太子と丞相

 おれが十歳になるころ、秦で安国君あんこくくんが即位すると、子楚は取り交わされた約束通りに太子となった。そして俺たちは、祖国……と言えなくもない秦に帰国することになった。邯鄲かんたんで生まれ育った俺が秦の咸陽かんようの地を踏んで思ったことと言えば、まあ「人がたくさんいる」くらいしかなかった。おれの目は全く直りそうになかった。隣にいるからようやくそうとわかる母親は、太子となった子楚に会ってようやく落ち着きを取り戻したふうに見えた。やつれはてた母を抱きしめる太子・子楚の後ろには、例の呂不韋りょふいが立っていて、二人を見守っていた。

 そう、呂不韋が、立っていた。おれの目はやはりおかしかった。呂不韋だけを、俺は識別できたのだ。話にしか聞いたことのない、父親の後見人――ひと目で、わかってしまった。

 おれは呂不韋のもとまで走って尋ねた。

「あなたは、何をする人なの」

 子供らしい質問だと思ったのか、呂不韋はひげを蓄えた顔に慈愛をにじませた――が、おれにはそれが作られた笑みだってことがすぐにわかった。瞳の奥が物語る。

「あなたの御父上を支えるお仕事をしていますよ」

 限りなく本当に近い嘘だった。だからか、と俺は得心とくしんした。こいつは嘘と本当を織り交ぜて生きている。だから、見えるのだ。

 こいつの顔だけが、はっきりと見えるのだ。

 父を支えるだなんて嘘だ。でも、父を支えることによって、富を得ている。これは本当だ。要するに、子楚から甘い汁を吸いたいのだ。

 

 何かを暗示するかのように、安国君、つまりおれの爺さんは、在位3日で崩御する。そして、呂不韋の見つけた「奇貨」異人いじん、つまりおれの父、子楚が、荘襄そうじょう王として即位することになる。当然の流れでおれは太子となった。

 おれは丞相じょうしょうとなった呂不韋を追いかけた。呂不韋が行く先々、許される限り、追いかけた。そして、子供らしく振舞い、ときにをやってごまかした。

――お前の姿を見極めてやる。

 それを知ってか知らずか、呂不韋は仕事の合間に暇を見付けてはおれを構った。最高位の廷臣にあるまじき振る舞いであった。まわりの目もあるなかで、彼はあの薄くて嘘くさい笑みを浮かべ、嘘と本当の入り混じった瞳で俺を見た。そしてある日、なんの前触れもなしに、こう言った。

「政さま。あなたは時折、子供らしくないふるまいをなさいますね」

 おれはどきりとした。12歳の時だった。

「安心なさいませ。次の王はあなたでございます」

「……おれに、王などできると思うか」

「できますとも。わたくしが居りますゆえ。あなたはどっしりと構えておられればよろしい」

 おれは驚いた。瞳の奥に嘘がなかったからだった。

「あなたは賢くあらせられる」

 呂不韋の目がきらりと光った。「きっとあなたは良き王となりましょう」





 



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