(怒らせてはいけない相手を怒らせた)第11話



 

「どうか、わたしを困らせないでください。この手を離しても暴れないと約束できますか」


 私は冷静に身体の力を抜き、首をかすかに縦に振った。


 光源氏は右頬を引き上げ、満足そうに微笑んだ。

 頭上に押さえつけられた両手が自由になる。それでもまだ、彼の右手は肌を堪能するように遊ぶことをやめない。


「光源氏さま。いそがないで、興醒めですわ」と、甘い声を出して囁いてみた。

「そんなとろそうな声で頼まれると、止められない。あなたは可愛らしい方だ。わたしに、お顔を見せてごらん」

「いやです。恥ずかしいもの、見ないで」


 男に肌を許すことの嫌悪感。私は震える身体を抑えつつ、左肘をついて上半身を起こした。

 サラサラと長い髪が流れ、光源氏が半分脱いだ狩衣かりぎぬの上に落ちていく。


「いそがないで、光の君。あなたには慣れていることでしょうけど」と、私は思わせぶりに言葉を切った。「わたし……、わたしは、はじめてなの」


 言葉で煙に巻きながら、御帳台みちょうだいの上を、そっとさぐった。すぐ酒瓶に指先が触れた。

 この幻覚剤入りの酒瓶で後頭部を殴りつけたい。

 思ってもみない激しい感情が吹きだした。でも、耐えなきゃ。こいつに、夜がうまくいったと思わせなければならないから。


 我慢よ、私。

 我慢。

 男の好きなようにやらせて、じっと耐えるのよ。


 光源氏の顔がこの世のものとは思えないほど光っている。

 自らの欲望を隠しもせず、初対面である女の寝室に忍びこみ、そのまま一夜を過ごそうとする、傍若無人なケダモノ。


 これは、いっそ、ありがたい。

 この男に手ひどい反撃をしても、無駄に良心の呵責をしなくて済む。


「そう、本当に、ありがたいわ」

「かわいい姫。何がありがたいのだ。兄君よりも、わたしのほうが面白うあろう。そういうことか」


 殴りつける理由が明確で、ありがたいのよ。このまま卑劣な男のままいてほしい。なまじ優しいことなど、中途半端にしないでいいと思う。


「あのね、光の君。中華の国から渡来した珍しい美酒があるの。飲んでもいいかしら。そうしたら……」


 あとの言葉を濁して、酒瓶にあった酒を口に含む。苦い酒が口のなかに広がっていく。

 そのまま、彼の顔を上向きにして、口移しに光源氏に飲ませた。


「姫、かわいらしいことを。これは東宮に怒られそうだが、また一興というもの」

「東宮さまの名前を言わないで」

「おや、怒ったのかい。妬けるな」


 もう一度、酒を口に含み、再び口移しする。光源氏の口の端から、飲みきれない酒が垂れていく。私は、それを袖で拭いた。


「どう、光源氏さま。特別なお酒。この世の天国が見えると聞きます」

「ほお。面白い趣向よ〜」

「お飲みになって」

「ああ〜、では、飲ませてくれるか」


 酒を口に含むと、さらに彼の口に流し込んだ。


 き、気持ち悪い。

 なんて気持ち悪いんだろう。でも、やらなければ。嫌悪感を覚えながら、酒瓶から幻覚を見る薬が入った酒を、さらに流し込んだ。


「姫……、これはぁ、からだが、かるい〜」


 光源氏の目がぼうっとして焦点が結ばなくなっていく。


 乾燥した芥子を煎じた薬には、幻覚を見せる作用がある。

『源氏物語』では、この夜、朧月夜と一夜を共にするために忍び込むと書いてあったから、危険をさけるために用意した酒だ。


「姫、ひ、ひめ、$?¥&#*……」


 なにやら、彼は意味のない言葉を呟き、口もとからよだれを流すと、ついに、いびきをかきはじめた。

 つついてみたが、反応はない。

 と、ふいに言葉を寝言のような夢見心地の声を発する。


「そ、つ、月。あなたは、朧月夜の……、*”#&&*よ。ははは……、ああ、夢見心地じゃ……。ハアハアアァ……」

「光源氏さま、今宵は良い月が出ていますわ」

「……*”#%$〜*」


 幻想のなか、彼は淫靡いんびな夢でも見ているのだろうか。


 震える身体を抑え、彼の手から身体を解放して、静かに離れる。


 夜は深い。

 梨壺に戻った東宮も、今頃は休んでいるだろう。


 彼を思うとせつなかった。自分が汚れたような、おぞましい気分。光源氏と一夜を過ごしたことを知れば、まちがいなく彼の心を傷つけてしまうだろう。


「ごめんなさい」


 乱れた夜着を整え、私は月明かりをたよりに立ち上がった。

 御帳台みちょうだいでは、だらしなく伸びた男が、ふいに笑っては、いびきをかき、奇妙な言葉を発している。


 彼の光が徐々に薄まっていく。

 蝋燭に火をつけた。

 炎に照らし出された光源氏の顔は橙色を帯び、この世のものとは思えないほど美しい。美しく残酷で、自分のことしか考えない男。


 兄であり、次の帝である東宮が愛する女と知って忍んでくるような、そういう男なのだ。

 怒りに震えながら、しばらく、愚かな男をにらみつけていた。


 怒らせてはいけない女を怒らせたと、この傲慢なオレ様男は、いつか知るべきだろう。


(つづく)

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