SAVE.101-1:婚約破棄とセーブ&ロード②

「アキト、ねぇアキト」


 体を誰かに揺らされる。ゆっくりと目を開ければ、そこにいたのはクリスだった。


「あ、ああ……おはようクリス」


 まだ眠気の残る瞼を擦りながら、まじまじと親友の顔を見つめる。男にしては少し長めの赤毛に、白いブレザーとズボンの制服、それからトレードマークの腰から提げた上品な細剣。小柄な体格もなんのその、文武両道を地で行く男爵家の一人息子、クリス=オブライエンの姿がそこにあった。


「おはようクリス、じゃないよ全く。授業なんてとっくに終わって……君は一体いつになったら真面目の三文字を覚えるんだい?」


 ため息をつきながら小言を漏らすクリス。公爵家の跡取りとしてはあまりに不真面目な俺ことアキト=アズールライトに苦言を呈するのが彼の日課となっていた。


「死ぬ前には覚えたい所だけどな」


 そして俺は悪びれもせず、少しおどけた返事をする。これが俺と親友のお決まりのやり取りだった。


「これはまた悠長な事を……」

「仕方ないだろ、そういう性分なんだからさ」


 わざとらしく両手を広げて、親友に『さっさと諦めてくれ』と伝える。が、クリスはこれで引いてくれるような人物ではなかった。


「性分って、君の不真面目さは『まだ』修正の効く範囲だと思うけど?」

「いいんだよ俺はこれで。由緒正しきアズールライト公爵家の長男様が堅物だと、皆気楽にサボれないだろ? ここは俺が手本を示してやらないとな」

「手本って……学園をサボろうっていう魂胆がそもそも問題なんじゃないか。そもそもこの学園自体初代アズールライト卿が優秀な士官を育成するべく設立したのが始まりで」

「あー聞こえない、聞こえませーん」


 詭弁で抵抗を試みた俺にクリスが非の打ちどころのない正論で殴りかかってきたので、わざとらしく両耳を手で覆う。


 そう、聞きたくないんだそんな話は。何せこの手の小言の類を俺は『とある人物』から随分と聞かされていて。


「あのねぇ、そんな態度じゃまたお義姉さんに怒られるよ?」


 お義姉さん。不真面目な俺に効く数少ない単語の一つが、塞いだ耳越しに聞こえてきた。まるで躾の悪い馬の尻を叩く鞭のように……いや、俺にとって彼女の存在は鞭そのものだ。


 シャロン=アズールライト。


 美人で頭も良く、おまけに王子の婚約者。他人に厳しく誰よりも自分に厳しい。そんな完璧超人が率先して学園に不真面目をばら撒く愚図な弟の素行を許す訳がない。


 立てば小言座れば説教、歩く姿は小言と説教――という訳で俺にとって義姉の存在は自由な学園生活を謳歌する最大にして最強の障害なのであった。


「……その話はやめようか」


 旗色が悪くなったと察した俺は、目線をそらしながら降参の言葉を呟く。クリスは勝鬨にしては控えめな小さな笑い声を押し殺してから、綺麗に話を逸してくれた。


「それよりも……見に行くって約束だろう? 噂の『翠の聖女』をさ」

「そうだな、してたなそんな約束」


 まだ寝ぼけたままの頭で先日交わした約束を思い出す。紆余曲折あって学園に入学することになった噂の彼女を見に行こうか、と誘ったのは確かに俺だ。


「聖女ミリア、か……」


 国中を驚かせた新たな聖女。ここ暫くの間、彼女の名前を聞かなかった日は無いだろう。新聞の似顔絵でしか見たことのない彼女の面を拝んでやろうか。




 ――脳裏に過った、記憶にないはずの光景。


 王子に寄りかかる聖女に、残酷な言葉に折れぬようじっと耐える姉の姿。


 それから俺は――。




 唐突に頭に浮かんだ凄惨な景色が、吐き気となって俺を襲った。咄嗟に口を押さえ込みながら、為す術もなくその場にうずくまる。


 何だよ、今のは――気がつけば首の後ろには冷たい汗が滲んでいた。


「……アキト、どうしたんだい?」 


 心配そうなクリスの声が耳の奥に響く。違う、こうじゃない。俺が望んだアキト=アズールライトは、こんな姿なんかじゃない。適当で、不真面目で、へらへらと笑いながら学園生活を謳歌するような姿じゃないか。


