58/解きほぐされた心模様






 夜道は続く。


 一世一代の告白から数分後。


 ひとしきり溢れんばかりの現実しあわせを受け止めた渚は、肇に手を引かれる形で歩き出した。


 積極的なスキンシップはなんら変わらない。

 いつもの彼女ならそんな仕種に取り乱していたところだ。


 けれどいまは違う。


 心境の変化はあからさまに。

 少女は可愛らしく微笑んで、指を絡めながら傍につく。


 隣にそっと寄り添うように。


「ん?」

「ふふっ……♪♪


 語尾に音楽記号でもついていそうな笑い声。


 渚は繋いだ手から伝わる温もりを噛み締めるように感じ取る。


 大切なモノ、大事なモノ。


 そんなのはあれからずっと。

 いつかの過去ときから、この先見つかるコトはないと思っていた。


 それこそ、生きていくコトに絶望してしまったぐらい。


「……あったかい」

「渚さんが冷たいんだよ」

「そうかな……、ううん。そうじゃないよ、きっと」

「えー」


 彼の言い分に頭を振って、たしかめるように握りなおす。


 見つかるコトはないと思っていた。


 無くし物は唯一無二で姿のある形のないモノ。


 奇跡でもなければ二度とは手に入らない。

 そんな都合の良い現実は実際にありはしない。


 だけど。


 ありえないコトに、奇跡はこうして目の前にあって。

 胸に秘めた彼女の想いは叶ってしまって。


 あぁ、なんていうか――――とても。


「――えへへっ」


 とても、幸せだ。



「嬉しそうだね」

「……うん、嬉しい」


「しかも素直だ。明日は雪が降るかも」

「……む、どういう意味。それ」


「新鮮な渚さんって意味」

「ばかにしてるでしょ」


「うーん……三割ぐらい?」

「このっ」



 ぼすん、と彼の胸に飛びこみながら渚が頭を押しつける。


 こう、ぐりぐりと。


 さながら飼い主の足下に頭を擦り付ける猫みたいに。


 ついぞ鳥類から脱却して哺乳類になったのは果たして進歩かどうか。

 少なくとも着実に人間には近付いていた。


 いやまあ彼女自身は歴とした哺乳綱霊長目ヒト科ヒト属のヒトなのだが。


「渚さんって意外と甘えたがりだよね」

「……意外とってなに」

「うん?」

「なにと比較して意外なのっ……別だって言ったの、そっちじゃん……っ」

「……ふふっ、そうだね。ごめんごめん」


 肇の指によってさらさらと梳かれていく銀糸の髪。


 ……結局、こうなってしまった時点で明白だったけれど。


 彼が頭を撫でるのは渚だけだった。


 その理由がいまは完璧に理解できる。


 言うまでもなく。

 語るまでもなく。


 たったひとりに向けられるのなら、それは無類の特別なのだ。


「……言ってなかったんだけど、さ」

「ん。なに?」

「私、肇くんに撫でられるの、すき……かも」

「……そっか」


 否定とも肯定とも取れないコメントは、同時に頭を撫でる手を止めないコトで返答してもいた。


 そんな事実に気付いてまたもや渚はニヤけてしまう。

 彼の背中に手を回して、ぎゅっと強く抱きついて、顔をうずめるように押しつける。


 だらしのない表情を見られたくないのと。

 なんだか無性に離れたくない気持ちになってしまって。


 ……ついでに、まだまだもっと彼の色々に包まれてもいたくて。


「あと、肇くんのこともすき」

「それはさっき聞きました」

「……いいでしょ。何回も言いたいの」

「価値が下がっちゃうよ」

「下がらないもん。ずっと一緒だもん」

「もんって……いくつなの渚さん」

「十五歳だからっ」


 どこかむくれた様子で渚は密着状態のまま肇を見上げる。


 その言に偽りはない。

 ふたりとも誕生日はまだちょっと先だ。


 当然ごとく同学年であるなら同い年でもある。


 無論、彼と彼女が普通の学生であったならの場合。


「それよりもっと長い経験があると思うけど?」

「……肇くんとそう変わらないよ、それでも」

「あれ、そうなの?」

「うん。だって私、一年ぐらいして、死んだワケだし」

「え、うそ」

「……ほんとだよ」


 微笑みを薄くしながら彼女は答えた。


 けれども熱は逃げていかない。

 酷く落ち込む様子はない。


 沈むような空気は出番をなくしている。


 渚自身がここに来てようやく掴んだ――あるいは取り戻した――日射しの欠片だろう。


