第3話 それは些細な違和感から始まった 3

それはほんの少しの違和感だった。


「あれ?」


 何がおかしいのか、どこに違和感を感じているのか、自分でもよくわからなかった。


 朝はいつものように起きた。今日は月曜日だ。普通に作業があるから七時に目覚ましをセットしている。目覚ましが鳴って起きたら正確に七時だった。おかしなところは何もない。


 身支度を整えて事務所に向かう。私は市内の設計事務所に勤める中堅設計士だ。設計と言っても機械や建物ではなく宅地造成などの開発設計だった。少し大きな事務所だったので分業が進んでおり、私の主な仕事は同僚が書いた図面でクライアントや役所との折衝をすることだった。


 電車とバスを乗り継ぎ八時二十分には事務所についた。いつものオフィス、いつもの同僚。変なところは何もない。今日の連絡事項など朝礼がありすぐに役所回りに出た。   


 午前の仕事を終えて事務所で昼食を取る。家では自炊しているのだが昼は弁当ではなく外食だった。

同僚の中に友人は多くはなかったが居ない訳でもなかった。私の周りには他とは一線を画している、というか相手にされていない恵右人が集まっていた。しかし、ある意味存在を認められているグルーブでもあった。オタクはすでに市民権を得ていたからだったが、実際にはそれほどオタクに染まっている訳でもなかった。いずれにしてもすべてが中途半端な集団だったのだ。


 その中でも私は中心人物ですらなかった。中途半端なグループの中の中途半端な存在だったのだ。

同僚と事務所外の友人たちの中心は杉江統一といった。同僚の中ではトップの成績でいつも表彰されていた。私とは本来隔絶した存在だった。

そんな成績トップの杉江は自分の方から声を掛けて来た。何か似たものを感じたらしい。


 普段は退社後にアニメや漫画やゲームの話をしたり、カラオケに行ってアニソンメドレーを歌ったりしていた。


「よう」


 普通に挨拶をした。


「よう、今昼飯かい」


 普通に返事が返って来た。やはりおかしなところは何もなかった。違和感は気のせいだ、と一人納得していた。


 仕事も終わり杉江や他の同僚と少し話をしてから帰路についた。今日は特に一緒にどこかに立ち寄ったりしようという事にはならなかったので普通に帰った。特に今は欲しい本もなかったので本屋もスルーした。


 一人暮らしの部屋に戻ると、当然部屋には誰も居なかった。2LDKの賃貸マンションの1室の本棚には好きなラノベが並んでいた。友達からは「趣味が偏っている」と言われていたが、好きなものの系統はずっと変わらないので仕方なかった。

私は朝からの違和感のことを考えていた。結局事務所に居る間は思い至らなかった。家で少し仕事をするために机に向かう。やはり気になった部屋を見渡してみる。朝、起きた時に感じた違和感だとすれば当然部屋の中のはずだった。だがいくら見渡しても違和感の正体が判らない。例えば並んでいるラノベを1期と2期を入れ替えて並び直されている、みたいな。