 何とか平静を取り戻そうと、不快感ごと喉の奥に押し込んだ。


「調子が悪いなら明日にするかい?」


 わかっている、当然の反応だ。自分でも何が起きたのか理解できないんだ、心配するのも無理はない。


「あーその、ちょっと寝すぎたみたいだな……それにほら」


 ゆっくりと立ち上がってから、わざとらしく首の後ろを押さえながら白々しい嘘をつく。大丈夫だ、少しだけ早くなった脈拍が正常の範囲だと教えてくれてる。


 それよりも今は、眼の前の友人を安心させるのが先だ――それなら言葉を並べるよりも、わかりやすい証拠を出したほうが良いだろう。少しだけ屈み、俺よりも頭一つ小さいクリスと目線を合わせる。そのままクリスの額に自分の額を当てれば、じんわりと体温が伝わってきた。


「熱はないだろ?」


 これでよし――そう思った俺の鳩尾を襲ったのは無言の鉄拳だった。


「いって!」


 そのまま振り返らずにクリスは教室を後にする。


「ほらアキト、ふざけてないでさっさと行くっ!」


 男同士で耳まで赤くしなくたっていいだろう。だいたいこいつは着替えの時もいつも一人で自意識過剰なんだよ、なんて火に油を注ぐだけの余計な言葉は口に出さない。


「はいはい、それじゃあ噂の聖女様の顔を拝みに行きますかね」


 代わりに自然と出たのは、いつものアキト=アズールライトのおどけた返事だ。先を行く親友の背中を首の後ろに手を当てながら気怠げに追いかけていく。


 ――そう、いつもの。まるでクリスとの関係を、自分が望む俺の姿を。わざとらしいまでに確かめるかのような。







 ミリア、家名のないただのミリア。遠目にも目を引く黒髪のロングヘアーに、翡翠色をした少し大きな瞳。野次馬達に囲まれ質問責めにされる彼女は、一つ一つの質問にあたふたしながらも賢明に答えていた。


「ふぅん、あんな感じの子なんだ」

「まぁまぁの美人だな」


 生まれた時から貴族として育てられてきた学園の生徒達にはいないような、どこか落ち着くような雰囲気を纏っていた美人、というのがというのがアキト=アズールライトの抱いた嘘偽りの無い感想だ。


「……ああいうのが好みかい? 君と同じ黒髪だし、親近感が湧くとか」

「ああいう雰囲気もまた『聖女様』って感じがするけどな」


 聖女の伝説――それはこの世界で暮らす誰もが知っている、有名な伝説だ。『王と聖女が結ばれる時、その国に安寧と繁栄をもたらす』という一文で始まるそれは、言ってしまえばよくある恋物語だ。


 だが重要なのは聖女というものが国や教会から正式に認められた存在であり、今もなおその伝説が信じられているという点だ。


 そんな世界に突如現れた、新たに認められた平民の聖女ミリア。本来であればそれは大変に喜ばしい事態なのだが。


「だけど、流石に今代は」


 野次馬達の雑踏に紛れて、靴の踵が床を叩く景気の良い音が廊下に響く。それに気付いた生徒達から順に口を閉じ、彼女のために道を譲った。


「ふぅん、あなたがミリアね」

「相手が悪かったな」


 ミリアの前に立ちはだかる、いかにも貴族らしい女性。銀色の髪をたなびかせ、腕を組みミリアを見下ろすとんでもない美人。白を基調とした学園の制服はまるで彼女のために誂えたかのようによく似合っていた。誰よりも自分に厳しく、誰よりも聖女の役割を誇りに思う。