「なんで? 病気?」

「言ったでしょ。引き摺ってたの、ずっと。あなたが居ないから」


 思い返せばつきんと胸が痛んだ。


 頭には針を刺したような記憶のトゲ。

 心臓は怯えるように跳ねていく。


 顔と身体を分かつ位置に幻肢痛が走る。


 傷はまだ深く彼女の心へ痕を残しているようだった。


 でもそれだけ。

 たったそれだけ。


 なら、もうなんの問題もありはしない。


「だから――――耐えきれなくなって」


 追いかけて、ここに来た。

 彼が居るとも、どうなるとも知らずに。


「まさか」

「うん。……私を殺したのは、私」

「…………ありえない」


 はぁ、と空に向かってため息がこぼされる。


「なにしてるの……」

「……ほんと、だよね」

「まったくだよ。むしろ俺的にはそこがいちばんダメなんだけど?」

「……ごめんなさい」

「いいや許さないよ、もう」


 頭を撫でる手を止めて、肇は渚を潰れんばかりに抱き締めた。


 腕にすっぽりと収まるサイズのいまは小さな少女。

 その目の前の彼女がもう二度と間違えるような真似をしないように。


 ぎゅっと。


 なにより強く、どこまでも固く。



「俺だけじゃないし、父さんだってひとり残ったじゃないか。それ」

「……半年頃にはもう見限られてたよ」


「あの父さんが?」

「うん。会話もなかったし、一緒にご飯も食べなくなってた。たぶん、病院にも入れようとしてたんじゃないかな」


「? やっぱり身体が悪くなって?」

「ううん、精神病院」


「どこまで酷かったの……」

「誰かを想って毎晩泣き喚いて、疲れて寝ちゃうぐらいかな」


「……拗らせすぎだし。好きすぎでしょ……」



 ふと、どうして自分の周りにはやけに尖った好感度をしている人が多いんだろう? なんて不思議に思ってしまう肇である。


 渚しかり馨しかり、美術系なら摩弓しかり中学の女子しかり。

 嬉しい悲鳴なのかもしれないが、ちょっと重めの感情が渦巻きすぎていた。


 尤もそれはおそらく類友ルイトモ――類は友を呼ぶ――案件なのだろうが。


「やっぱり渚さんは悪い子だったんだね」

「……そうだね。私、悪い子だ」

「うん。なので悪い子にはおしおき。罰を受けてもらいます」

「…………どんな?」


 ぎゅぅっ、と。

 渚の後ろに回された手が彼女をキツく抱き寄せる。



「俺と一生一緒に年を食っていく罰」

「……そんなの罰にならないって」

「どうかなー、それ。浮気とか不倫とか、絶対ダメだからね」

「できないよ、私。――肇くん以外に、こんな気持ち、持てない」


「む……渚さんのクセにずるい言い方するね……」

「……肇くんのクセに生意気だよ」



 それは彼だからこそ通じる、

 彼女だからこそ伝えられる響きだった。


 のでもなく、のでもなく。

 頭がおかしくなるほどの熱量はひとり以外に持てるワケがないと。


 そんな容量キャパはどこにもないのだという殺し文句。


 ……成る程、褒められたコトではないけれど。


 それを思い悩んであまつさえ首まで吊った人間が言うと説得力なんてものじゃない真実味がある。



「……あ。あと名字も変えてもらいます」

「別に……、……もとから変えるつもりだったし」


「もちろん刑期は死ぬまでだから」

「いいよ。肇くんとなら、そんなのぜんぜん」


「ちなみに執行猶予がつきますので」

「要らないよそんなの」


「いや要るとは思うんだけど」

「要らない」



 ぶんぶんと首を振る渚だが法律上婚姻年齢は十八歳以上だ。


 世間一般では高校一年生にあたるふたりなら最低でもあと二年ちょっと。

 現実的なコトを含めるとおそらくずっともっと先。


 名実ともに夫婦となるのはそれからの話なので。



「……もう一回したら生まれ変わっても口きかないからね」

「しないよ……もうしない。大丈夫」

「それなら良いけど」

「うん。もうあんなコト、しない」


「……お願いだからね」

「……うん」



 そこまで言われて、そこまで言っておいて。

 なにより彼からの言葉を受けておいて、彼女が違えるはずもない。


 お願いとは言うけれどそれは実質約束みたいなものだった。


 互いに込められた想いも価値観も一致している。

 なにがいけなかったのかも、どうして悪かったのかも理解のうち。


