第12話

 言い訳をする間もなかった。葵がまんじりともせず夜を明かした朝、宮の気配は沈んでいた。


 誰とも知らない青年と、葵が夜半逢い引きしていたという噂が、とんでもない勢いで広がっているという。宮の誰もが沈黙しているので、好き勝手な尾ひれがついた。一晩で、葵はふしだらで、伊織の神を裏切る心のある巫女に仕立て上げられていた。初音は一言も自分から口をきかず、寝つけない夜にたまたま会った衛士と言葉を交わしただけだと訴える葵を目つきで黙らせた。


 「だから夫を迎えるなど反対だったのです。いつかこうなるだろうと思っておりましたとも」


 初音は葵のことも、ナギのことも、少しも信じていなかった。普段里人の心に添い、気さくに巫女をやっている分、民の中にも裏切られたと感じるものはいただろう。そして初音は、葵の奔放に手を焼いているひとりだった。


 長がふたりいる里に亀裂が入らないよう、一番に気を張っているのは初音なのだろう。折り合いは悪いが、なんとか波風を立てないようにと、大武棘の意を無視せず、慎み深く巫女宮を守ってきたのだ。こんなことになった以上、やはり自分が正しかったのだと、葵とナギに冷たく当たるのは初音の性格を考えれば仕方のないことだった。今の彼女には、葵の言葉は嘘か言い訳にしか聞こえない。


 初音のように、忍んできたのがナギだと考えるものは少なくなかった。というよりも、口にこそ出さないが誰もがそう思っていた。焚きつけたのは、やはりウカミだった。ウカミは断言しないまま、里人の中にひとりの姿を焼きつけた。


 「巫女の宮の衛士は、衛士連中から選り抜かれた豪の者だったろう。それを投げ飛ばすというのだから、曲者といえども天晴れじゃ」


 そんなことができるのは、一体誰であろうか、と話を向けるのである。そうなるとみな、名ばかりの夫として誰よりも葵のそば近くに仕え、実のところ小棘に仕える高嶋よりも腕の立つナギに行き着かないわけにはいかなかった。そうでなくても、ナギは誠実な若者として知られていただけに、本当は涼しい顔をして屈託やら抑圧やらを抱えていたのではないか、とおもしろ半分の噂の的にされやすかった。


 「何、大水葵朗子が巫女宮の曲者だと申すのか。そんなはずはなかろう。あれほど清廉な若者は、伊織広しと言えど五人といはしまい。なればこそ、巫女王の夫に選ばれたことくらい、そなたたちにも分かるであろう」


 この馬鹿者め、と相手を叱っておいて、ウカミはぺったりとした髭を撫でつけるのだった。


 「まあ、確かに……思いつめたらああいう清廉な人間ほど――ということもあろうがね」


 今度のことで、葵とナギのどちらの立場が危うくなったのかは分からなかったが、どうか自分の方であってほしいと――そうでないことが確かだったから、ナギは葵を案じていた。衛士たちに睨まれても、里人たちにぎょっとした顔をされても、噂にのぼったというだけでは罰を与えられることはない。巫女の宮の曲者の噂は、あくまで葵に対して冷たかった。何より、四六時中初音に睨まれている葵と違って、ナギには味方がいた。


 「気にするな」


 高嶋は衛士仲間の目に無視を決め込み、ナギの背を威勢よく叩いた。小棘はどうしてか、高嶋の好きにさせているようだった。


 「半分くらいは、妬みが混じってるんだから。おまえは一途だから、周りの連中の気持ちに気づいてないんだろ」

 「何を妬くことがある」


 手を取り合ったこともない、と胡乱げにナギが睨むと、高嶋はそれみろ、と肩をすくめた。


 「名ばかりだろうが何だろうが、美しい女の夫になって偉くなったなんていったら妬ましいに決まっているじゃないか。本当に名ばかりかどうかなんて、あいつらには分からないんだしな」

 「高嶋殿には分かるんですか」


 双葉が剣を担いでやってきた。兄とは、ちょうど頭ひとつ分背が違う。ナギが口に出さずに飲みこんだ問いかけさえ、この弟は平気でする。


 「双葉」


 と親友の手前ナギは弟を咎めたが、兄弟が揃うというのはわけなく心強かった。自分には言えない冗談をひょいと言ってのける双葉を見ていると、里にいない山辺彦が思い出されるからかもしれない。


