貞です」

 ―――感動の別れが台無しになったからな。アフターケアをしにきた。

「いるんならもっと早く遮ってくれればよかったのに」

 ―――まあ、それは結果論だな。お前と二度と話ができない未来もあったてことだ。

「わかりました。てゆうかどこでメールしてるんですか?」

 ―――言い忘れたことがあったのを思い出したんだ。

 ―――わたしの家を定期的に掃除してくれてた、お人好しに一言礼を言いそびれてな。

 ―――代わりに言っといてくれないか? 

 ―――お前が一年掃除をサボったせいでこの有様だ。

 ―――家ごと管理を任せるから、綺麗に保ってくれると有難いってな。

 どうしてそうゆうのを。

「生きてる間に言ってくれなかったんですか」

 駄目だ。

 眼の奥が再発火する。

「わかりました。伝えておきます。みふぎさんの家は、そのお人好しが守ります」

 ―――頼むな。じゃあ、元気でな。

 だいじな鍵を持つ手が震える。

「さようなら」

 あなたは。

 俺の恩人で確かに師匠でした。

 夕焼けはすっかり闇に呑まれていた。

 とりあえず、

 明日からまた掃除だ。

 やることはいっぱいある。

 死ぬのはそれからでも遅くないだろうから。


















     00


 クラスの子(友だちじゃない)がウワサをしていた。

 経慶寺の裏の長い長い石段を降りた先に、幽霊屋敷があるんだって。

 そこにいる女の幽霊に見つかると、生きて帰って来れないんだって。

 その屋敷の表札に、結納って書いてあるから、結納屋敷て呼ばれてるんだって。

 結納?

 つまり、その女の幽霊と結婚させられるってこと。

 女子が行っても何も起きないんだって。

 じゃあ俺らで行ってみる?

 行こうぜ行こうぜ。

 そう話してた二人は、放課後、幽霊屋敷に行ってみたらしい。

 逃げ帰ってきたみたいだけど。

 見た。

 だの、

 いた。

 だの。

 全然状況がわからない。

 直接聞くより、直接行ったほうが早い。

 夏の暑い日。

 みんなが学校に行ってる間に、その幽霊屋敷に行ってみた。

 女の幽霊に会いたかった。

 幽霊ならきっと、一瞬でおれを殺してくれるだろうから。

 生垣に囲まれた古い平屋。

 鍵は。

 開いてない。

 誰か住んでいるのか?

 そうすると、おれの計画が水に流れてしまう。

「いい加減、わたしの家で肝試しをするのをやめてもらいたいんだがな」

 声がした。

 後ろに、女の人が立っていた。

 ビックリしてのけ反ったら、門柱に頭をぶつけた。

 痛い。

 思わずしゃがみこんだ。

「大人しく帰らないと、もっとひどい目に遭うぞ?」

 痛みに耐えながらゆっくり眼を開けると、白く細い足が見えた。

「幽霊、じゃない?」

「二重にも三重にも失礼な話だな。ここは幽霊屋敷でもなければ、わたしも幽霊でもなんでもない。勝手に他人の家に入るなと、親は教えなかったのか?」

 親の話は、

 したくなかった。

「まあ、いい。さっさと帰れ。それにいまは学校じゃないのか?」

「もう行かない」

 死ぬつもりだから。

「行かない」

「別に行けとは言ってない」女の人が玄関の戸を開ける。「ほら、熱中症で倒れられても困るんでな。中で麦茶でも飲んでいけ」

 室内は、やけにひんやりとしていて、外とは別空間みたいだった。

 床を見るまでは。

 畳の上に細かいゴミが散らかっていたり、部屋の隅に埃が溜まっていたり。買い物袋や紙袋が散乱していたり、食べたあとの空容器や空箱も点々と。不衛生な環境に涌く虫がいても不思議ではない。不衛生極まりない。

 ガチで汚い。

 こうゆうのを、ゴミ屋敷というのでは。

「どうした? わたしに用があったんじゃないのか」

「あの、部屋、掃除してますか?」

「わたしはしてないな」

「じゃあ誰がするんですか」

「わたし以外だな」

 女の人は気にせずに中に入った。

 それはそうか。ここで暮らしているんだから。

「どうした?」

「あの、掃除してもいいですか?」

「構わんが、ボランティアで頼むぞ?」

「別にお金が欲しくてやろうと思ったわけじゃないんで」

 次の日。

 掃除用具(ほうきとちりとりとぞうきんとバケツ)とゴミ袋を持って幽霊屋敷もとい結納屋敷に行った。

 女の人は一切手伝わなかった。

 おれが縁側に移動させた薄い布団の上で、ごろごろと仰向けになってラジオを聞いていた。

「奇特な奴だな。お前に何のメリットもないだろうに」

「一人で住んでるんですか」

「基本は一人だな」

 大きなゴミ袋4つ分にもなった。

 一時的にはいいとして、放っておけばたぶん汚部屋に戻ってしまう。

「床が見えたの、何年ぶりかな」女の人がしみじみという。

「あの、定期的に掃除に来てもいいですか」

「構わんが、バイト代を期待するなよ」

 月一くらいで来れば充分維持できるだろう。

 しかし、翌月に来たら留守だった。日を改めても帰って来る気配もない。

 鍵が。

 わかりやすいところに隠してあったので、こっそり入って掃除だけ続けた。

 結局、そのあとは一回も会えてない。

 引っ越した?

 いや、でも家具はそのままだし。

 旅行?

 入院?

 掃除を続けていれば、そのうち会えるだろう。

 そうして、何年か経ったのち。


 とある2月の水曜日の夕方。

 いつものように掃除に入ったら。

 女の人がいた。

















タウ・デプス 深水しんすいの巫女

登場人物



ノウ 水封儀みふぎ


あっくん


久慈原クジハラ 時寧ときね


久慈原クジハラ 染為そまため


経慶けいけい寺住職


ジャン=シャオレー


小張オワリ 黎影レイヱ


久慈原クジハラ 翔幸かけゆき



岐蘇キソ 実敦さねあつ







   ・・・・終わり?




     ****


 次回予告


 弟子をクビになってから、最初の夏。

 相変わらず、俺に友だちはいない。


「見えてたことあるんだから、もう一回見えたとしてもおかしくないよね?」


 黒が。

 再生する。



   タウ・デプス

   ぬばたまのたらちね



「お母さんがみふぎなら、わたしもみふぎがいい。みふぎちゃんて呼んで?」

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