第28話

 声を立てずに、忍んでいった。


 だが小屋の主は暗がりに構わずおれを見透かす。


 「高嶋さま」


 千曲が嬉しげに呼んだ。白い指がいじらしい。あの指が触れてゆくたび、腕の火傷も癒えていった。


 高嶋は腕を広げた。そうすると、飛び込んでくる女と、ためらう女とがいる。あまり勇んで抱きつかれるよりも、もじもじと要領を得ず、頬を染めて立っていられる方が好みだ。


 もちろんそんなことを口に出しはしなかったが、初めて訪ねたときの千曲の振る舞いは、高嶋の勝手な好みをすべて叶えた。叶えた上で、こちらがたまらなくなるような、優しい仕草で寄り添ってくるのだ。


 ほら見ろ、と今や里から追われる身となった友人に向かって勝ち誇った。


 おれの言った通りの、美しい女人だろうが。


 「王子さまのところへ行かれなくて、よいのですか? 」


 腕の中へ来て、千曲が囁いた。高嶋は胸を張った。


 「よいのだ。今は休みをいただいている」


 盟神探湯では二心のないものは火傷をしないことになっていたが、湯に腕を通した衛士たちの中には剣もまともに持っていられないものもいて、みなが順に休みをもらうことになった。


 休みを出したのは小棘だった。腕を治してから戻れと高嶋たちに言った。大武棘と違って、本当の意味で盟神探湯など信じてはいないのだ。


 ――それなら、止めてくれればよかったのだ。


 煮えた湯の前に立ったときの、小棘の顔を思い出す。小棘の方は、高嶋がいつ何をしたか覚えていないだろう。小棘は一度も、高嶋の方を見なかったのだから。


 「小棘さまにも、ご事情がおありだったのですわ」


 と千曲が小棘を庇った。


 「せっかく、里の平安が結ばれようというときだったのですもの。高嶋さまなら、それをお分かりになると思われたのでしょう」

 「そうだな。分かっている」


 高嶋は千曲を抱きしめた。


 友人は里に背いて巫女とともに姿を消した。まさか、そんなことになるとは思わなかった。その咎が回ってきたとき、主君はこちらを見てもくれなかった。あげく、治るまで来るなという。


 衛士を気遣ってのことだと、分かっているのだ。だが、高嶋にはただ突き放されたように思えた。主の無愛想は、いつものことだというのに。


 「もう信じられるものはそなたの他にいないのだ……」

 「高嶋さま」


 わたくしも、という声が聞こえた気がした。


 「いつまでもこうして、安らかでいとうございます――」


 千曲の声にそうだな、と答えながら、一方でそれはできまい、という自分の声がする。


 ウカミはあの晩、巫女王を捕えてしまうつもりであったに違いない。里人をいたずらに混乱させたといって罪を作ってもいいし、気が立っている里人たちから守るためにと、保護を理由にしてもいい。里人の放火が思いがけないことだったとしても、すぐさま衛士たちに命を出し、見事な動きだった。


 もともと巫女の宮を男王に従わせるために動いていたようだから、捕えた上で命を救ってみせるとか、幽閉しておいて里人にさらに噂を吹き込むとか、使いようはいくらでもあったはずだ。恐らく、はじめからいつかそうなるように備えをしていたに違いない。そこへ、たまたま葵の縁談や、東の山の祟りの話が転がり込んだ。ウカミにとっては、これ以上ない好機だったのだ。


 大水葵や双葉が葵につくことまで、考えにあった。それでも勝てると踏んでいた。


 ウカミは考えを誤ったのだ。ウカミより上手の誰かに敗れ、名高い巫女と伊織一腕の立つ衛士の兄弟を外へ逃がしてしまった。今のウカミは、身を穢したあげく里を捨てた巫女とその巫女を守った衛士という罪人の皮を三人にかぶせ、衛士たちに追わせることしかできないのだ。よその里から三人に誘いの手がいくらも伸びるだろうことは想像に難くない。


 どんなに〈ふしだらな巫女〉を仕立て上げたところで、里人の目をいつまでもごまかしておけるわけではない。大武棘が政を独占し、巫女のいなくなった里に愛想を尽かした里人が伊織を出ていくようなことにもなりかねず、そうなれば責を問われるのはウカミ自身だ。どう考えても、葵がいなくなったあとの方が暮らしがよくなるとは到底思えなかった。託宣だのなんだのでうるさく言ってくる巫女がいなくなってからというもの、大武棘は里人により重い税を課そうとしているらしい。


 ウカミの首がまだ繋がっているのは、大武棘が巫女に関心がないからだ。王は目先の財が増えたことを喜ぶことに忙しい。


 他の里へ入られるより早く、三人のいずれかひとりでもウカミの目の前へ引きずり出さない限り、戦でもないのに外へ出され続けるだろう。内心では彼らを捕らえたいと思っているものなど誰ひとりいないのに。


 里へ戻ってこないまま、師も野辺で死んだという報せが来た。息苦しい里になってゆくな、と誰かが言っていた。


 「衛士になぞ、ならなければよかったな……」


 元々、大して腕が立つわけではなかった。あのまじめな友のように、早くから見つめる先があったわけでもなかった。


 石上高嶋は、歌を歌うのが好きな男子だった。少年たちに混じっての剣の鍛練が済んだなら、大声で歌いながら田の世話をして暮らしてゆくものとばかり思っていたのだ。


 それが、兄水葵と小棘の一件のあと、高嶋だけが小棘に仕えるように命じられた。兄水葵に嫌がらせをしたいのだと、そのときに思った。


 おれはそれだけの人間だ。


 「千曲、何か奏でるものはないか」

 「祖母の使っていた琴がございますよ。どうなさいますの? 」

 「弾いてくれないか。歌を歌いたいのだ」


 千曲が琴を取りに立ち上がりかけ、ふと高嶋の頬を撫でた。


 「悲しいことが? 」

 「何も」


 千曲は高嶋を見つめていたが、小さな琴を取ってきて下へ置き、二、三音爪弾いた。


 「すまない」


 高嶋は顔を伏せた。声が鼻で詰まり、うまく出ない。


 「やはり、少し待っていてくれ……」

 「いいえ」


 千曲は目を伏せた。


 「それも、あなたのお声ですもの」


 千曲は琴を弾いた。


 高嶋は声を上げて泣いた。


 おれがもし、里の外で彼と出会ったなら。


 大水葵は、おれを斬るだろうか。

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