第31話

 よく晴れた日だった。


 あかるこは空に手を翳した。高く澄んだ天に柔らかく黄色味が差し、爪の先にきらきらと縁取りができる。


後ろからナギの手が添い、指を握りこんだ。ナギはそういう、他愛ないふれあいが好きらしい。


 「何を考えているんです」


 頭の後ろに、広い肩がある。


 「何も」


 あかるこの手についた傷の、一番長いのをナギの親指がすっと撫でていく。気にしようとすまいと、擦り込む油もないその日暮らしに傷は増え続け、若い肌を隠すように、いつまでも居残る。


 そんな手でも、ナギは愛しいと言った。


 一度だけだったが、確かに聞いた。


 みなに背いて生きることは、決して過ちのためではないと言っていた――。


 「高嶋、遅いね」


 言うと、ナギの手が指の名残りを残しながらゆっくりと別れた。そうしておいて、小さな声で言った。


 「見送りを許してくださってありがとうございます」

 「ううん」


 あかるこは草地に熱心に人の姿を探すふりをした。今、ナギはナギを見てほしくないのではないかと思ったのだ。


 「これが最後です……」


 ナギの指が首筋まで上がってきて、あかるこは思わず振り向いた。ナギは意外にすっきりした顔つきであかるこを見つめていた。悩み惑う色が、少し薄いように見えた。


 「わたしはあなたと生きる」


 明るい陽が差していた。


 ナギの目の、とても深いところまでが一遍に光を通し、一枚の隔たりもなく見えた。


 「綺麗」


 何をするつもりでもなく、何気ない振る舞いのうちに、あかるこはナギの頬に手を伸ばした。何ですか、というように、ナギが首を傾げた。


 ――草地が風もなく音を立てた。


 ナギはそちらへ目をやり、片腕であかるこを抱き寄せた。もう片方の手の指が、剣の柄の先に少し触っている。本気で抜く構えではないと見て、あかるこは草の間へ呼びかけた。


 「高嶋? 」


 返事はない。


 「高嶋、来てくれたの? 」


 誰も答えない。気のせいだったのか、と草地を窺おうとしたあかるこの肩へ、ナギが手をかけた。


 「下がって」


 柄を握っている。白い刃がきらりと覗いた。


 「誰だ」


 誰何すいかし、八方を睨み渡すより早く、草の陰から刃が二本飛び出した。伊織の衛士たちだ。綴りあわせの鎧を身につけている。突きの切っ先は油断なく、ナギは辛うじて一方を弾き、一方を受けた。


 「伊織のものだな」


 聞けば違うと言ってくれるかもしれないという、ナギの心が見えるようだった。ナギと刃を合わせて押し合っている衛士は、何も答えずに飛びすさった。ナギは不意打ちを与えにきたふたりを見据えた。


 「声もかけずに斬りかかるのが里の礼儀か」

 「こちらとて無用な犠牲は出したくないのでな」


 衛士たちの後ろから、もうひとり男が顔を出した。長いこと山辺彦の下で衛士頭の務めを助けてきた、ヤスオという男だ。かつてはよく屋形を訪ねてきてあかるこに戯れ、笑わせた男だ――。


 ヤスオは衛士たちを下がらせた。


 「そこにおれ。大水葵とはまともに打ち合ってはならん」

 「ヤスオさま」


 ナギも、思わず切っ先を下げた。ヤスオはあかることナギに順に目をやり、苦い顔に無理にほほえみを貼りつけた。


 「久しいのう」

 「これは一体どういうことです」


 ヤスオはたちまちほほえみを消した。


 「どういうこととは、どういう意味かな」


 高嶋の名を出すことははばかられ、ナギは答えに詰まり、あかるこは黙り込んだ。ヤスオは険しい声で言った。


 「我々は衛士だ。命じられたら捕えねばならん。追われるかもしれぬとは、思わなんだか? そのような心づもりで、巫女王をかどわかし、里を抜け出したのか。若さゆえとは片づけられぬ青さよな」


 野辺に果てる覚悟もなかったのか、とその声は問うていた。


 ナギがあかるこをかどわかした? あかるこを救い出すために燃え盛る炎の中に飛び込み、里を出てからもずっと守り続けてくれたナギが? 