「さすがにそれはないか」


 もしそうだとしても誰が何のために、ということが皆目見当もつかなかった。自分以外に部屋に入れる者は居ないはずだったからだ。

急に電話が鳴った。SNS全盛の昨今、直接普通に電話してくるのは杉江くらいだ。


「どうした?」


「いや、なんか今日変だったろ?」


 どうも気づかれていたようだ。やはりトップとなると物が違う、妙に気の付く奴だった。そして、基本的にいい奴なのだ。


「判ったか。」


「判るさ。でも言いたくないのかな、って思って。」


「いや、言いたくないんじゃなくて、自分でもよく判らないから言えなかったんだよ」


「自分でもよく判らない?」

疑問に思うのも仕方ない。自分でもわからないことが他人にわかるはずもない。だから相談できなかった。それでも違和感は消えないのだ。


「朝起きたら、なんか違和感があるんだけど、何の違和感なのかが判らないんだ」


「違和感か。それは中々難しい問題だね。自分でも判らない違和感を説明できるはずがないよな」


「そうなんだ。だから事務所でも何も言えなかったんだよ」


「判った、じゃあ今日、泊まりに行っていいか?」


「今からか?」


 まだ遅い時間ではないので電車は十分動いている。杉江の家からは二駅ほどなので一時間もかからず来られるはずだ。


「いいげど」


 私が一人で他には誰も居ないことを杉江は知っていた。但し、家にまで来たことは今まで一度もなかった。


「じゃあ、お泊りセットを持って行くよ、痛くしちゃいやだよ」


「バカか。ふざけてないで早く来いよ、待っているから」


 こうして杉江統一は私の部屋に泊まることになった。明日は火曜日だから普通に起きて会社に行かなければならない。彼の分の朝ごはんも用意しないと。私は少しだけ高揚しながら彼が来るのを待った。

安いものだが気に入っている赤ワインと少し高目のアテの缶詰がいくつかあった筈だ。あれ、なんで私はこんなにウキウキしながら杉江を迎える準備をしているんだっけ?私にはそんな趣味はなかったはずだ。なかったはずだ。確かになかったはず。昨日まではなかった。というか今まで生きて来て感じたことはなかった。私は男だ。多少中二病を発症してはいるが普通の成人男性だ。恋愛対象は女子だ。ああ、少し頭が混乱してきた。杉江と話して彼に整理してもらおう。そういうことが彼は得意だった。物事の本質を見極める目がある。俺はいつもそう思っていた。一目置いていたのだ。


 ピンポーン。


 インターホンが鳴る。


「どうぞ、開いているよ」


 相手を確認もせずに俺はインターン越しではなく外に聞こえるように言った。


 ガチャ。


 ドアノブを回す音。ついでドアが内側に開いた。そこには杉江ではない、何かが立っていた。


「誰だ?」


 杉江だと思っていたが別人だ。いや、人ですらないのかも知れない。人の形をした何かだ。眼はギョロっとしていて瞼が無い。鼻は潰れており、口は人間のそれより横に広がっていた。中には細かい歯が異常な数並んでいた。体格は大男のようだ。180Cmはありそうだ。


「ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん」


 それが本当にそう言っていたのかは判らなかったが、くぐもった声でそのようなことを口にしたことは確かだった。意味は全く判らないし、何語なのかも判断できない。


「大人しく付いて来い」


 くぐもった声、とても人間の声とは思えない声。辛うじて聞き取れる日本語はとても日本人とは思えない程だった。


「お前は誰だ?付いて行く訳ないだろう」


 キレ気味にそう言うと人型のソレはすぐに消えてしまった。そこに杉江がやってきた。


「なんだ、出迎えてくれたのか」


「いや、今誰かが来ていたんだ。会わなかったか?」


 タイミングとしては絶対に出会っているはずだった。あの巨体だ、杉江が気付かないはずがない。


「探してみよう」


 二人でエレベータと階段(私の部屋は四階だった)に分かれてさっきの男を追った。私がエレベータで降りた杉江に追いつくと杉江は一人だった。


「どうだった?階段では出会わなかったが」


「少し周辺を見てみたけど、それらしい人影はなかったな」


「そうか、もう逃げてしまったんだろうな。まあいいや、部屋に戻ろう」


 とりあえず杉江を招き入れて鍵を掛けた。念のため二重ロックを両方ともだ。


「確かに見知らぬ人だったんだな。知り合いではないと」


「あんな知り合いはいないよ」


「それで、一体今日はどうしたんだ?」


 私は今朝からの話を包み隠さず話した。と言っても特段何かがあった訳でもないのでほとんど話すこともなかったのだ。たださっきの魚男(そう呼ぶことにした)のことは別にして。


