第二章 定時退社よ水曜日

 結局、月曜日は澤田女史の預言通り(?)残業に突入してしまい、帰りは終電に間に合わせるために速攻でビルを出て行った。


 そんな事をしていたので、同じビルにあるとは言え地下のバーに行って、マスターに傘を貸してくれた男性の話なんか聞けに行ける状況じゃなかった。


 火曜日も、相変わらずのブラック残業に突入していたし。アタシの人生本当にこのまま先輩女史のように独り身の人生を歩むのか? と思って帰りの終電車では少し憂鬱になってしまった。


 でも、神様は見捨てなかった。朝の情報テレビ番組の占いでも、今日アタシの星座は一番運気が良いんだって言ってたし。


 月曜日と火曜日で死に物狂いで創りこんだキャラクターが、水曜日午前中のクライアント会議で一発オッケーが出たんだ。普通は、たとえクライアントのイメージ資料をベースにキャラクターをアニメCGとして創っても、大体は何か所の直しが入る。だから、大抵はクライアント会議の後に、また超残業の日々が続くんだ。


 ところが、なんと今回作りこんだ新キャラクターは、多少の色味変更はあったけど、ほぼ修正無しという快挙を成し遂げた。これで今日は残業しなくて定時に帰れそうだ。


 ……という事は、今日は地下のバーに寄って例の男性の傘を返しに行けるじゃん! と思うと、もう午後の仕事中、思わず顔がほころぶほころぶ。


 お手洗いに行っても、ニタニタしてたら、後から入って来た澤田お姉さまからは軽くジャブが飛んできた。


「あら、アンタ? 今日は定時に帰れるから喜んでいるの? それとも、傘の男を探しに行けるから喜んでいるの? そんなにニタニタしてたら、男あさりの飢えたアラサーに思われちゃうから、もっと顔を引き締めてね。」


「えー、そんなににやけてますか、アタシ」


 思わず、鏡を見直して、両方のホホをパシンと叩いて顔を引き締める。

 そして、ジャブのあとから、えぐりこむようなストレートをアタシのボディーにぶち込んで来るのを忘れないのが、流石腐っても独身女性の先輩だ。


「そう言えば、ちゃんと勝負パンティ履いて来てるの? いきなりホテルに連れ込まれてもいいようにしなさいね。これは先輩女史からのアドバイスだからね」

「まさかー、そんあ事はないですよー。だって傘を返しに行くだけだし。そもそも会えないかもしれないから、今日はマスターに預かってもらうつもりですもの」


 アタシは、先輩女史の心からの(?)警告を頭の隅に押し込んで、お手洗いを軽いステップを踏みながら出て行った。


 さあて、後は定時になったら、地下のバーにまっしぐらだぜ、イェーイ。


 先輩女史に見えないように、こっそりと親指を立ててガッツポーズをかますアタシ。


 ☆ ☆ ☆


「うーん。日曜日、お嬢さんが出て行った直後にお店を出た男性の方ですか? お嬢さんよりも背の高い方ですよね?」


 アタシは、バーのマスターに日曜日の件を説明して男物の傘を差しだした。バーのマスターはアラサー独身女性のアタシにも『お嬢さん』と言ってくれる唯一の男性なのね。マスターがもう少し若かったらアタシの方から襲っちゃうぐらいカッコいいし礼儀正しい男性だった。


 アタシは普通の女性に比べるとかなり身長が高いんだ。だから、アタシよりも背が高い男性、という条件を付けると探し人の数は一気に減る。それもあって人探しは楽勝だと思ってた。


「日曜日のあの時間にいた方ですかー。その時のお客様の中で、お客様より背の高い男性となると……、うーん、そうですね、もしかしたらあのお客様でしょうか?」


 そう言って、マスターはカウンターの端で一人飲みをしている男性に視線を向けた。そこには、背の高い男性が疲れたようにしてお酒をちびちびと飲んでいた。


 あれ? なんか日曜日の時と後姿のイメージが違うんじゃない?


 アタシには、日曜日に傘を渡して走り去っていった男性のイメージが、今、カウンターの端に座って飲んでいる男性のイメージのそれとは一致していないように思えた。

 アタシが彼の後姿を見て悩んでいると、マスターが助け船を出すかのように呟いた。


「ああ、そうか。お嬢さんは、彼の印象が日曜日と違うと思っておいでなんですね。実は、あのお客様『わけありの男』なんです。ですから印象が異なるのはありえるんです」

「はぁい?」


 アタシはマスターの言葉を聞いて、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。アタシの傍にいて、ゆったりとお酒を楽しんでいる何人かは、思わずアタシの方を見ていぶかしげに睨んできた。アタシは、彼らに対して、思いっきり頭を下げて謝った。


「お嬢さん『わけありの男』に関しては私の口からは申し上げられません。個人情報のお話になりますのでね。ぜひ、一度あのお客様とお話してみてください」


 アタシは、マスターに預けようとしていた傘をもらい受けて、マスターの言葉に後押しされるようにカウンターの端に座っている男の人に向かって歩みだした……

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