 高嶋は双葉の頭を撫で回した。高嶋にとっても、双葉は弟のようなものだった。


 「分かるさ、おまえの兄貴はくそ真面目だもの。自分に許されたことから出られるようなやつじゃない。遊んでばかりで恨まれてしょうのないやつだとおれに言うが、言い寄ってきたのをみんな断って恨まれるのはこいつくらいだな」

 「二股三股よりいいだろう」

 「果たしてそうかな」


 高嶋はナギが剣の柄で小突いてくるのを避け、からかうのを切り上げた。この類の話となると、ナギの頭が固いのを知っていた。


 「双葉はどうだ。噂について、何か言いたいことがあるか? 」

 「おれは、馬に蹴られそうな話題には首を突っ込まないようにしてるんで」


 双葉は愛敬のある顔で高嶋をかわした。


 ナギは他の衛士が、本人がそばにいるとも知らず、おまえの兄は本当に忍んでいったのかと双葉に聞いているのを見たことがある。戯れ半分、何をしようとしていたのだろうな、とにやにやしながら尋ねる若い仲間に、双葉はやはりにこにこしながら答えたのだった。


 「何だっていいじゃないか。妹背なんだから」


 東の山のものには、采女たちの喪が明けたら葵が様子を見に行く約束をしていた。だが、肝心の葵はもう当分出歩けない。ナギはその旨を伝えに出かけた。


 「それじゃあ閉じ込めてるのと変わりないのう」


 話を聞いた古老が息まいた。東の山の里人は頑なだった。掛け値なしに、巫女王とその夫を信じていた。


 古老はナギに耳打ちした。


 「大体、年若い男子に忍耐を強いすぎであろう。夫という名で通しておるのだから、話をするくらいなんだというのじゃ」

 「長殿、それは……」

 「葵さまとて、いつまでも巫女でいたいとお考えではあるまい。――本当は、大水葵さまへ嫁ぎたいと思っていらっしゃるかもしれぬではないか。本当の妻として、じゃよ」

 「まさか――」


 答えようとして、ナギはふいに胸をつかれた。本当は、葵の心の内側をまったく考えていなかったことに、初めて思い至った。それは、近頃葵のことばかり考えているナギには、それなりの衝撃だった。


 ナギは、山辺彦が言うように葵がナギを恋うようになるなどということは、はなから信じていなかった。それは、あまりに虫がよすぎる。だがあの夜葵は、本心を語らなかったナギに怒りを見せたではないか。


 わたしは一体あの方の何を見ていたのだろうか、とナギは思った。葵に笑いかけられるたびに、その瞳の中に見出すべきものがあったのではないのか。あの川辺であかるこという名を明かされたとき、拒んだのはナギ自身ではなかったか。


 初音はナギに従者という名を超えるふるまいを許さなかったが、葵がナギをただの従者として扱ったことは、一度もなかった。


 初音の課す役割を全うするのと、葵の気持ちに添うのと、自分はどちらを叶えたいのだろう? どちらを叶えるべきなのだろう?


 ナギの周りには、正直にものを言う人間が多すぎる。いや、


 「わたしに偽りが多いのだ――」


 ナギは自分の胸に呟いた。それを見抜いて葵が腹を立てたのだと、ようやく分かった。


 「まあまあ、おいおい考えてゆくことじゃ」


 古老は皺だらけの頬をくしゃりとさせて笑った。それから、ふと思い出したというように言った。


 「そうじゃ、大水葵さま、もしよろしければ、千曲を見舞ってやってくださらんか」

 「千曲殿を? 」


 ドクダミ畑の一件以来、ナギは千曲と顔を合わせていなかった。それでも、忘れようがなかった。鍛練を終えて気を抜いた瞬間、葵の顔を思い浮かべて宮の方を振り向く瞬間、ぼんやりと心に隙間が生まれたとき、あの生白い肌が目の前に浮き上がる。ぬるい息を感じる。心に留めておきたいわけではないのに。


 「山から帰ってきたのはいいのじゃが、どうも具合が落ち着かないらしくてのう。寝たり起きたりじゃ。祟りに中てられたというのではなければいいが」

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