過去に何かがあった

 リビングに入ってきた紗夜は千咲の荒っぽい声で発せられた『巨乳』という言葉に反応し、目を見開いた。かと思えばパタッとタオルを床に落とし、勇の耳には聞き馴染みのない悲鳴が上がった。


「やだ!乱暴にしないで!あっちに行って!こっちに来ないで!!」


 膝から床に崩れ落ちた紗夜は左手は頭を守るように覆い、右手は誰かを押しのけるように空中で振り回す。

 最初こそはただのお芝居かと思った勇と千咲だったが、慌てて紗夜の側に寄り、背中をさすりだす匠海の行動を見てお芝居ではないと悟る。


「姉さん、誰もいないから。大丈夫だから。今の声は女の人だったでしょ?姉さんのことを脅かす人なんてもういないから」

「――触らないで!近づかないで!!」


 しかし、匠海の囁きは紗夜に届くこともなく空中をさまよっていた右手は匠海の胸を押し始める。

 誰の目から見てもなにかに怯えている紗夜の口からは「いや!いや!」という悲鳴混じりの言葉が次々に出てき、どうすればいいかわからない勇は立ち尽くしていた。


「星澤さん?ここは安全だから怖がることはないよー。誰かが来ても私と勇がボコボコにしてやるから大丈夫だよー」


 慣れたような優しい口で紗夜に近づいていく千咲だったが、千咲の声が元凶だったためか、匠海を押していた右手までもが頭を覆い、紗夜の叫ぶ声が更に大きくなってしまう。

 これは私がどんなに話しかけても無理か、と悟った千咲は紗夜を撫でようとする手を止めて物音立てず、紗夜から距離を取って勇の後ろに隠れた。


「勇?なんとかできる?」

「い、いや……え、いや……」


 こんな紗夜を目の前に、平然を装うことなどまず無理なことであり、完全に脳がパニック状態に陥ってしまった勇は口を開けたり閉じたり、紗夜を見たり千咲を見たりと体の至るところが勇のパニックを表していた。

 女性とまともに話したこともなく、はたまた変な感情が勇の心を蝕んでいる状況で平然としていろと言われる方が難しい。まず、女性が目の前で悲鳴を上げた時点で多少たりともパニックに陥るのが普通である。

 この姿を前から見ていた匠海がパニックを起こさないのならまだわかる。だが、初めて見るはずの千咲までもがパニックを起こしていない事にも勇は驚いていた。


「勇?大丈夫?」

「あ……いや、なん……いや……」

「勇じゃないと止められないよ?止めてあげないと星澤さん自身も苦しいだろうし、勇もいやでしょ?」

「わか……ってる……けど」

「どうしたら良いかわかんない?なら、そっと後ろに回って抱きしめな?あとは勇しだい」

「わ、かった……」


 おぼつかない口と重い足取りで紗夜の方に向かっていく勇は自信がないのか、なんども千咲の顔を振り返る。

 その度に大丈夫だと頷く千咲に背中を押され続け、ようやく紗夜の後ろに到着した勇はゆっくりと腕を広げ、


「え……っと。……抱きしめるって?」


 無経験が仇となったのか、直前になって馬鹿げたことを言い出す勇にパンッとデコを叩く千咲は大きく抱きつくジェスチャーをした。

 そのジェスチャーを見た勇はなるほど、と分かったように頷くが時既に遅く、勇の気配に気がついた紗夜は頭から今度は右手を離して勇を押し出し始めた。


「やだ!離れて!!近づかないで!やだ!やだ!!」

「――だーいじょうぶだから。イケメンな彼氏が抱きついてあげるんだぞ?」


 優しく口を開き、冗談交じりの言葉を混ぜて紗夜に囁き、そっと千咲のジェスチャー通りに抱きついて紗夜の背中を自分の胸に押し当てる。


「やだ!触らないで!!やだやだ!やだ!」

「イケメンのバックハグは嬉しいだろ。喜べよ」

「やだ……!やだやだ……!」

「頭撫でる券もおまけしてやるよ」


 笑みをほころばせながら胸の中で暴れる紗夜の頭に手を置き、優しく、そして相手を安心させるように濡れた髪だけをそっと撫でる。

 すると嫌なのか嫌ではないのか、全力で頭を振り出す紗夜だが体は離そうとしない。


「なんだ?まだ足りんのか?」

「……触らないで……乱暴に……しないで」

「別に乱暴はしてないだろ。どちらかといえばお前が乱暴にしてる側だろ」


 だんだんと勢いが弱まっていく紗夜に、いつもの調子で煽りの言葉を入れて耳元で囁く勇は抱きしめる腕を更に強くした。それは自分で落ち着いてくれて嬉しかったのか、それとも離れようとしてなくて嬉しかったのか、理由は勇自身にもよく分からなかったが、確かに心にあったのは嬉しさだった。


