第51話 夜に昇る

「えっ?」

「なっ……!?」


 びしゃりと肌に飛び散った真紅は、大河の水のようにさらさらと流れ落ちない。べったりと粘つき、鉄錆の匂いを肌や衣服に染み込ませていく。


 呆然としているユスティーナの足元を、怒りを込めた一撃が揺らした。ヴァスが前足でだん、と地を叩いたのだ。金の瞳は激しく輝き、月と見まごうほどだった。


「ヴァス!?」


 見上げれば、先程まで聖なるジスラの水に濡れていたヴァスの左の前足に真新しい裂傷がある。矢傷とは違う、かまいたちに裂かれたようなそれは、高度な風か破の術によるものと思われた。


 傷そのものは、獣の全身と比較すれば大したものではない。ヴァスの怒りもユスティーナの驚愕も、今の彼がこうも簡単に傷付けられたこと自体が原因だった。


 ヴァスを見てナイン軍は逃げ出した。ラージャ宮殿の守護兵も消火作業に追われていたせいもあり、逃げ出しこそしなかったが、相手は宮殿と同じぐらいの大きさがある獅子だ。魔獣を相手取って戦うことを想定している彼らでさえ、圧倒的な巨体を前に武器を向けることすらしない。


 攻撃したところで、ただの人間に傷一つ付けられるはずがない。下手なことをして注意を引けば、呆気なく返り討ちに遭って終わり。実力を持つ戦士であればあるほど、その未来が見えてしまうからだろう。


「君がぼんやりしているから、軽く援護はしてあげたよ」


 一目で誰もが怖じ気づく魔獣を前に、ただの人間には持ち得ない力を振るった青年がゆっくりと近付いてくる。火を浴び、直後に水を浴び、元が美しいだけにみじめな姿になったラージャ宮殿を背景に、褐色の美貌は一際光り輝いて見えた。


「久しぶりだね、ティナ。戻ってきてくれると信じていたよ。さあ、今度こそ、ナインとその飼い猫に身の程を思い知らせてやりなさい」


 警備のために掲げられていた火灯りも無差別な雨に消されてしまったため、暗くなっていたはずの場を陽光が照らし出す。微笑みを浮かべた紫の瞳に、自分が取り込まれていくような錯覚をユスティーナは覚えた。


「イシュカ、さ、ま……」


 会いたかった。


 その想いよりも先に本能的な恐怖が、続いて獣の咆吼がユスティーナの心を占めた。


「ヴァス!?」


 攻撃されて怒ったヴァスが、イシュカに飛びかかろうとしている。状況的にそのつもりかと戦慄したユスティーナであるが、どうも様子がおかしい。


 叫んだヴァスの前足は確かに攻撃した。イシュカではなく、自分の目の前にあったラージャ宮殿の壁と見張りの塔をだ。


 そこを破壊してイシュカに近付こうという風ではなく、ただただ、壊している。衝動の赴くまま、駄々をこねる子供のように、目に付くものを手当たり次第に殴り付けている。


「イシュカ様、ヴァスに何を……!」

「君が見たとおりさ。皮膚を少し切っただけだよ」


 異様な行動に驚いたユスティーナが追及すると、イシュカは事もなげに説明してくれた。


「身の程知らずの獣は、たったそれだけのことで制御を失う。神話の時代から、まったく成長していないね。かわいそうに」


 発端はイシュカではあるが、ユスティーナが咄嗟に勘ぐったように精神を支配した、などという理由ではない。話はもっと単純なのだ。


「ちょっとしたことで、こうなってしまうから……ナインにも、この姿を見せたことがなかったのね……」


 伏兵に取り囲まれ、追い詰められたあの時でさえ、ヴァスは獅子の姿にならなかった。獅子の力を得るのと引き換えに失われるものが大きいからだ。


 体力の消費を抑えるため猫の姿になっていた際は、人型の時と同様に行えていた精神の制御が難しくなっている。小賢しいとさえ言われていた男は今、本能に忠実な文字どおりの獣と化していた。


「……ヴァス……あなたの気持ちが、聞こえすぎて……ずっと耳元で、叫ばれているみたい……!」


 痛い。憎い。殺してやる、壊してやる! なまじ獣の心が分かるだけに、ユスティーナの胸は彼の心の嵐に締め付けられた。


 恐れていた。それゆえに蔑み、嘲り、絶対に勝たなければと震えていた。立ち塞がる敵、尊大な獣返りとしてのヴァスしか知らなかった時は、彼の事情になど思いが及ばなかった。


 何も知らなかったから、殺意を維持することができた。今は違う。こんなに悲痛な叫びを上げている相手に、たった一人の友に背を向けられた彼に、どうして矢など向けられるだろう。


 ましてヴァスは、あのような手を使って彼を始末しようとしたユスティーナと、今度こそ一対一で戦いたいと願ってくれたのだ。イシュカの手を借りていない、ただのユスティーナと。


「イシュカ様、ごめんなさい。私……今ヴァスとは、戦えない」

「そうみたいだね」


 あっさりとイシュカはうなずいた。


「でも、恩知らずの獣返りは違うようだよ?」


 再び轟く雄叫びがイシュカの金髪をかき乱す。手近に壊すものがなくなったヴァスの、血走った目がユスティーナを凝視していた。


 殺してやる。


 その執念を凝縮したような一撃が、ユスティーナを狙って振り下ろされた。

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