「里を出てからずっと」


あかるこは黙っていられずに言った。


 「覚悟が必要だったのは、生きることの方にだったよ――生きていく方が、勇気がいるんだ」

 「それはその通りかもしれんが……」


 ヤスオは身を引き、認めた。だが、


 「葵さまの叔父上にも、そう言ってやってほしかったのう」


 ようやく里へ戻った若い衛士から報が入った、とヤスオは澱みなく言った。


 「山辺彦さまは亡くなられた。盗人たちから衛士たちを守るためにひとり剣を取り、最後は斬られてしもうたそうじゃ。……大人しく捕らわれてはもらえんか。そなたらを庇えるものは、もう里にはおらんのだ」


 あかるこはのろのろとナギの顔を窺った。ナギは一切の情の抜け落ちたまっさらな顔をして、ヤスオの肩の辺りを眺めているらしい。


 口元が緩み、かえって半笑いみたいにうつけていた。


 「信じません。あの方は、盗人になど倒されない」


 ナギは切っ先を上げた。


 「惑わされはしない」

 「少しでも罪を軽くしてやりたかったのだが……やることなすこと、すべてが罪と言われてしまうからな」


 ヤスオが剣を抜いた。


 「そなたを斬るつもりはないが、剣を抜かれたら応じぬわけにはいかん。好きにするがいい。そなたらには、どうしても王の前へ出てもらう」


 ナギは引かなかった。いかな剣撃にも臆することなく、ヤスオよりも若いという一点に賭けて、受けた倍斬り込んでいるように見えた。


 ……だがじきに、刃など持ったこともないあかるこにさえ、ヤスオの剣の質が分かってきた。と同時に、ナギの不利を悟らずにはいられなかった。


 ヤスオは巧みだった。ナギと比べれば緩やかとも見える足運びで、悠々と歩を進めてくる。ナギの刃をかわしながら、わざとナギが斬りやすいところへひょいと身を入れたりする。ナギが斬ろうとしているのか、ヤスオがそう仕向けているのか、あかるこには分からなかった。


 「そなたの師の剣じゃ」


 とヤスオが呟いた。


 「それでもあの方は負けた」


 答えようとしたのか、荒い息をしようとしたのか、ナギの唇が開きかけたが、そのときヤスオが無理に鍔迫り合いを仕掛け、太く骨張った肩でナギを突き飛ばした。ナギは押された力を使って後ろ向きに転がったが、片手を尖った石の上につき、左の大指の肉を削がれた。


 「剣を放らなかったのは褒めてもよい」


 ヤスオはナギの左手が血塗れになっていくのを見て少し気の毒そうな顔をしながらも、間を詰めることを忘れなかった。


 「だが、運もまた才のうちじゃ」


 ナギは右腕だけで剣を持ち上げた。刃先が震えている。ヤスオは溜め息をついた。


 「振るのは無理だ。手首をひねるぞ」

 「あなたの足を狙うことくらいはできる」

 「そうか」


 ヤスオは本当に気の毒そうな顔をして、剣を構えた。相手に向かってくる意思がある限り、彼は剣を向けなくてはならないのだ。それは、ヤスオなりの敬意の表れでもあった。


 「惜しいのう……」

 「ナギ」


 あかるこはたまらず前へ出ようとしたが、


 「あかるこ! 」


 ナギが一喝した。初めて見る剣幕だった。


 「なぜお逃げにならなんだ」


 ヤスオがあかるこに聞いた。


 「大水葵は、まだあなたを逃すつもりのようだが」

 「わたしひとりが相手なら、見逃す気になるの? 」

 「……我ながら愚問であったな」


 今さら離れてどうなる、とあかるこは思った。ヤスオは目を細めた。だが何も言わずに、ナギに剣を向けた。……

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