第12話 あらわれたケモノ

 本殿の裏から、武彦の狂ったような叫び声が聞こえてきた。


 伸吾は慌てて立ち上がると、武彦が姿を消した方に視線を向けた。薄暗い闇の先には、なにも見えなかった。仕方なく座りかけたそのとき――。


「うげぇぇぇぇぇぇぇぇーーーーーーーーっ!」


 再び武彦の声が聞こえてきた。さきほどの声とは異なり、極限まで恐怖によって侵食された痛烈な悲鳴だった。


 伸吾はすぐに走りだした。本殿の階段をかけ下りて、隣の公園へと続く小道を走る。公園には外灯が何箇所か設置されており、境内よりははるかに明るい。その明かりを目指して走った。武彦を助けに行く気など、始めからさらさらない。とにかく、自分だけでも助かりたい一心だった。



 こんなはずではなかった。こんなはずではなかった。いったい、いつから歯車は狂ってしまったのか……。



 伸吾には二人の兄がいた。長男は現在父親の秘書をやっている。いずれ父親の地盤を引き継ぎ、政治家になると決まっている。次男は国立大の法学部に通っている。こちらも政治家への道へと進むことが決まっている。二人の兄は属に言う優等生で、エリートコースを真っすぐに突き進んでいる。


 三男だけが違った。小学校のときまではなんとか二人の兄の背中を見て追い掛けることができたが、名門中学の入試に落ちたところで、兄の背中ははるか遠くにいってしまい、今ではもうその背中は見ることすらできない。


 そして、気が付けば清と武彦の三人でグループを作り、悪さをするようになっていた。もっとも、犯した悪事はすべて父親がもみ消してくれたが。


 だが、今回ばかりはそういうわけにはいかないだろう。野良犬をバラバラにして殺したなどと知れたら、なんと言われるだろうか。伸吾の父親は大の犬好きで、三匹の血統書付きの犬を大事に飼っているのだ。


 あるいは、そんな父親に対しての反抗心から、今回の『ゲーム』――野良犬殺しを思いついたのかもしれない。それも今となってはどうでもよかった。今は目の前の恐怖から逃げるのが先だ。


 伸吾は公園に入ると、ベンチ脇にある外灯の下に走った。運動不足の体に、全力疾走はこたえた。肩で息をしながら、後方に目をやる。あの少女の姿も、あのバケモノ犬の姿も見えなかった。


 息を整えて、再び伸吾は走りだそうとした。一歩前に足を踏み出しかけたとき、背後から低い唸り声が聞こえてきた。路地で聞いた、あの唸り声である。


 伸吾の動きがぴたりと止まる。全身が恐怖で硬直するなか、心臓だけがすさまじいスピードで鼓動していく。


 振り向くことは出来なかった。振り向いた瞬間に、あのバケモノ犬が飛び掛かってきそうな気がしたから。だが、前に進むことも出来なかった。一歩前に踏み出した瞬間に、あのバケモノ犬が背中に飛び掛かってきそうな気がしたから。


 伸吾は完全に窮地におちいった。


「――どうしたの? 逃げないの?」


 背後からあの少女の声がした。感情が一切消えた氷の声。


「――――」 


 伸吾は動かない。いや、動けなかった。


「逃げないの?」


 少女は再び繰り返す。


「それじゃ、こちらから行かせてもらうわ」


 伸吾の耳に、背後から近付いてくる少女の足音が聞こえてくる。少女の足音に重なるようにして、あの犬の唸り声も聞こえる。


 為す術が見つからなかった。いや、この場から逃げ切る術を考えるだけの精神的余裕が、伸吾にはもはやなかった。恐怖が精神を完全に支配していた。


 なにもできずにいた伸吾だったが、しかし、まだ運命から見放されてはいなかった。パンツのポケットに入れていた右手の指先に、かたいものが当たったのだ。恐怖で引きつっていた伸吾の顔に、わずかな動きが生じる。唇の端がくいっと持ち上がった。伸吾自身は笑ったつもりだったが、それは笑みの形には見えず、ただ唇を歪めたようにしか見えなかった。


 極度の恐怖の中、伸吾は恐る恐るポケットの中で右手を握り締めた。手の平に伝わる冷たい感触に、少しだけ心に余裕が生まれた。


 

 よし、まだ勝機は残っている。やってやる。このナイフであの女もバケモノ犬も、バラバラに切り裂いてやる。



 心中でつぶやいた。そうして気分を徐々に高めていく。



 やってやる。おれが勝つんだ。このままむざむざとあの女にやられてたまるかよ。おれが勝つんだ。おれが必ず勝つんだっ!



