第2話 あれから一年

 それが一年前、ユスティーナが十四歳の時の話である。


「お砂糖おいしーい!」


 あの日食べ損ねた分を取り戻すかのように、今日もユスティーナはあれだけ昼食を食べてすぐ、お茶とお菓子の大量摂取に余念がない。こってりしたバタークリームを挟んだビスケットが、次から次へと大きく開いた口の中に消えていく。


「バターおいしい! クリームおいしい!! もちろんフルーツだって、とってもとってもおいしいけど、ごめんなさい! この過剰なまでの栄養価の暴力に、人間は逆らえないの……!!」


 フルーツサンドも嫌いではない。嫌いではないが、さわやかな酸味と素朴な甘み程度では、心に空いた穴は埋まらないのだ。


「ユ、ユスティーナ様」

「ごもっともですが、多少は逆らったほうが、その……」


 銀月の君としては、と言いかけて双子の侍女の片割れが口ごもったのを察し、ユスティーナはふと手を止めた。


「サラ、リラ……ええ、分かっています。あなたたちの言いたいことは、全て分かっています……」


 両手にビスケットを持ったまま、ユスティーナはしんみりと瞳を伏せた。


 サラとリラとは元々、現在ユスティーナが身を寄せている、このカイラ山の離宮で暮らしていた頃に知り合った。二つ年下の少女たちは、いずれ高貴なる方に仕えるためにと礼儀作法を叩き込まれており、体を動かすことが大好きだった幼いユスティーナよりよほど淑女らしかったのだ。まだ兄と従兄弟の確執もよく理解していなかったユスティーナが野山を駆け巡り、派手に服を汚して帰ってくるたびに、「お願いですから王女様らしくなさってください!」と泣き真似されたものである。


 そのたびにごめんね、と謝りながらも、おてんばぶりが治らなかったユスティーナ。暗殺されかけて宮殿を逃れた兄と共に、物心ついてからずっと離宮暮らしをしている彼女は、王女らしくと言われても正直ぴんと来なかったのだ。


 サラ・リラが侍女となった時点でイシュカと出会ってから数年が経過していたが、彼もまずはアルウィンの政治的な地盤を固めて王にするほうが優先だと思っていたのだろう。ユスティーナが幼すぎたせいもあってか、時折顔を見せてくれた際に猟師見習いのような格好をしていても怒らず、「君はとっても運動神経がいいんだね」と優しく微笑んでくれた。


 やがて、イシュカの助力を受けたアルウィンが無事に戴冠すると決まった。八歳になったばかりのユスティーナも、兄と一緒にラージャ宮殿へ移動することが決まった。大好きなイシュカも一緒に来てくれると教えられ、はしゃぐユスティーナに彼はいつものように優しく微笑んだ。


『そろそろ君も、女神の生まれ変わりとして自覚を持つべきじゃないかな? 可愛い僕のティナ。このままでは君自身だけではなく、僕や兄上、サラにリラまで恥をかくことになってしまう。ねえ、君はそんなに頭が悪くないはずだよ』


 ──あの時から、自分とイシュカは、何かが決定的にずれているような気はしていたのだ。


 それでもユスティーナはイシュカのことが大好きだったから。年上の男性としての魅力だけではなく、年を経て国の状況を理解すればするほど、彼は窮地にあった兄と自分を救ってくれた恩人なのだと強く意識し、感謝していたから。だから、あらゆる疑問をねじ伏せてイシュカに従っていた。


「だけどね、もう私は銀月の君なんかじゃない! イシュカ様の婚約者なんかじゃない!! だからいいの! おいしいものをたらふく食べて、鍛錬もせずぐーすか寝るだけの生活を送っても、もういいの。もういいのよ……!!」


 油断するとこみ上げてくる涙を押し戻すように、左右の手に握ったビスケットにかじりつくユスティーナ。イシュカが側にいた時は食べられなかった、冒涜的なまでの甘みだけが、彼に捨てられた喪失感を忘れさせてくれる。


「……そっとしておいて差し上げよう、リラ」

「サラ、でも……」


 長い茶の髪を一つのおだんごにまとめたサラが言っても、不安げなリラの目は暴食を続ける主から離れない。


「……お食事をしてくださるだけ、前よりましだもの。お医者様がおっしゃってたじゃない。極端にやせるより、ちょっとぐらい太っているほうが健康的だって……」

「う、うん……ちょっとぐらいね……ちょっとぐらい、ならね……」


 姉よりさらに美意識が高く、肩先で切り揃えた髪型の維持に熱心なリラは、積み重なった心労のせいで「ちょっと」太ってしまったユスティーナの体型が気になって仕方がないのだ。


 しかしサラの言うように、イシュカが去ってからの数ヶ月、食べることも眠ることもできず寝台で天井を見上げていた状態よりはましだ。……多分。そう自分に言い聞かせたリラは、サラと共にミルクたっぷりの乳白茶のお代わりだけを用意した後、ユスティーナの部屋を辞した。

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