第47話

 ―――どこかの大学の構内風景。


 あたしが知っているノラオより少し幼い印象のノラオが、偶然隣の席に座った青年にその名前を聞き返していた。


「―――え、何? カミシロエージ? エージロー?」


 ノラオに無遠慮に顔を覗き込まれたその青年は、眼鏡をかけた落ち着いた佇まいをしていて、緩いクセのある黒髪や、目立たないけどよく見ると整った面差しなんかが、蓮人くんとそっくりだった。


「違う。英一郎だ。神代英一郎」


 どこか物憂げな声でぼそりと返した彼に、ノラオは色素の薄い眉を跳ね上げる。


「お前、声小っちぇーよ! 何、エージローじゃなくてエイイチロウ? 長ったらしいからエーイチって呼んでいい?」


 すると、それを小耳に挟んだ前の席の別の青年からツッコミが入った。


「おい、栄一えいいちはここにいるだろ! オレだよ! 紛らわしいからヤメロ」

「あ、そうだった」

「おいおい~自己紹介したばっかだろうが」

わりぃ」


 ノラオは悪びれる様子もなくニカッと笑ってごまかすと、隣に座る英一郎さんへ視線を戻して、こう宣言した。


「何かエーイチもういたから、しょうがねぇ、やっぱお前のことはエージって呼ばせてもらうわ」

「は……!? どうしてそうなるんだ……!?」


 意味が分からない、と困惑の表情を刻む英一郎さんに、ノラオはお気楽なノリで気まぐれなその決定を押し通した。


「別にいいじゃん。オレらの間で通じ合っていれば」


 ―――こうして、英一郎さんはノラオにほぼ強制的に「エージ」と呼ばれることになったのだ。


 陽気で軽薄な印象のノラオと、真面目で硬い印象のエージ。


 内実は真面目で繊細なノラオと、その内に柔軟さと豪胆さを併せ持っていたエージ。


 初講義の場で出会った、一見正反対にも思える二人は妙に馬が合い、自然と行動を共にすることが多くなった。


 そして共有する時間が増えていくにつれ、エージはノラオにとって特別な存在になっていく。


 タイプの違う二人は些細な食い違いから衝突することもしばしばだったけれど、ノラオがあの口調で勢いよくまくし立てても、エージは一切臆することなく、真正面から自分の意見をハッキリと述べて向かい合った。ただ、エージはどんな時もノラオを頭ごなしに否定することはせず、いつもノラオの言い分をしっかりと聞いて、互いに納得出来るまで対話を続ける姿勢を取った。


 父親との確執から自己肯定感が持てず、本質的な部分で常に他人に心を許すことが出来ずにいたノラオは、いつもありのままの自分を否定せずに受け止めてくれるエージの姿勢に次第に頑なな心を解きほぐされ、いつしか彼に惹かれていった。


 見た目や周りの風評に左右されず、しっかりと自分の価値観を持って常に物事の本質を見据えているエージは、ノラオの目にとても眩しく、輝いて見えたのだ。


 それは、上辺だけの軽い付き合いに終始し、心の奥底で常に他人へ一線を引いてきたノラオにとって、初めての恋だった。


 同性のエージに抱く感情としては不適切だと頭の片隅では思いながらも、走り出したその心を止めることは出来なかった。


 大学での幸福な四年間。育ち続ける恋心を気付かれないように隠し続けるのは少し苦しくもあったけれど、それ以上にエージと一緒にいられることが幸せだった。


 大学を卒業してそれぞれ別の会社に就職すると、今までのように頻繁に会うことは難しくなったけれど、それでも度々電話で連絡を取り合って、月に一度は会っていた。仕事帰りに待ち合わせて飲みに行ったり、休日に互いのアパートを訪れて過ごしたり、時には少し足を伸ばして一緒に近場へ出掛けたりもした。


 恋人になることは出来ないけれど、友人として傍にいることは出来る―――いつか破局を迎えて会えなくなってしまうかもしれない恋人関係より、一生繋がっていられる友人関係の方が長い目で見ればきっといい―――そんなふうに自分を納得させながら募る想いをなだめすかしていた頃、エージに恋人が出来た。


 紹介したい女性ひとがいる、と少し照れながら切り出された時、この世の終わりのような気持ちになって、目の前が真っ暗になった。そこからどんな顔をしてエージと話していたのか、分からないし、覚えていない。


 目を逸らし続けていた現実を突然突きつけられて、鈍器で思い切り後頭部を殴りつけられたような気分だった。


 日を設けて引き合わされたエージの恋人は、彼とどことなく雰囲気の似た、穏やかで明るい印象の話し上手な女性だった。


 いっそのこと、印象最悪な女だったら良かったのに―――エージにあの女はやめておけ、と言えるような女だったら良かったのに。


 残念なことに、目の前の女性からは悪い印象を受けることが出来なかった。


 何より、彼女の隣で柔らかく微笑むエージの見たこともない表情が、あまりにも衝撃的で―――その光景に胸が潰れてしまいそうで、上手く息が出来なかった。


 それは、エージが彼女のことが心から好きなのだと分かる、特別で温かな表情だったから。


「お前に一番に紹介したかったんだ」


 はにかみながらそう言われて、喜びと悲しみがない交ぜになった、やるせない気分になった。


 培った処世術でどうにか笑顔を作り、時折二人を茶化しながら当たり障りのない楽しい話題を提供して、雑踏に消えていく彼らの背中を見送る頃には、精神的に燃え尽きていた。


 友人としてずっと傍にいられればそれでいいと思っていたけれど、そうじゃなかった。


 積み重なった恋心は、友愛じゃ到底満足出来ないところまで育ってしまっていた。


 月に一度会うだけじゃ全然足りない。傍にいるだけじゃ物足りない。たぎるようなこの想いを伝えたい。そして何よりエージに恋をしているのだと、エージ自身に知ってもらいたかった。


 お前にこんなにも焦がれているこのオレを、見てほしい。そして、触れたい。触れられたい。


 いっそのこと何もかも伝えてしまおうか、と凶悪な思いが脳裏をよぎった時、エージのあの幸せそうな顔が瞼に浮かんで、嫉妬で暴走しかける心に歯止めをかけた。


 あの顔を曇らせてしまうような真似をしてしまうのは、本意ではなかったから―――。


「……っ。何で男同士なんだよ……。どうして、男同士に生まれついちまったんだ……」


 誰に言うとでもなく、行き場のない想いが口を突いて出ていた。


 ―――オレもこんなに、こんなに、エージのことが好きなのに。なのに、男だから想いを告げられない。恋愛対象として見てもらうことすら出来ない。彼女と同じ土俵に上がることなんて、絶対に出来はしない。


 そんな想いを握りしめてただ一人、うつむくことしか出来なかった。

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