メビウス飛空挺団の軌跡

もちお

第1話 戦闘開始

 見渡す限り暗雲が立ち込め、暴風が吹き荒れる世界。

 地上からの目視は難しいほどはるか上空に浮かぶそんな雲の中を、巨大な翼を広げて進んでいく大きな影があった。

 幾重にも鉄板を張り合わせた寸胴な巨?に、まるで尾鰭のような形をした後部。一見するとその姿は鯨に両翼を授けたような奇妙な輪郭をしているのだが、この時代を生きる者達にとっては強さと希望の象徴――

 

 飛空艇。

 

 長さにしてゆうに六十メートルは超えるであろうその大きな船の甲板には、嵐吹き荒れる劣悪な環境にも関わらず、赤髪を靡かせて勇敢に立つ女の姿が。


「おいアイリスっ! このままだと追いつかれるぞ!」


 船の後方を睨みつけながら彼女が叫ぶ。おそらく歳は二十かそこらだろう。整った顔立ちに均整の取れた身体はどこか品格のようなものを感じさせながらも、金色の瞳には闘志が満ち溢れている。

 さらに彼女の背中には身の丈ほどありそうな大剣が携えられているのだが、それ以上に何より特徴的だったのはその頭から生えている獣耳だ。人と同じ姿をしていながらも、彼女の頭からは赤い毛並みに包まれた虎の耳が存在していた。


『わかっているわリリック。そこでもう少し粘りなさい』

 

 突然彼女の頭の中に声が響いた。その瞬間リリックと呼ばれた女は、「ちっ」と舌打ちを鳴らすと、声の主がいるであろう足元めがけてガンッと蹴りをかます。


「だから言ったろ! いくら何でも幻影雲に突っ込むのはバカじゃないかって!」

『バカはあなたでしょ。近道で帰りたいと言って無理やり舵を切ったんだから』

 

 その責任は自分で取りなさい。と至極真っ当な言葉が頭の中に響き、リリックはますます顔を歪める。

 だがしかし、彼女たちのそんないつものやり取りが長く続くわけにはいかなかった。リリックの視界の中で、まるで雷雲を丸呑みするかのように突如巨大な『口』が姿を現したのだ。


「ちっ、もう来やがったのかよ!」

 

 思わずそんな言葉を吐き捨てたリリックが再び船の後方を睨みつける。視線の先、雲を突き破って現れたのは、この飛空艇でさえ小さく思えてしまうほどの巨大な甲羅を持つ『大亀』だった。


「ヤバいぞアイリス! あのヤロウこの飛空艇ごと喰っちまうつもりだ!」

『でしょうね。ここはあの王魔獣おうまじゅうの縄張りなのだから、無闇に足を踏み入れれば餌にされて当然よ』

「当然よってお前なに呑気に……なッ!」

 

 憤怒を露わにしたリリックの言葉はしかし、眼前に迫った大きな口によって遮られてしまう。

 亀といってもその姿は、かつて人間たちが飼い慣らしていたと言われている生き物とは大きくかけ離れている。口の中にはその一本でリリックの背丈を大きく越える歯がびっしりと生えていて、たったの一噛みで飛空艇どころか岩山をも砕いてしまいそうなほどだ。さらに甲羅の後部からは尻尾の代わりに竜と見間違えそうなほど凶悪な蛇が姿を見せているのだから余計にタチが悪い。


「テメェの餌になるなんてまっぴら御免だ!」

 

 そう叫んでリリックが背中の大剣の柄に右手を伸ばそうとした時だった。再び彼女の頭の中にアイリスの声が響く。


【防壁展開・エーテルウォール】

 

 大亀がリリックもろとも甲板に噛みつこうとしたその瞬間、飛空艇と化け物の間に突如光の壁が姿を現す。薄く、それでいていかなる物質をも通さぬように凝縮された白い光の粒子の集まりが、岩山でさえ砕くであろう大亀の一撃を防いだのだ。そして同時に、敵の行く手をも阻む。


「しゃっ! さすがアイリス!」

 

 大剣を握りしめようとしていた右手でガッツポーズを取るリリックが、距離が離れていく敵を見つめながら喜びの声をあげる。だがそんな彼女の頭に、すぐにアイリスから忠告が届く。


『なにを呑気に喜んでいるの。こんな足止め、一時凌ぎにしかならないわ』

 

 頭の中に響いたアイリスの冷静な言葉通り、大亀の進路を阻んでいた光の壁が、術者から距離が離れ過ぎてしまった為に泡のように溶けて消えていく。それを好機と捉えたのか、相手が今度はスピードを上げて猛突進してきた。


「アイリス、とりあえずどっかに着陸できねーのか!?」

『バカ言いなさい、ここは南大西洋のど真ん中よ。降りた瞬間に今度は海魔の餌食になるのが目に見えてるわ』 

 

 空中戦を得意とする飛空艇といえど、相手がかつてこの世界の崩壊を担った魔獣の一匹となればあまりにも分が悪い。地上に降りて幻影雲が過ぎ去るのを待とうしたリリックだったが、指揮官であるアイリスの言葉によってその案は遮られてしまう。


