第55話 糸を切る時

 僕のおもちゃ。


 投げつけられた評価を、ユスティーナは音を出さずに唇の動きだけで復唱した。口の中がからからで、声を出せない彼女の代わりにヴァスが吠え立てた。


『貴様……まさか歴代の月の女神たち全てに、そういうつもりで接していたのか!?』

「そうだよ」


 けろりとした調子でイシュカは答えた。第三者の立場で湿度のない悪意を確認したことで、ユスティーナは現実に引き戻された。


 やっと気付けたはずの真実などより、さらに過酷な現実へと。


「私、ずっとイシュカ様に相応しいように、ど……努力、して」


 君は僕の銀月の君。努力などせずとも、誰よりも優れているはずなのに。ラージャ宮殿に帰ると決まったあたりから、イシュカはそのようなことを二人きりの時にだけ言うようになった。


 彼にとってのユスティーナは、傷付く姿を愉しむためのおもちゃ。その前提に立って思い返せば、出会いから間を置いて態度を変えたことさえ、企みの一環だったのだろう。


 何度も転生して巡り会う運命の二人とはいえ、ユスティーナはイシュカが迎えに来てくれたことでその運命を知った。最初の印象は、兄様よりきれいな男の人を初めて見た、だけだった。


『やっと会えたね、僕の女神』


 そう言われ、手を取られて甲に口付けされても、物語のようだとぼけっと眺めているばかりで、正直まるで実感がなかった。世間に流布している美しい出会いは、少なくとも最初の段階ではユスティーナにとって意味不明のものだったのである。


 ただ、どこかしら魂に響くものは感じていた。何より初めてあった頃のイシュカはとても親切で、泥まみれで森の中を走り回っていたおてんば姫を咎めることなく、かつ一人の淑女として扱ってくれた。


 五歳の少女がそんな扱いを受けて、相手の男を好きにならないはずがない。ローゼはたまに不満そうにすることがあったが、アルウィンはユスティーナ同様、たちまち彼に骨抜きにされていった。


 イシュカがアルウィンには、現在までも一貫して紳士的であるのはもちろんだ。それ以上に責任感が強いアルウィンにとって、ナインを王にすることだけは絶対できないとやきもきしていたところに、強力な味方が現れた。頼ってしまうのは当然だった。


 兄も師匠も侍女たちも、国中の人々が数百年に一度とされるイシュカの出現を喜んでいる。彼と共に正しき世界を導く者としてユスティーナに期待している。ユスティーナに立場から得られる旨味と付随する責任を理解させる、そこまで全て、イシュカの仕込みだったのだ。


「でも、何をしてもイシュカ様は、満足してくださらなくて……だから私、もっと、もっと……がんばって……ヴァスにも絶対、どんな手を使ってでも、勝たなきゃって……」


 兄を王にしてくれた人。懲りないナインの野望を終わらせてくれる人。王国の平和を保ってくれる人。イシュカは失えない。彼の機嫌を損ねてはならない。そう誘導されていたユスティーナは、努力している姿さえ隠して結果を出そうともがき続けていた。けれども。


「そんなの本当は、イシュカ様のお望みじゃなかったんですね。だって、あなたは……私なんかよりも、ヴァスよりも、ずっとずっと強い……」

「そうだよ」


 ユスティーナの声がどれだけ揺れようが、イシュカの態度はほとんど変わらない。強いて挙げるなら紫の瞳の中に、嗜虐の悦びがちらちらと蠢くぐらいだ。


「僕は戦ってはいけないことになっているから、ずっと君の補佐ばかりしていたけどね。どうしても君がこいつに勝てないようであれば、僕が始末して終わりにするのはいつでもできた」


 ラージャ宮殿の兵士たちはいまだ警戒を解いていないのに、イシュカは獅子型を取っているヴァスを、野良猫でも相手にするような調子で話題にする。高位の風の術によってその場の音は支配されており、兵士たちには風の音以外はろくに聞こえない。


「けれど、それじゃ面白くないだろう? せっかく銀月の君が獣返りなんぞに心を移す、滅多にない展開になったのに」


 侮蔑にヴァスがぐるる、と低く喉を鳴らしても、イシュカは彼を無視してユスティーナだけを見ていた。


「その上でこの僕に向かって、こいつとは戦えないと来た。君は本当に楽しませてくれるね、可愛い僕のティナ。ご褒美に、新しい神話になるような眼に遭わせてあげよう」


 これまでの反省ごっこなど生温い。歴史に刻まれる罰を与えるとの宣言に、再びユスティーナは言葉を失った。気力も失った。


 痛みや屈辱を予想したからではない。イシュカが意図して自分を苦しめようとしている事実が、いまだに彼を愛している心に爪を立てるからだ。


 イシュカの本音は本人の口から語られたのに、彼が用意した舞台から降りられない。力でも、心でも、どんな風に反抗しても勝てない予感が消せない。


ユスティーナは覚えていないが、歴代の月の女神たちの記憶がそうさせるのかもしれない。真実を知れば知るほど、絡みつく仕組みの操り人形の糸。身動きが取れない。


 ここでイシュカに最期のお楽しみを提供した挙げ句、華やかな嘘で固めた話がまた語り継がれていくだけ。次に生まれ変わっても、その時の彼女がどれだけ優秀であっても、同じことの繰り返しになるだけだと分かっているのに。


『ユスティーナ』


 しかし今のユスティーナは一人ではない。片割れであるはずの太陽神にさえ玩具扱いされようとも、残っている者がいる。盟友同様に諦めの悪い、かつての月の女神が振ったはずの獣が。


『助けてと言え』


 驚いて見上げた獅子の眼には怒りがあった。憐れみがあった。理不尽に立ち向かう気力があった。


 イシュカが時間をかけて愉しみながら、ユスティーナから削いでいったもの。それらをおぞましき獣返りと呼び、殺し合ってきた男が差し出してくれていた。


「た……助けて、ヴァス」


 人々を導く者としてユスティーナは生まれつき、育てられてきた。役割に忠実な人生を送ってきた彼女が、そんな言葉をここまで切実な想いで口にしたのはいつぶりだろうか。


 ふっと一本、心を縛っていた糸がちぎれた感覚があった。それを足がかりにして、ユスティーナは大きく深呼吸してから軽く拳を握り、愛用の弓を持ち上げた。 


「私と一緒に、戦って……!!」


 助けてはほしいが、何も彼もヴァス任せにはできない。依存先がイシュカから彼に移るだけだ。勝てずとも、その結果どんな眼に遭わされようと、ユスティーナ自身が四肢を縛る糸を切って勝負に出る時が来たのだ。


『──そうこなくてはな』

「それでこそ、君だ」


 追い詰められたこの土壇場で、今度こそ正しい選択をしたユスティーナ。そんな彼女への称賛をほぼ同時に口にした男たちは、一瞬視線を交わし合い、無言で逸らした。

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