 だとすれば、その最悪な結末はたった一度きりの失敗。


 繰り返されるコトのない不幸な末路のひとつだ。


「――やっぱり明日は雪みたいだ」

「? ……なんで?」

「渚さんが素直だから」

「……また言った。このっ」

「冗談冗談」


 あはは、なんて笑いながら胸に渚の拳を受ける肇。


 擬音にすればポカポカとでも鳴りそうな攻撃は可愛らしいものだ。

 決してどこかのイケメンが喰らったような足を震わせるレベルの打撃ではない。



 後に同じような光景を目にした海座貴少年はこう語る。

 優希之渚、ヤツは陰湿で最低な悪女そのものだと――――


「あっ、そういえば」


 と、そこで肇が不意に声を上げた。



「……なに? どうしたの……?」

「いや、ちょっとしたコトなんだけど」

「……ちょっとしたコト?」

「うん。流石にもうさん付けってのは他人行儀かなって」


「……一年以上ずっと名字呼びだった人がなんか言ってる」

「それとこれとは別じゃない?」

「別だけど別じゃない」



 ふいっとそっぽを向く渚はあからさまにふくれっ面だ。

 彼は大して気にしていなかったようだが、彼女は大層ご立腹だったらしい。


 名前呼びに移行したのだってつい最近。


 夏祭りも、花火も、学校行事も、クリスマスも、正月も一緒で。

 バレンタインでチョコを渡してホワイトデーにお返しをもらうほどになっていたのに。


 悉く呼び方は「優希之さん」で固定という現実にどれだけ渚がモヤモヤしたコトか。


 それが分からないなんてとんでもない、とでも言いたげにつーんと拗ねている。



「……ごめんごめん。ほら、ちょうど受験の時期だったし」

「だとしても呼び方ぐらい別に良いじゃん名前でも」

「なんか響きが馴染んじゃって」

「……〝優希之さん〟って?」

「うん」


「――このっ、このっ」

「ごめん、ごめんってば。許して」



 ぽかぽかぽかぽか。


 拳は柔らかく跳ねるように彼を叩く。


 当然その程度なら痛くもかゆくもない。

 制服の上からトンと小突かれるぐらいの衝撃だ。


 なんだかんだでどうであれ、渚は肇の前だとてんで非力なので。


「……頭撫でてくれたら許す」

「よしよーし。偉いよー、良い子だよー」

「てきとーなのやめて。ちゃんとして」

「承知しましたお姫様」

「……………………うむ」


 苦しゅうない、と顔を赤くする少女は自分の引いた引き金によって撃ち抜かれそうになっていた。


 是非もない。


 いくら舞い上がろうと忘れてはならない事実が目の前にある。


 彼女がどんな状態かとか、彼とどんな関係であるかなんて関係なく。

 根本的に水桶肇の対応力は渚限定でどこかちょっとバグっているのだ。


 それに加えて今までただの友人関係だったのが進展したのなら尚更。


 ようやく本来の在り方を取り戻しつつあるとはいえ、まだ立って歩き出したばかりの渚には劇薬すぎた。



「照れるなら自分から言わなきゃ良いのにー」

「っ…………」

「耳まで真っ赤だけど大丈夫? 熱ない?」

「な、ないっ、うるさいっ」

「かわいー」


「っ……もう! ほら、行こっ! 道、あとちょっとだし!」

「ふふっ……はいはい」

「…………っ」



 カツカツと高い靴音を鳴らして渚が歩みを再開する。

 そんな彼女に引っ張られて肇も後をついて行く。


 ふたりの手はしっかりと繋げられて。


 互いの距離は――たぶん数字に直すのだって野暮なモノ。


 ただ近く、傍にある。


 人間同士の親しい間隔なんてそんな表現で十分なのだ。



「ところでさ」

「……なに」


「今ちょっと思ったんだけど、俺ってもしかして画家として食べていけるのかな」

「…………たぶん肇くんが食べていけなかったら殆ど誰も画家として成功しないよ」


「まあ実際成功するのは一握りだけど」

「いやそういう問題じゃなくて……」



 反射的にじとーっ、とした目を向ける渚。

 けれどそんな反応も仕方ない。


 過去を告げる上でしっかり伝えた彼の真実はいまも変わらないモノだ。


 だというのにまだ己の腕を理解していないのだろうか? と。



「でも星辰奏まで来て定職に就かないのは惜しくない?」

「……世間にとってみたらその才能を活かさない方が惜しいとか言われるよ、たぶん」