 気分が高揚し、最高潮に達したところで――。


「うおおおおおおおおおおおおおおおーーーーっ!」


 伸吾は振り返って猛然と突進した。


 視線の先に、少女とあの巨大な犬がいた。


 心中の恐怖は消え去っている。



 大丈夫だ。出来る! おれには出来る! やってやる!



 伸吾は右手でしっかりと握り締めたナイフを、パンツのポケットから取り出した。五匹の野良犬の体を切り裂いたナイフと同じものである。


 少女を守るように巨大な犬が前に出てくる。その場で力をためるように四本の脚を折り曲げると、次の瞬間、たわんだバネが一気に伸びるようにして、信じられない跳躍力で伸吾に向かって飛び掛かってきた。


 ドーベルマンじみた犬の顔が、空中で一瞬のうちに変化する。目が鋭さを増し、瞳は真っ赤に燃え、口が耳元まで大きく裂けたかと思うと、そこから白い牙が生まれた。全身の毛が、怒りに燃えたように蒼白く輝きだす。


 伸吾の視界が、バケモノと化した巨大な犬の体で埋めつくされる。それでも伸吾は歩みを止めなかった。手にしたナイフを、そのバケモノ犬に向かって突き出す。


 伸吾とバケモノ犬の体が重なりあった。



 そして――。



「うぎゃあああああっっっっっっーーーーーーー!」


 伸吾は腹の底からすさまじい悲鳴をあげながら、地面の上を転げ回った。


 伸吾が手にしていたナイフを、バケモノ犬が口で咥えていた。そのナイフをぷっと放つ。ナイフが消えた口元は、血で真っ赤に染まっている。牙の先から垂れた血が、雫となって地面にぽたりぽたりと落ちていく。


 地面に横たわった伸吾は、左手で右拳を押さえ、呻き声をあげながら身悶えし続けた。左手の指の隙間からは、湧き出るように血が流れ出している。


 呻き続ける伸吾のもとに、少女がゆっくりと近付いてきた。感情のない冷たい目で伸吾を見下ろす。


「く、く、く、く、くそっ……な、な、な、なんだって、なんだって……こんなこと……しやがるんだ……」


 伸吾は激痛と戦いながら少女を見上げた。


「犬たちを殺した罰に決まっているでしょ」


 少女は冷たく言い放った。


「……罰だって……。あんな野良犬……遅かれ早かれ……保健所に連れていかれて殺されるんだ。……だから、おれたちが先に……殺してやったまでさ。……バラバラにしてな……」


「あの犬は、あたしの大切なトモダチだった」


 少女は表情を一切変えることなく言った。


「トモダチ……? あの犬のことか……?」


「そうよ」


「……へへ……へへへ……へへへ……」


 痛みに耐えながら伸吾は笑いだした。


「なにがおかしい!」


 初めて少女が怒りをあらわにした。


「たかが野良犬ごときが……トモダチだって……。へへ、笑わせるんじゃねえよ……。そんなことのために、そんなことのために……殺されて……たまるかよっ!」


 伸吾は地面に倒れた姿勢のまま叫んだ。


「なんとでも言えばいいさ。おまえが死ぬことに変わりはない」


 少女は再び感情のこもっていない声で言った。


「ケンタ、こっちにおいで」


 犬が少女のもとに歩み寄ってくる。


「もうおまえはどこにも逃げられないわ。ケンタはとってもお利口さんだからね」


 少女は伸吾に向かって死の宣告をした。


 伸吾は痛みと恐怖の中、上半身だけ起こすと、両足の踵で地面を蹴るようにして、必死に少女から離れようとした。しかし、そのスピードは悲しいくらい絶望的に遅かった。


 少女の足元に戻ってきた犬が、今にも飛び掛りそうな狂暴な目で伸吾をにらみつける。その犬の視線が、不意に公園の一角の暗闇に向けられた。

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