 シャロン=アズールライト。この国には既に『蒼の聖女』がいるという事だ。


「あ、あの……初めまして、ミリアと申します」


 怯えながら小さく頭を下げるミリア。聖女同士の対面に、あれほど騒がしかった周囲の空気が一瞬で冷たくなる。


「アズールライト公爵家の長女にして、国王陛下ならびに聖光教会より『蒼の聖女』を拝命しておりますシャロン=アズールライトと申します。以後お見知り置きを」


 深々と頭を下げるシャロン。その洗練された所作一つに、彼女がどれだけ貴族社会で生きるための研鑽を積んだのか理解できない者はこの学園にはいない。もっともどう対応していいか分からず慌てふためくミリアは例外中の例外だが。


「あっ、えっとぉ……こちらこそ」


 聖女の伝説について改めて考える。謳われている『王家と聖女が結ばれる』という条件――聖女達の中でも特別な『盟約の聖女』と呼ばれる存在――については、もう達成出来ているのだ。なにせ義姉シャロンはこの国アスフェリア王国の第一王子ルーク=フォン=ハウンゼンの婚約者なのだから。


 つまりシャロンにとって、いやこの国にとってミリアは。


「今代の『盟約の聖女』の務めは私が果たしますので、どうぞミリアさんはごゆるりと学園生活を楽しんで下さいませ」


 もう役割の無い存在なのだ。


 棘のある一言だけ残して、姉はその場を後にする。野次馬達もどこか冷水をかけられた雰囲気になってしまい、誰とも言わずにその場から離れ始めた。


 ごゆるりと。姉貴の残した皮肉の言葉に思わず苦笑いを浮かべる。彼女がそんな学園生活を送れない事ぐらい、わかっているだろうに。


 聖女という存在は、まさしく政治の道具そのものだ。アズールライト家を快く思われない貴族連中に、神輿として担がれるかもしれない。第二王子派は自分たちの正当性を主張するため、ミリアを嫁入りさせようと手ぐすねを引いているかもしれない。また彼女を聖女として認定した聖光教会の連中にだって思惑はあるだろう。


「アキト、僕達も行こうか」


 クリスの言葉に小さく頷く。俺は少しだけ居心地の悪さを感じながら、親友と共に去っていく野次馬に混じって廊下を後にした。







 ミリアと姉貴の邂逅を見終えた俺達は、学園内にある食堂で紅茶と軽食を摘む事にした。話題はもちろん、先程の聖女同士のやり取りだ。


「いやぁ……なかなか強烈な顔合わせだったね」

「まあ姉貴だからな」

「というと?」

「そのままの意味さ。あの人はほら、自分が聖女である事を誇りに思っているから。生半可なのは許せないのさ」


 聖女として生き、聖女として死ぬ。それがシャロン=アズールライトとしての決して曲げられない矜持だった。


「聖女として認められるというのは特別な事ではあるけどね」


 上品に紅茶を啜りながら、クリスがそんな言葉を呟く。特別――その二文字は俺の逃れない宿命でもあった。


「……俺が養子になるぐらいだからな」


 俺は――アキト=アズールライトは養子である。汚い孤児院にいたガキは、気がつけば公爵家の嫡男にされていた。


 なんて事はない、姉貴が聖女として嫁いでしまえば公爵家の跡取りがいなくなるというだけの話だ。だがアズールライト家の子供は姉貴一人だけ……そこで跡取りが生まれるまでの間、問題を先送りにするために仮初の嫡男が必要となった。


 アズールライト家が出資していた孤児院にいた、年不相応にさかしいガキ……それが俺だ。


「気にしてるのかい? 自分の出自を」


 伏し目がちなクリスの態度に、自分が口を滑らせていた事に気付いた。言うべきではなかった事を言ってしまったと、態度に示さず後悔する。


「まさか、この俺が気にするか?」


 代わりに見せるのはいつもの俺だ。不真面目で適当で調子に乗っていて……所詮孤児院出身の『特別』な跡継ぎにはお似合いの態度の男。


「君のそういう態度だって」

「クリス」


 悲しそうな顔をする親友に作り笑顔を浮かべて見せる。その瞳に映った姿は無様で滑稽だったかもしれないけれど。


「大丈夫、気にしていないさ」


 自分から周囲からどういう目で見られているかも、それを隣で見てきたクリスがどう思っているかもわかっている。それでも俺にとっては、最善の矜持だった。いつか本当の嫡男が産まれてきた時に『あんな奴より』と蔑まされるような人間――それが俺の望むアキト=アズールライトの姿だった。


