第2話 自責と他責、生き易いのは他責。

 人類は二種類に分類できる。

 それは、自責の人間と他責の人間だ。

 

 自責とは、何か問題があった際、自分の非を見つめ直せる人間の性質のこと。

 他責とは、何か問題があった際、他人の非を見つけ出せる人間の性質のこと。



 多くの人間は他責の性質が強く、自分の失敗を他人のせいにすることで自身の安寧を守っている。


 これは人間の防衛本能の一種だと言えるだろう。

 内面との対話など、外界からの脅威に比べれば必須とはいえない。

 自分の行いを悔いるあまり、注意力が散漫になるなどということがあってはいけない。


 では他責の人間が優れているのかといえばそうではない。


 他責の人間は自身の非を認めることができず、成長が止まる。

 その伸び代を殺す行為は、次への糧を得ることを拒む行いだ。

 つまるところ、他責の人間には未来はないと言える。



 多くの人間には自責の気質も備わっている。


 これは後天的な資質も大きく影響するが、最もその効果が発揮されるのは、危機回避能力に関してだろう。



 物心つく前から、体を動かすようなことをしていると、していない人間よりも運動能力に差ができる。

 これは思考ではなく、体が直接体の動かし方を覚えるからだろう。


 体が直接覚える頃に体験した痛みというのは、無意識に避けられる痛みということになる。


 脊髄でその痛みを避けるのだから、体が覚えて反省しているのだ。


 石が落ちていれば避けて歩き、どこかにぶつかれば痛いとわかれば少し距離を取るようになる。



 そうして、学びを得ながら体の動かし方と、危険の回避を覚えるのだ。


 

 これが思考力を伴うと少し変わる。

 落ちている石に責任を負わせ、壁を殴るようになる。


 石を確認する手間を惜しんだから転んだのであり、目測を誤ったからぶつかったのにも関わらず。



 自責とは、自分の非を見つめるというのは自身への敵対行為だ。



 世界で唯一の味方と言っていい自分が自分の敵に回るというのは、相当なストレスを生む。

 失敗した自分という孤立をつくり、反省という攻撃をすることで過去を殺す。


 なかったことにするのではなく、その失敗を繰り返す自分をなくす。


 心の弱い人間には容易にできることではない。


 過ちを認め、何が正しかったのかを見極める目を持ち、その判断を次に活かすことができる人間。


 そんな人間は一握りだ。


 ほとんどの、人類の大部分は自分の失敗で反省しない。

 失敗を糧に成長なんてしない。

 


 最初に、二種類と言ったが、だからこれは嘘だ。


 二種類に分類できるのは机上の空論でしかない。



 学びのない自責は自殺でしかない。


 他責を自分で行なっているに過ぎないのだ。

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