「それはそもそも人間だったのか?」


「私にも判らないよ、見たことない異常な顔だった。それに変なことを言っていたな」


「変な事?」


 私は杉江に再現できる範囲でさっきの魚男の発音した言葉を伝えた。すると突然杉江の顔色が変わった。


「何?どうした?何か知っているのか?」


 何を聞いても応えはなかった。ただ似つかわしくない難しい顔で黙り込んでいる。


「何だよ、知っているなら教えてくれよ」

すると神妙な顔をして杉江は話し出した。


「判った。でもこれから話す事はとても信じられることではないと思うんだ。それでも聞く気があるかい?」


「脅すなよ。とりあえず話してくれ」


 杉江の話は荒唐無稽なものだった。地球は人類よりも遥か昔に旧支配者と呼ばれる存在が支配していたこと。旧神と呼ばれる存在との間に戦争が起こり旧神側が勝利したこと。その際、旧支配者たちはそれぞれ様々な場所や次元に封印されたこと。そして、その封印を解こうとしている勢力が居ること。それらは眷属と呼ばれる者たちや宗教団体を隠れ蓑にした人間たちだということ。


「そんなこと信じられる訳、」


「無いよな、だから言ったんだ」


「それでも本当のことだと?」


 私には杉江が嘘を吐いているとも思えなかった。そんな幼稚な嘘で私を揶揄うような奴じゃない。とすると、まさか本当のことなのか。


「それでさっきお前が言った意味不明な言葉はこういう意味になる」


(ルルイエの館にて死せるクトゥルー、夢見るままに待ちいたり)


「どういう意味なんだ?」


「大した意味はない。クトゥルーがルルイエの館で眠りについている、って程度の意味しかないよ。但し、ダゴン秘密教団の中では神聖視されている言葉だ。」


「死せる、っていう事はもう死んでいるんじゃないのか?それに、そんな言葉をなんで私の所にわざわざ言いに来たんだろう、それと私に付いて来いって言っていた」


「本当はこんな話をしたくはなかったけど話したんだ」


「杉江が嘘を吐いているとは思えないし普段のお前は変な冗談を言ったり騙したりするような奴でもないことも判っている。だからこそ、全く意味が判らないよ」


 それはそうだろう。いきなり旧支配者だの旧神だの言われて、はいそうですかと納得する方が頭がおかしいと言われるだろう。


「それで結局私はどうしたらいいんだろう」


「とりあえずは何もしない方がいいかもしれないが、連れて行こうとしていたのなら目的は一つだろうな」


「目的ってなんだよ」


「お前を拉致しようとしていた、ってこと」


「脅かすなよ」


「脅かしてはいない。注意喚起しているだけだよ。本当はどこかに姿を隠した方がいいかも知れない。ダゴン秘密教団の関係者だとして、彼らが外部の人間に接触するときは何かの儀式に利用しようとしているときぐらいしか考えられないから」


「儀式?」


「そう。もちろんクトゥルーの封印を解くめの儀式。生贄ってことさ」


「いっ、生贄?私は殺されるのか。」


 背中に冷たい汗が流れた。昨日までの日常が音を立てて崩れ落ちていく気がした。


「脅して申し訳ないけど、楽観視していても現実の認識ができなかったら意味ないからね。でも狙いは本当にお前なんだろうか。お前に一体何があると言うのだろう」


「私が聞きたいよ、そんなの」


 まとめると多分だがダゴン秘密教団の関係者が私の所にやってきた、ということらしい。但し、目的は果たせなかったようだ。杉江が来た所為、というのが彼の見解だったが、ダゴン秘密教団が恐れる存在、ということなのだろうか。それはそれで怖いことなんじゃないのか?


「それで、杉江はなんでそんなことに詳しいんだ?関係者なのか?」


 当然の疑問だった。とても一般常識ではないことを詳しく説明してくれるのだ、何かに関係しているとしか思えない。


「僕は、そうだな、いつか話せる日が来たら話すからそれまでは待ってくれないか」


 めずらしく真剣な目で言われると承諾するしかない。


「判った、でも必ずいつか話してくれよ」


 十分用心するように、と告げて杉江が眠りについたが私はなかなか眠れなかった。考えれば考えるほど答えの出ないことに苛立ってしまうのだ、眠れる筈がなかった。


 なんとか何も考えないようにして一応の眠りにつけたのは、もう少し明るくなり始めた頃だった。

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