 惜しむらくは義両親から、待望の長男が産まれてくる兆候が何一つ見当たらない事だろうか。


「ま、文句を言う奴なんてぶっ飛ばせばいいからな」


 それに幸か不幸か、『アスフェリアの青獅子』の勇名を持つ義父カイゼル=アズールライトに鍛えられたおかげで、剣の腕は誰にも負けない。少なくとも剣で敗北した事は一度もない……当の義父以外には。


「全く君という奴は……相変わらず仕方のない奴だな」


 呆れたようにクリスが笑う。その笑顔を見て、心の底から安心した自分がいた。よし、これで一安心だな。


「それにさっきも言ったけど、俺が不真面目なのは性分なんだよ」


 首の後ろを押さえながら、俺は食堂の椅子を後ろの脚で揺らしてみせた。


「……それで、君はわざとらしく何をしているんだい?」

「何って、椅子が壊れてないか確認しているだけだ」


 そうだ、これでいい。こういう風にへらへらと笑いながら、学園での日々をやり過ごせれば――。


「が?」


 瞬間、視界が回転する。椅子は壊れていなかったが、そのまま後ろに倒れてしまった。遅れて後頭部に痛みを伴う衝撃が走った、その瞬間。




 ――またあの光景が脳裏を過った。だけど今度はより鮮明に、その場面が映し出される。


 ルーク殿下に寄りかかる聖女ミリアに、告げられた残酷な言葉に折れぬようじっと耐える姉の姿。


 婚約破棄。殿下は姉貴に向かってあり得ない言葉を突きつける。


 それから俺は、その場所から、こんな風に頭を打って――。




「変なことした罰だよ、それ」


 クリスの言葉に現実に引き戻されれば、間抜けな台詞が口をついた。


「いってぇ……」


 目頭を指先で強く押さえて、訳の分からない妄想を否定する。ルーク殿下が姉貴に婚約破棄だって? そんな事はあり得ないじゃないか。


 それからゆっくりと瞼を開ければ、そこには腕組をして満面の笑みを浮かべる――ついでに額に青筋も浮かべている――姉貴の姿があった。


「あらアキト、随分と楽しそうな事をしているのね」

「げっ」

「ご無沙汰しておりますシャロン様」

「ええ、ごきげんようクリス」


 丁寧に挨拶するクリスを見てから、もう一度俺を睨む姉貴。


「それでこの愚弟は何をしているのかしら?」

「椅子が壊れてないかなって」

「貴方には聞いてないわ」

「はい……」


 必死の弁明の機会すら奪われた俺は、大人しく口を噤む。と、見かねたクリスがすかさず助け舟を出してくれる。


「勘弁してやって下さい。これでも実技は学年、いえ学園一優秀な男なんです……それに、こと戦いとなれば右に出るものはいませんよ」

「そこはまぁ……お父様も認めているけれど、それはあのお父様だからであって」


 不服そうなため息を漏らす姉貴。当の義父もあまり頭を使うのが得意ではないので、流石の彼女にも上手い返しが思いつかないのだろう。


「で、姉貴は俺に文句を言う為に来た訳?」


 そのまま立ち上がり、改めて椅子に座り直して尋ねる。彼女がこんな時間に食堂にいるのは珍しいので、他に用事があったのだろう。例えば愚弟に文句を言うとか。


「それもあるけれど」


 少し思案してから、諦めたようなため息をつく姉貴。


「いえ、そうね。野次馬に紛れた愚弟の間抜け面を拝みに来た事にしておきましょうか」

「それはどうも。俺も自慢の間抜け面を褒められて鼻が高いよ」

「ならそのひっどい間抜け面を何とかしてから、来週の『翠の聖女』の認定式に必ず顔を出す事。いいわね?」

「え」


 言葉が詰まる。俺としてはあまりミリアとは関わらないでおこうと考えていたせいだ。一応貴族としての立場がある俺が不用意に翠の聖女であるミリアに関われば、無用な問題に発展しかねない。ただでさえお互い政治的に厄介な存在なのだから、距離を取るのが正しい。


