農村の青年

遠くから微かに聞こえる、踊りを誘うような軽快な笛の音と、打楽器が起こす空気の振動に目を覚ます。


「───う」


 発熱しているかのように意識がぼんやりとして、頭がズキズキと痛む。しっとりとした空気と土の匂いを俺の鼻が受容した。あたりは暗く、太陽は見当たらなかった。


 周囲は木々で囲まれ、幹の凹凸がかろうじて確認できた。向こう側から光源となるオレンジ色の明かりが仄暗い森の中にまで零れてきていたからだ。


「俺は………」


 自分が横たわっていた足元へ目をやると、苔むした地面にくっきりと人の形が残り、苔と焦げ茶色の土の境界が出来ていた。




 ───────ジョボジョボジョボジョボジョボ。


 楽器の音とは全く似ても似つかない下品な音がする方へ振り返る。


 響き渡る笛の音や打楽器の音色からどんな形の楽器かを推測することは門外漢の俺には難しい。けれどもこの下品な音の正体はわかる。男にとってはお馴染みの音だ。


「あ゛~~~っ、酔った」男は綺麗な放物線を描きながら、腑抜けた顔で独りごちた。


 俺の心はこの時、笛の音に誘われて舞う踊り子のように昂った。


「あの」俺は放物線を創っている男に話しかけた。


「ひアッ!?だっ、誰だ!!」男が怯えを含んだ声を上げる。


 無理もない。男性が最も無防備なタイミングだ。


「ここはどこだ?」


「へっ?なんだおめえ、流れ者か?」


 流れ者。これ以上自分自身を的確に表現する言葉があるだろうか。


「そうだ、この森に迷い込んでしまってな」


「そうかそうか、おらに会えたのは幸運だったな。この先にアイラの村がある。そこで休んでいくといい」立ち小便の男は雫を振り落としながら言った。


「この音は?」


「あぁ、これは年に一度の五穀豊穣のお祭りだよ。笛と太鼓の音色で豊穣の神様に作物の豊作を祈願するんだ。一緒に来るけ?」


 俺の返事は決まっている。


「ああ、案内してくれると助かる」


 *

 *

 *

 *

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 *

 *

 *

 *

 *



 仄暗い森から、男に連れられて明かりの方へ向かうにしたがって香ばしい匂いが鼻をつくようになった。


「───おめえ、名前はなんてんだ?」男は俺に訊ねた。


「俺は………ショウだ。あんたは?」


「おらはタリスっちゅーもんだ。おめえ、変わった服来てんな。どっから来た?」


 服。気にもとめなかったが俺は死ぬ間際、オーセンティックバーにいた手前、ドレスコードに則した服装をしていた。仕事帰りだったこともあり、スラックスにワイシャツという出で立ちだった。


 一方タリスは麻製のカットソーの上に泥汚れが目立つオーバーオールを着用していたし、背中には植物の幹で編まれた籠を背負っていた。


「日本……というところからきた」


「ニホン?知らねえ地名だなあ」タリスは首を傾げた。


 これは正直、わかっていた答えだった。俺が便宜上クレイグと名付けた人智の及ばぬであろう存在が俺の脳に書き込んだ情報のひとつが真実だと矢庭に明らかになる。


「うおっ─────」


 森を抜けると、石を積んで造られた階段が傾斜を迂回して緩やかに眼下へ続いている。その先には煌々とオレンジ色の明かりを湛えた集落が見えてきた。周囲は木製と思われる板でびっしりと覆われ、内と外を隔てている。


「あれがおら達の村だよ」タリスの若々しい横顔を薄明かりが照らし出した。


「なあタリス、確かにこの森と村はそう遠くはないように見えるけれど、何故わざわざこんな時に森へ?」


 俺が目を覚ました森は、村の方から見れば少し高台にある。いくら傾斜が緩やかとは言っても、薄暗い視界の中、村からここまで歩いてくるのは少しばかり骨が折れるだろう。


「あああっ!!忘れてた、おら薪を拾いに来たんだよ!グレン様の篝火にくべる薪を拾わねえと」馬鹿でかい声でタリスは言った。


 なんとなくそんな気はしていた。わざわざ立ち小便に来るような距離じゃない。


「手伝おうか?」


 俺の申し出にタリスは必死になって首を縦に振った。


 それから二人揃って踵を返し、森で薪を拾い終えるまで、タリスからこの村の話を少しだけ教えてもらった。


 彼が言った『グレン様』というのは、どうやらこの国に根付く土地神のことで、彼らはその氏子だと言う。こうして一年に一度、グレン様に農作物の豊穣をお願いするための祭事を執り行うらしい。


 この日、村の広場には大きな神棚が設けられ、果実や穀物などの地元で採れた農作物が奉納される。その神棚の正面には大きな篝火が置かれ、その炎を夜が明けるまで絶やさなければグレン様は豊穣の願いを聞き届けてくれるという。世界中どこにでもありそうな民族的風習だと思った。


 彼の話も半分に、俺たちは足元のドングリやら枯葉やらをかき分けて水分が少そうな枝を見繕って籠へ入れていく。二人でやれば早いものだ。さて、村へ戻ろうという話になった頃、いよいよ俺の胸は高鳴った。


 足元に気をつけて、土へ石を埋め込んだだけの石段を二人で下っていく。香ばしい焼き物の香りと、人々の嬉しそうな話し声は次第に大きくなった。


「さ、こっちだよ」


 タリスは村を囲う木製の障壁の一部に垂れ下がっている綱を引いた。すると、滑車が音を立てて格子状の扉が真上に引き上げられた。


 俺は小さな声で「お邪魔します」と呟いてタリスの招きに応じた。

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