「あぁ、ありそう。馨とかいつもそんなコト言ってる。見る目はほんとに凄いから、それは絶対そうだったんだろうね」


「……私あの芸術技能しか頭にないような才能コンプ野郎きらい」


「なんてこというの」



 びきっ、と青筋をたてながら渚は呟いた。


 原因は美術室での押し問答以外に他ならない。


 悪口に込められたのは実感と予備知識だろう。

 殆ど付き合いのない彼女が知らないであろうコトも、そういえばアイツああいう奴だったな、と遠い記憶で保管した上での罵倒。


 要するに恨みつらみがめちゃくちゃこもっている。



「でも凄いんだよ馨。直感だろうけど、君が後追いしたのも分かってたし」

「……え、なんで。こわ……」

「なんでもお母さんに似てたんだって」


「…………あぁ……そんな設定じじょう、あったっけ……」

「あ、やっぱり完璧に覚えてるワケじゃないんだ」

「……そりゃそうだよ。もうずっと前にやったコトなんだし」



 例えば彼女がそれこそ設定資料の隅から隅まで覚えているような重度のファンなら。

 原作ゲームを何度もプレイして全分岐バッドトゥルーハッピーを幾度となく網羅したほどの激烈なオタクなら。


 いずれかの彼らとの関わりも変わっていたかもしれない。


 けれど現実はどこにでもいる、ちょっと弟が好きすぎてぐしゃぐしゃになった姉がその役割を与えられたワケで。


「……しかし犬猿の仲だね。馨も嫌だって言ってたし」

「だろうね。分かるよそのぐらい」

「でも喧嘩するほど、とも言うんじゃない?」

「肇くん。それは前提条件として仲の良いひとが喧嘩するからそう言うんだよ」

「あっはい」


 なんかこう、見えない圧力におされて肇は反射的に答える。


 なんとも言えない謎の恐怖感と謎の説得力があった。

 思わず返す言葉の全部が頭の中から抜けたほど。



「……まあ、八つ当たりって向こうも言ってたし。嫌うのも分からなくはないけど」

「…………自覚してるあたりほんとムカつく。なんなの、あいつ」

「馨だって悪いところばかりじゃないんだけどね」

「どこがっ」


「だって半分は部長に名前覚えてもらってるし。もう半分、飛び抜けたらきっと物凄く跳ねるんじゃないかな。あれだったら」

「…………絵の話?」

「そう。少なくとも才能がない、なんてコトないのにねー」



 ……そう言っている彼のコトには覚えがあって、渚はそっと目を逸らした。


 今となってはもうなぞるつもりもない原典の話。

 見事な美声を持つ歌姫と出会ってヒントを掴んだ絵描きの少年は、そこからどんどんと頭角を現していくようになる。


 だからと言って絶対聞かせてやるものか――とまでは渚も思わない。

 でも、進んでこっちから聞かせてやる気もない……というぐらいにはやっぱり嫌いなのも正直なところだ。


「……まぁ、合唱コンクールも文化祭のステージもあるし、いっか……」

「? なんの話?」

「ううん、こっちの話。……どうでもいいお節介のコトだよ」

「??」


 彼とこうして繋がった手前、深入りする必要はひとつもないけれど。


 それでも当初の目的は「せめてそれぐらいは」なんていう半端なものだ。

 ならばまあ、そのあたりだけでも解決するのが彼女の選んだ道なのだろう。




「……ほんと、肇くんがいて良かった」




 彼に聞こえないようにぽつりと呟く。


 暖かな感触を大事そうに握りしめながら。

 間近で浴びる彼のすべてに愛おしさを抱きながら。



「そう言ってもらえると嬉しい限りだね」

「ぴっ!?」



 ――まあ当然、間近なので小声だろうとなんだろうと。容赦なく彼の耳は拾ったのだが。



「ちょっ、なっ、なん――っ、なんでそういうところは絶対外さないの……!」

「だってこの距離だよ。これでも俺、聴力検査はずっと良いのです」

「っ……もー! もーっ! ばかーっ! 肇くんのあほーっ!」

「そんな照れなくても。言葉で伝わって嬉しいコトに損はないんだし」

「わ、私が恥ずかしいのっ!」

「あはは。だね、真っ赤っかだ」

っ……! 恋人になっても…………っ!勝てない美少女の図



 伝えるつもりで言うのと伝えないと思って言うのではまったく違う。


 その差が如何に強大かを力説したい渚だったが、いざ口を開こうとすると余計に地雷を踏みそうで躊躇した。


 セルフ地雷原タップダンスなんてやりたい人間が居るだろうか。

 いや、居たとしても一握りであるコトは誰でも分かるコト。