「サボ……いえ、欠席するつもりだったでしょう?」


 だがそんな考えは、とうに彼女には見抜かれていたらしい。


「あーその、当日は腹を下すって大事な予定が……」

「貴方ねぇ、殿下の顔に泥を塗るつもり?」

「それは」


 姉の刺した釘にもう一度言葉が詰まってしまう。なにせ彼女の言う通り、件の認定式は姉の婚約者であるルーク殿下がアスフェリア王の名代として取り仕切る予定なのだから。王子の婚約者の弟が顔も出さないとは何事か、等と方方から言われかねない。


「ともかく間抜け面だろうが腹を下していようが、自己管理の上必ず顔を出すように。い、い、わ、ね?」


 語気を強め詰め寄ってくる姉貴。史上最高の聖女、社交界に咲く大輪の花、美しき月の化身――彼女を称える美辞麗句は嫌と言うほど耳にしているが、それでも俺にとって見れば厳しくお節介な姉でしかないのだ。


「……はい」

「うんっ、素直でよろしい」


 恐る恐る返事をすれば、得意げな笑顔を浮かべてから軽く俺の頭を叩く。それに満足したのか姉貴は優雅に身を翻してから、堂々とそれでいて嫌味のない歩き方で食堂を後にした。


「しかし、いつ見ても凄い態度だよね」

「ああ、凄いだろ……我が家ご自慢のお姉さまだ」

「シャロン様じゃなくて、シャロン様に対するアキトの態度だよ」


 クスクスと笑いながら、クリスがそんな事を言い出す。凄い態度、というのが褒め言葉ではない事ぐらいわかる。いくら家族と言えども、孤児院出身の元平民以下が聖女様に砕けた口調を使うのはこの貴族社会では鼻をつままれる程度には無礼なのだから。


「それはまぁ……家の方針だよ。家族で必要以上に畏まるなってさ」

「そうだけどさ、相手は聖女様だよ?」

「だからこそ、だとさ」


 聖女だからこそ。義父に言われたのはまさしくその一言だった。崇められ、奉られ……そして利用されその人生を終える。そんな彼女だからこそ、気の置けない家族でいて欲しいと。


「しっかし、認定式なぁ」


 式なんて言葉のせいで仰々しいが、実際は学園内で行われる程度の小規模なものだ。要はミリア嬢は王家もといルーク殿下が認める正式な聖女だから平民の出だろうが礼節を持って接するように、と釘を刺すための催しだ。聖堂で行われる肩肘の張った式が終われば後は仲良く立食パーティ、といった具合だ。


「あれだけ言われたら流石の君も顔を出さない訳にはいかないね」

「仕方ない、端の方で大人しくでもしてるさ」


 肩を竦めてそう答えれば、クリスは呆れ混じりのため息を小さく漏らした。


「ま、君の不真面目さならそこが及第点かな」

「当然クリスも付き合ってくれるんだろうな?」

「仕方ないか、君のお目付け役は僕が適任だろうからね」


 下らない会話をクリスと交わせば少しだけ心が軽くなるのを実感する。


 何も起きない、起きるはずなんて無い。必死に自分に言い聞かせても、まだ。







 姉貴とミリアの顔合わせから一週間、俺の不安をよそに大きな事件なんて何も起きなかった。だけど迎えた認定式の当日、生徒達の様子はいつもと違っていた。


 クリスと一緒に聖堂へと向かった俺に向けらられたのは生徒達からの冷たい視線と陰口だった。俺の顔を見るなり耳に届くのは、よくも顔を出せたものだ、などという決して聞こえの良い物ではなかった。


