グッド・ベイ

白川津 中々

1.1

 海を見たい。

 日常から逃げ出した理由はそんなものだった。

 自室と会社を繋ぐプロムナードの上で頭に浮かんだ海のイメージは、小さな事務所でモニターを眺めながら小賢し気にキーボードを叩き社会において一分の意味もない資料作成に従事する現実を破壊するに十分な威力を有していた。私が海に逃避行したところで社会になんら益をもたらさない点についてはデスクの前に座る事と差異なく、資本循環の観点からいうとむしろ損害につながる分より悪辣な行いとなるわけだが、個があっての衆であり、自由意思の遂行は自己の責任が及ぶ範囲で最大限尊重されるべきであるからこれを止める事はできない。すまない弊社。私は海を見たいのだ。


 だから私は勤め先とは反対方向へと向かい歩く。

 そうとも。海だ。私は海へ行くのだ。


 出だし好調。出社を目的として足早に過ぎ去っていくスーツの人間達から感じる無気力、焦燥、怒気、悲哀が心地よい。「ざまぁみろ。私はこれから海に行くのだ」と心の内で呟き含み笑い。彼らに恨みなどないが、そう言ってやりたかった。なんなら彼らも誘って浜辺で肉を焼き酒を飲んでも良いと思ったものの、私と違って家族もいるかもしれないし、精神が正気であればまず賛同はしまい。逆に「いいじゃないか」と手を取る人間は気が狂れている。生憎だが、私には狂人と友情を結べる度量がない。故に一人、話し相手もないまま、寂しい風に気まま吹かれて歩き続けたのだ。どの列車に乗って何処へ行けば海に辿り着くかも知らない。スマートフォンで調べれば労せず叡智を得られようが、私は自由。有り余る時間を楽しむ為に、無知のままでいよう。


 さぁ、駅だ。電車だ、乗り込むぞ。とりあえず眠い。車内で一眠りして、起きたところで降車しよう。私には、その権利が、自由があるのだから。

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