第34話

 「伊織をかき乱した巫女は亡くなったのです。今さら王の宮へ出すも出さぬもなく、咎なく里へ帰して差し上げなくては」

 「何を言うのだ」


 ヤスオが血相を変えて弓兵に詰め寄った。


 「トヨヒコ! そなたには、大水葵の心が分からんのか! 」

 「分かりませぬなあ」


 トヨヒコは顔を上げたが、頭がぐらりと後ろへ傾いだ。死んでいる! 屍の首に白い蛇が巻きついてこちらを見ているのが、ナギの目にはっきりと見えた。


 「トヨヒコ……? 」

 「ヤスオさま! 」


 ヤスオには、蛇が見えないらしい。肩に手をかけて揺すろうとし、ナギの警告も空しく、矢で肩を突かれた。鏃は深く突き刺さり、ヤスオはもう一方の衛士の足元へ倒れ込んで一声唸った。


 「邪魔をするとあなた方も噛み殺しますよ」


 トヨヒコの屍に矢を引き抜かせ、白蛇が言った。屍の首筋には、赤い傷口がふたつ並んでいた。


 「おのれ」


 姿は見えないまでも何かそこにいるということを呑み込み、ヤスオは果敢に問い質した。


 「姿を見せよ! 伊織の神の御名にかけて、もののけの類は討ち祓うてくれる」

 「あなたの目になぞ映るものですか」


 白蛇はヤスオを鼻であしらい、ナギをじっと見つめた。


 「ああ、ご無事でなにより……」


 星のない目だった。ナギは慄然とした。


 「千曲殿……」

 「ええ」


 千曲の心を持った白蛇は嬉しげに尾をくねらせた。


 ヤスオは介抱しようとうろたえる衛士の手に構わず、千曲を睨みつけた。ヤスオには何も見えていないはずだが、睨みあげた方は誤っていなかった。


 「ナホワカも貴様がやったのだな」

 「ああしなければ、大水葵さまはあなたに斬られてしまったのではありませんか? 」


 千曲は鈴を転がすような声で答えた。ヤスオは歯を剥いた。


 「勝手なことを……」

 「勝手なひとはいつの世にもいます」


 千曲はぴしゃりと言った。


 「ご自分の都合に沿わないからといって、そんなふうにおっしゃらないで」

 「……高嶋もか? 」


 ナギは尋ねた。千曲が首を傾げた。


 「高嶋さま? 」

 「高嶋もそなたが動かしたのか」


 千曲は目蓋のない赤い蛇の目をふと空に向けた。


 「可哀相な方……本当は衛士になど向いていないのに」


 それから、少し首を傾けたままで言った。人の仕草だと、横目で見ているところだろうとナギは思った。


 「高嶋さまは、生きていらしたでしょう。わたくしがこうしてくださいと、お願いしたわけではありませんわ。わたくしは……」


 蛇は下からナギの顔を覗いた。鱗に覆われた白い面に濃く千曲の顔が重なり、ナギは後ずさった。


 「ただあの方の傍らで、心をお慰めしただけ……あの方が大水葵さまにお会いできるように、導いただけです」


 そのとき突然に、ナギはあの白蛇の夢を思い出した。あの生温い、盲目の快楽に堕ちてゆきそうな妖しい夢には、千曲が忍んできていたのだ。あわやというところで、あかるこが救ってくれた――あれから一度もこの女の夢を見なかったのは、あかるこが守っていてくれたからだったのだと、このときナギに知れた。あかるこは言っていた。呪う力は、守る力には勝てないと。


 「妖婦……」


 肩を押さえてうずくまったまま、ヤスオが呟いた。


 「そなたは妖婦じゃ……」

 「大水葵さま――」


 トヨヒコを歩かせ、千曲はナギに寄ってきた。


 「あなたも、本当は衛士などやりたくないのではありませんか? お優しい方……巫女が亡くなった今、もう剣など持たなくともよい。あなたを縛りつけていたものは、もう何もないのです。伊織へ戻られませ……どうぞわたくしと……」


 千曲はあの夢のように、ナギの首をとらえようとした。


 ナギはあかるこの身から領巾を借り受け、千曲を叩き払った。白い長虫の体は傷つきはしなかったが、千曲は金切り声を上げて葉叢を転げた。トヨヒコは己のものではない支配を断ち切られ、後ろ向きにどさりと倒れた。首が妙な向きにねじれた。


 「トヨヒコ! 」


 衛士が駆け寄ろうとした。


 「寄るな! 」


 蛇の鎌首が葉を押し分けて噴き出た。衛士の足先を尾で鋭く払い、千曲は獣のような息を漏らしながらトヨヒコの首に戻った。


 トヨヒコはぐらぐらと揺れながら立ち上がった。千曲は人間の体の仕組みにとって無理のないように死者を動かしはしない。首だけでなく、トヨヒコの体には故障が出はじめていた。


 「あの女」


 千曲は憎々しげに言った。先の鈴の音のような声とは似ても似つかない声だった。


 「死人のくせにまだわたしを妨げるのか! 」


 トヨヒコが弓を拾い上げ、ナギに向かって引きはじめた。


 「里へお戻りなさい、さもなくば――」

 「千曲殿……」


 ナギは千曲の名を呟いた。あかるこ、と呼ぶのに限りなく似ていたが、底にある情の根は同じでも交わることはない。愛おしみと哀れみは、元は同じだというから。


 ナギは千曲を哀れだと思った。あなたを見ていると言いながら、本当は千曲の目は、千曲のことしか見ていないのだ。


 ナギも、千曲のようになっていたかもしれなかった。ナギはあかるこに近づくことを恐れてばかりいたが、それとて自分のことしか見ていないのに違いはないのだ。


 ただ、ナギはあかるこを傷つけることになど考えも及ばなかった。たった一点の違いだが、その一点が幸不幸を分けた。


 「そなたは不幸だ」


 ナギは千曲に背を向け、あかるこを抱きしめた。


 「口で愛していると言いながら、手に刃を握っている。そなたが愛しているのは、そなたのことだけだ」

 「何をぉ……」


 千曲が呻いた。引き攣れて歪んだ娘の顔が見えるようだ。トヨヒコの弓が引かれ、ぎしぎしと軋む。ヤスオが息を呑んだ。


 「なぜ生かしてくれと言わないのです……」


 千曲は呪いのように何度も同じ問いを繰り返した。


 ナギはあかるこの頬を撫でた。里を追われ、見知らぬ土地で死んだのに、あかるこの面差しには一片の恨みもなかった。


 幸せだったのだ、とナギは思った。わたしと同じように。


 「死んだ女を、まだ……」


 千曲は恨みがましく言い募ったが、その声が俄かに慌てた。


 「手が止まらない」


 トヨヒコの弓はいっぱいに絞られているが、トヨヒコはナギから狙いを外さない。


 はなからナギを射るつもりはなかったのだろう、千曲は自身の力を持て余し、トヨヒコに向かって絶叫した。


 やめろ、と聞こえた気がした。トヨヒコが矢を放ったあと、あかることナギが落ちた淵を、ヤスオがふたりを呼びながら覗いたかもしれない。


 大水葵朗子はトヨヒコの矢に背を射られて死んだ。


 伊織の東、集落の小さな薬草小屋の中で、時同じくして娘がひとり死んだ。支配しきれなくなった呪いが撥ね返り、臓腑がずたずたになって死んだ。両の目は潰れ、白い頬に赤い血を涙のように流しているその姿は、さながら東の山の祟り蛇のようであったという。

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