「……言われてるね」

「言わせとけば良いんだよ、ああいうのは」

「そう、かな」

「俺が養子に貰われた後はもっと酷かったぞ?」


 俺は陰湿な悪意に晒され不機嫌になるクリスに苦笑いを返す。この程度は何でも無いと自分の不安に蓋をするために。


 そのまま聖堂の吹き抜けへ登り、人も少なく見晴らしのいい場所を確保する。ここなら認定式の邪魔にもならず、壇上に立つ予定の姉貴からも見えるだろう。


 それからしばらくしてから、聖堂の鐘が響いた。雑談に興じていた生徒達は一瞬で静まり返る。開けられた扉から出てきたのは、予定通りルーク殿下と姉貴だった。敷かれた赤い絨毯の上を、二人は堂々と歩いていく。


 だが浴びせられるのは俺の時よりもひどい非難の言葉だった。


 恥知らずのアズールライト、史上最低の聖女、王子に取り入る売女。聞くに堪えない物が殆どだ。それでもなお、彼女は一歩づつ足を進める。祭壇に向かって歩く姿はまるで断頭台へと向かう罪人のようだった。


「なぁクリス……何か、おかしくないか?」


 クリスにそう尋ねながらも、自分の白々しさに嫌気が差す。この光景がおかしいだって? 違うだろう俺、違うだろうアキト=アズールライト。


 これが、この光景こそが。


「実はその……シャロン様に良くない噂が流れていてね。すまない、君は知らないほうがいいと思って黙っていたんだ」

「良くない噂って、姉貴が何をしたって言うんだよ」

「それは」


 けたたましく鳴り響いた鐘の音が、クリスの言葉を遮る。そして現れたのは翠の聖女様だった。学園の有力者達を伴にして、先週までとは考えられない神秘的な新緑色のドレスに身を包んでいる。そして浴びせられるのは――祝福の言葉だった。


「何が……」


 呆気に取られる俺をよそに、事態はただ進んでいく。ルーク殿下の前へと来たミリアは、恭しく頭を提げた。それを見た殿下はゆっくりと頷き、隣に立つ姉貴に視線を送った。汚物でもみるような、鋭利で冷たい氷のような視線を。


 不鮮明だったあの光景が、次第に色を帯びていく。やめてくれ、見せないでくれ。俺はこんなものなんて――。


「それでは、翠の聖女ミリアの認定式に先んじて」


 会場がざわめく。驚きや息を飲む声の中に、卑下た笑いを混じえながら。


 それからルーク殿下はゆっくりと息を吸い、姉貴に向かって右手を伸ばした。その仕草は王の号令そのもので、事の重大さを聴衆に理解させるには十分だった。


 違うだろ、現実なんかじゃ無かっただろ。それでも殿下が紡ぐ言葉は、俺の知っていたそれと同じで。




「蒼の聖女、シャロン=アズールライトの断罪を始める!」




「なん、で」


 ようやく俺が漏らした言葉は、自分の面に相応しい間抜けなものだった。


 読み上げられる姉貴の罪に、あざ笑う聴衆達。姉貴は、シャロンは淡々と突き付けられる無実の罪に黙って頷き続いていた。汗が止まらず口が渇く。心臓はうるさいくらいに鳴り響き視界さえも霞んでいく。


 かろうじて聞こえる彼女の罪は、罪と言えないような些事ばかりだ。素行を注意した、マナー違反を指摘した、学園でのルールを指導した……そこに悪意が塗りたくられ、婚約破棄に相応しい罪へと姿を変える。そして相応しい罰を与えろと、生徒達は騒ぎ立てる。




 ――その瞬間、思い出す。


 あの目を背けていた光景を、紡がれる言葉の続きを。


 こことは違うどこかの世界で、辿ったいつかの人生を。


「残念だよシャロン……まさか君が、このような事を」


 吹き抜けのある聖堂、ため息混じりに首を振る王子、彼に寄りかかる涙目の主人公。


「今ここに宣言しよう。私、ルーク=フォン=ハウンゼンは」


 そして下唇を噛み締めながら、じっと耐える悪役令嬢。


「『蒼の聖女』、シャロン=アズールライトとの婚約を……破棄する!」




 そして俺は――悪役令嬢の義理の弟、アキト=アズールライトは――前世の記憶を思い出した。




 まだ上手く回らない頭で、精一杯状況を整理する。


 突然に、そして唐突に。


 俺は、アキト=アズールライトは前世の記憶を思い出してしまった。見たこともない建物に囲まれた平和な国で、平凡な学生として暮らしていた事を。不慮の事故で若くしてこの世を去った事を。この世界は前世で遊んだとある乙女ゲームに瓜二つだという事を。