 終いには首を振るどころか紗夜の口は完全に閉じてしまい、勇に撫でるのを更に求めるように頭を勇の手に押し付ける。


「もう大丈夫か?」

「……うん。ごめんね」

「別に謝ることはないだろ。感情が乱れることぐらい人間誰しもあるって」

「そう言ってくれると、嬉しい」

「おう。何度でも言ってやるよ。いつも我慢してるんだから爆発する時ぐらいあるよな。あんな大声で叫ばれたら誰だってびっくりするよな。人生色々あるんだから地雷ぐらい踏まれる時ぐらい全然あるよな」

「あ、いや……もう大丈夫だから……」


 勇が慰めに慰めまくっていると、紗夜の耳が赤く染まってしまう。そんな紗夜を見た勇はふてぶてしい笑みを浮かべて小さな声で紗夜の耳元で囁く。


「可愛い所あるじゃん」


 きっとその場の雰囲気だったのだろう。抱きつき、頭を撫で、胸にいる彼女は抵抗もなにもない。そんな雰囲気に流された勇の言葉に更に耳が赤くなった紗夜も、負けじと顔を上げて勇の耳元に口元を持っていく。


「そっちだってカッコいい所あるじゃん。惚れるよ?」


 勇同様に耳元で囁くと、勇の頭を撫でる手はピタッと止まり、見間違いではなければ勇の背筋が伸びた気がした。

 そんな勇の反応を見て、なるほどと感づいた紗夜はふてぶてしい笑みを勇に浮かべ返して続けて耳元で囁き出す。


「ふーん。耳、弱いんだ?」

「べ、べつに?」

「うっそだ。耳まで真っ赤だよ」

「そんな、わけ……」

「これ、舐めたらどうなるんだろうね」


 紗夜の言葉と舌なめずりに、明らかに身をよじらせた勇は頭に置いていた手で紗夜の頬を捕まえ、赤くなった顔で紗夜を睨みつける。


「いい加減にしろ。ガチでやりそうなトーンで言うな」

「顔、真っ赤だね」

「うっせーな。風呂入るからそこどけ」

「え〜?本当は退いてほしくないくせに?」

「お前が退きたくないんだろ?そんなに心地よかったのなら後でしてやろっか」


 紗夜を煽るよう更に笑みを浮かべ返す勇はグッと紗夜の顔を自分に近づけた。

 紗夜も紗夜で逃げることなどせず、ふてぶてしい笑みを浮かべたままで答える。


「したいならさせてあげるよ?」

「されたいんだろ?」

「ふーん。頑なだね」

「それはこっちのセリフな」


 煽り合うものの、離れ合おうとしない勇と紗夜に、少し離れたところから見ていた千咲がおずおずと、気まずさは無さそうだったが申し訳無さそうに近づいてく。


「あの、星澤さん」

「ん?どうしたの?」

「ごめんね。いきなり叫んじゃって」

「いやいやいや、千咲さんが謝ることはないよ?私が勝手に崩れちゃっただけだから」

「それでも、ごめんなさい」

「大丈夫だから顔上げて〜」


 先程とは全く違う紗夜の雰囲気に、千咲は忽ち笑顔を取り戻したかと思えば紗夜の胸にめがけて勢いよく飛び込みだす。

 こりたのかこりていないのか、グリグリと胸に顔を押し当てる千咲の表情は歪みに歪みきっていた。


「きもひい。やっぱり星澤さんの胸だよ」

「千咲……こりてないだろ」

「やっぱり人間は強欲じゃないとね〜」

「……ちょっとは人のこと考えろ」

「分かったから早くお風呂入ってきな〜」


 千咲の頭に手を置いた紗夜は苦笑を浮かべ、後ろから抱きつく勇の顔を見上げて小さく頷き、私は大丈夫だと訴えた。勇も苦笑を浮かべながら頷き返すと名残惜しそうにゆっくりその場を立とうとする。

(いや夫婦と子供かよ。いやなんだよこれ。いやほんとなんだよこれ。いや夫婦と子供かよ)

 同じ言葉を二回も心の中で呟く匠海は紗夜に押し出されたことによってカーペットの上で正座をしていた。だが、匠海が思っていることもあながち間違えではなく、本当の夫婦と子供がどんなものなのかは分からないが、匠海から見た勇と紗夜と千咲は理想の家族象としてピッタリとハマっていた。


「匠海くん。お風呂入ろっか」

「あ、はい」


 自分の服が畳まれている中から下着を取り出した匠海は先にリビングを後にした勇を追いかけようと立ち上がろうとするが、服が掴まれたことによって立ち上がることが阻まれてしまう。


「匠海。ごめんね。押しのけたりしちゃって」

「いいよいいよ。お兄さんも言ってたけど、姉さんが謝ることなんて1つもないから」


 笑顔で紗夜に言葉を返した匠海は掴まれていた服から紗夜の手が離れたことを確認すると、改めて立ち上がってリビングを後にした。


「いい弟だねぇ」

「でしょ。私の自慢の弟」

「よかっふぁね〜」


 紗夜の微笑む顔を見た後、再度胸に顔を埋め直した千咲は紗夜の腰に手を回し、絶対に離さないと意思が感じられるほどの強さで抱きつきながら頭をこすりつける。

 そんな千咲の行動に特に口出しをすることもなく、紗夜は苦笑は浮かべていたものの優しく頭を撫でるのだった。

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