『このまま進めばもう少しで雲を抜けるわ。最後の足止めくらいあなたでも出来るでしょ?』

「はっ、誰に命令してんだか。アタイは虎族の中でも最強の女、『炎豪えんごう』だぞ!」


 強気な言葉を飛ばしたリリックが、今度こそ柄を握り締めた。そして身の丈ほどある大剣を軽々と持ち上げ、その鋭い切先を襲い来る化け物へと向ける。


「わりーが王魔相手でも容赦はしねーからなッ」

 

 そう豪語した彼女はすかさず大剣を構える。そしてリリックは呼吸を整えると己の意識を研ぎ澄ませ、この世界と表裏一体であるもう一つの世界、エーテル界へと意識を繋げる。その瞬間、彼女の身体を媒介として向こうの世界から流れ込んできたエーテル粒子が赤い燐光となって大剣の刃を包み込んだ。


【属性展開・炎豪の一太刀】

 

 リリックが術を放った瞬間だった。刃に纏う燐光は彼女の思念に反応して具現化し、それは煉獄のごとく燃え上がる炎へと一瞬にして姿を変えた。そしてその直後、襲い来る敵に向かってリリックは灼熱を纏う大薙ぎの一手を放つ。


『グギァァァウッーーー!』

 

 まるで雷鳴のような化け物の鳴き声が空一帯に響き渡った。燃え盛る炎は敵の身体を構成するエーテルをも取り込みながらさらに勢いを増していく。その光景、まさに天界で起こっている山火事のよう。


「ははっ、どんなもんだい! いくら王魔獣とはいえアタイの炎は熱いだろ!」

 

 満足そうに声を上げて笑うリリック。握りしめている大剣には、いまだ消えることのない闘志に満ちた炎が宿っている。

 だが、相手とて一筋縄ではいかぬ存在であるがゆえの王魔獣の一匹。


「なっーー」

 

 勝利の笑みを浮かべていたはずのリリックの表情が一変する。動揺の色を滲ませたその瞳に映るのは、燃え尽きるまで消えることのないはずの炎を喰らい始めた大蛇の姿だった。本体が失ったエーテルを補うかのように、尾の役割をする蛇は灼熱の烈火をものともせずにその体内へと吸収していく。


「なんつー化け物なんだよコイツはっ!」


 くっ、と思わず追い詰められたような声を漏らしてしまうリリック。

 彼女が放った一撃によってわずかながらの足止めには成功したものの、敵対する相手の身体からは完全に炎が消え去っていた。それどころか大亀には火傷一つ見当たらず、さらにはリリックの攻撃を喰らい尽くすことによって自身の力を増幅させているではないか。

あまりにも予想外かつ規格外の相手を前に、さすがのリリックも驚きの表情を隠せない。自身の技が通用しないとなると、生き残る為に与えられた選択肢は『逃げ』の一手のみ。なのだが……


『グゥオオオオーーッ!』

 

 突如大亀が天を揺るがさんばかりの凄まじい咆哮を上げた。その直後、まるで衝撃波のような暴風が生まれ、雷雲もろとも飛空艇を吹き飛ばすかのように容赦なく襲いかかる。


「くっ!」

 

 暴風の直撃によって船体が大きく傾いた瞬間、リリックは咄嗟に甲板の手摺りを強く握りしめた。

 だがしかし、化け物から放たれた烈風はその勢いを止めることを知らず、リリックを空の藻屑へと変えようとするかのように襲い続ける。 


「このヤロウっ!」

 

 物理的な腕力だけでは耐え凌げないと判断した彼女は、再び己の身体を介してエーテルを外部へと解き放つ。そして意志の力によってその燐光を操り、今度は自分の身体へと纏わせた。


「はっ、これでやっとまともに動けるぜ!」

 

 エーテルを纏うことで肉体強化と同時に思い通りの動きを再現できるようになったリリック。だがその瞬間、頭上に広がる雲を突き破って牙を剥き出しにした巨大な口が再び迫りくる。


「なッ」

 

 あっという間に距離を詰めてきた相手を前に、リリックが思わず目を見開く。それでも彼女は慌てて大剣を構え直すとその刃を肉薄する敵に向かって振り抜こうとした。

 だがーー、敵の牙が彼女に届くことはなかった。

 炎に包まれた剣先と巨大な牙が交わるその寸前で、暗雲に閉じ込められていたはずの世界に突如眩しい光が差し込んだからだ。幻影雲を抜けたのだ。

 敵の牙は甲板の手摺りをわずかに削り取っただけで終わり、青空の下に解き放たれた飛空艇を追いかけることができず大亀は再び怒りの咆哮を上げる。雲に半身を閉じ込めたまま自分たちのことを睨みつけてくる怪物の姿を見て、リリックが盛大に息を吐き出した。


「た、たすかったぁ……」

 

 先ほどまでの強気な姿勢はどこへやら、術の展開を止めたリリックはそのまま力なく仰向けになって甲板に倒れ込む。そして彼女はまたも大きく息を吐き出すと、その金色の瞳で穏やかな青空を見つめるのだった。

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