「アキト」


 そして今、目下で行われているのが姉貴の、悪役令嬢シャロンの断罪イベントだ。一週間前に学院に編入してきた『翠の聖女』ミリア……つまり乙女ゲームの主人公に嫌がらせをしたというのが罪状だ。ここで第一王子であるルークに婚約破棄されたシャロンは。


 呼吸が荒い。自分が正気じゃない事だけが、はっきりと理解できた。


 ゲーム、主人公、悪役令嬢。訳のわからない筈の単語の数々が手に取るように理解できる。まだ肩で息をしたまま、気力だけでゆっくりと立ち上がる。そして思い出してしまう。これからのシャロンに、俺に、この世界に。


 起きるであろう事件の数々が。


「ねぇアキト……大丈夫かい?」


 そこでようやく、クリスに声をかけられていたと気づく。いつかのようにからかう元気なんて残ってはいない。


 知らないはずの未来の出来事が次々と映し出されていく。婚約破棄されたシャロンは、その地位と力を一気に失う事になる。そして学園から姿を消し、ミリアに復讐を始めるも王子達に全て阻まれ、アズールライト家は取り潰しとなり彼女は断頭台へと送られる。


 意味がわからない。何故、どうして? ひたすらに疑問符が俺の頭を埋め尽くす。ただ何よりも最悪なのは、眼の前の現実がその未来を示している事だった。


 もう書かれた物語の内容は、絶対に変えられない。強迫観念にも似たその事実が何度も心に突き刺さる。それでもこの場だけはどうにかしたくて、クリスに向かって精一杯の声を絞り出す。


「あ、ああ……大丈夫だ。少し混乱していて」

「無理もないよ、こんなものを見せられて……」


 こんなものを見せられた上に、あんな未来を知らされたから。だけどそれは言葉に出来ない。自分ですらまともに理解できない物を、クリスに、彼女にどう説明するか。


 ――彼女?


「本当に大丈夫かい?」

「あ、ああ……」


 顔を詰め寄ってくるクリス。そう、彼女だ……俺は今まで、一体何を見ていたんだ? 背は俺より頭一つ分低く、小動物のような顔をして、それか男の割に声が高い。そして頼んでもないのにゲームの知識が答え合わせをしてくれる。


 クリス=オブライエンは女性である、と。


「何がどうなってるんだよ……」


 天井を仰ぎながら、倒れ込むように近くの手すりに体を預ける。姉貴の事、これからの事、それからクリスの事。これから先、何をどうしていいのかという疑問と不安。そんな事に気をとられていたせいで、俺は聞き逃してはいけない異音に気づけなかった。


 乾いた破裂音が鼓膜に響く。


 手すりが壊れ体勢が崩れ、体が一瞬宙に浮く。情けなく手を伸ばしても、何かを掴む事はない。すぐに体は急降下し、頭から地面に突っ込んでいく。痛みのない衝撃が頭を揺らした瞬間に、実感のこもった言葉が頭をよぎる。


 ああ、死ぬのか。


 見える景色が赤く染まり始めて、情けなくも俺は自分の人生が終わりに近いことを悟った。これから先の未来はどうなるのか。アズールライト家はまた養子を取るのだろうか。この事故で婚約破棄が有耶無耶になりはしないだろうか。噂に聞く走馬灯の代わりに、下らない考えだけが頭を過る。


「アキト、アキト……ッ!」


 生徒達の悲鳴に混じって、一際大きなクリスの声が響く。彼女に謝罪の言葉をかける余裕なんてあるはずもなく、両の瞼がただ重さを増していく。


 感覚が削ぎ落とされ、真っ暗な闇に意識が落ちていく。


 その果てにふざけた幻覚が見えた、ような気がした。






『ロードしますか?』





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