 わざわざ自分からやられに行く必要は一切ない。



「――――っと、ここだね」

「っ……、あ……」



 こつん、と肇の歩みが止まる。


 見ればそこはいつもの恒例となった別れ道だった。


 楽しい時間は満たされているが故にあっという間に過ぎていったらしい。


 そっと、絡めていた手を解いていく。



「……ありがとう」

「いいよぜんぜん。このぐらい」


「…………、」

「…………、」



 わずかな沈黙。


 彼は真っ直ぐ少女を見つめて、

 彼女はえっと、なんて前置きしつつ視線を彷徨わせる。


 なにかを切り出そうとして悩んでいるのか。

 なにを言うかを迷っているのか。


 それは向い合う肇もどことなく察して。



「……その、じゃあ……また、ね。肇……くん」



 結局普通にやるコトにしたのか、渚がふりふりと胸のあたりで手を揺らす。


「……そうだね。じゃあまた」

「う、うん――」











 ――――そんな風に。



 いざ別れるとなって油断した瞬間だった。


 一歩。


 彼がなんでもないように距離を詰める。


 驚いた渚は無防備なまま動けない。


 ただ漠然と、

 呆然と迫り来る彼の顔を見て。


 あぁ、よく見ると目の色が綺麗だな、なんて見当違いなコトも思って。



 〝――――――え?〟






「――――――」





 銀色の光が広がる。

 鼻先を素敵な香りが掠めていく。


 腰には見た目のわりに丈夫でがっしりとした男子の腕。

 そっと抱き寄せられた身体はわずかに反るように。


 ……正真正銘、


 この世に産まれてはじめての口づけは、触れるように優しく。


 溶けるように暖かく。



 ――――瞳を閉じた彼の表情が扇情的でたまらない、魅力にあふれたモノだった。




「――――――――、」


「――――――……あははっ」




 ゆっくりと顔を離して肇が笑う。


 珍しく顔が赤い。

 照れくさそうに恥ずかしがる彼の表情は新鮮だ。


 それだけでもう心が溶け落ちてしまうぐらい、不思議な熱に焼かれそうになる。


 ……でも、そこから動けるのがきっと彼の勇気で、凄いところ。




「――じゃあね。また明日。……おやすみ、




 耳元でそう囁いて、いま一度微笑んだあとに肇は踵を返した。


 コツコツ、カツカツと。


 少し早足で彼女の前から去っていく。


 残された渚はそれを見守るしかできない。

 完全に固まってしまって動きたくとも動けない。


 完璧な不意打ち。


 隙を突いた致命的な一発。

 ありえないぐらい心に響いた一撃。



「――――――ぁ」



 ばかみたいだ。


 あんな気障な真似をして。


 ばかみたいだ。


 あんなに格好付けて。


 ばかみたいだ。


 あんなに恥ずかしがって。


 ばかみたいだ。


 あんなコトを呟いてくれやがって。


 ばかみたいだ。


 いきなりキスなんぞしてくれやがって。




「ぁ――――あ――……っ」




 ばかみたいだ、ばかみたいだ、ばかみたいだ、ばかみたいだ、ばかみたいだ、ばかみたいだ、ばかみたいだ、ばかみたいだ、ばかみたいだ、ばかみたいだ、ばかみたいだ、ばかみたいだ――――




「――――ぁあああぁおおぁああぁおあおああおあおうぅうあぁぁああ…………ッ!!」




 べしゃっ、と崩れ落ちながら渚は言葉にならない声をあげた。


 ほんと信じられない。

 ばかみたい。


 ずるい、せこい、反則だ、ルール違反だ、イエロー通り越してレッドカードだあんなのは。


 なんてコト。

 なんて蛮行。


 なんて――――



「………………っ!!」



 ――――めちゃくちゃに、好みな行動を。




〝あーッ! やだぁー!! あーッ! あーあーッ!! なんなのぉっ!! もうやだぁ! 好きすぎてやだぁーっ!! あぁあぁああぁ――――――ッ!!〟




 胸中で少女は泣き叫ぶ。


 勝敗があるなら言うまでもなく。

 これから先だってずっとそのように。


 恋人になったとしても、渚の受難は終わらない。


 ヒヨコに戻った彼女がニワトリに成るのは、まだまだ遠い未来の話――





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