chapter 5: FEAR OF THE DARK(1)







「ヨハンネス? どうした?」


 アルノーが不審そうにのぞき込んで、イエルクリングに睨まれた。

 息をのんで尻餅をつく。

 施療院の一同が異変に気付いた。

 しかしイエルクリングの有り様と視線に、距離を詰められない。


「のこぎりで腕の骨が引かれるたびによ。肩の骨が外れそうなぐらい揺れんだ。なあ、おい、俺がこんな目に合ってるのに、なんで手前がそんな楽してんだよ。筋が通らねぇだろ? なぁ普通に考えてそうだろう? なんとか言えやコラ!」


 突然、怒声を上げた。

 肩に回していた左腕を外し、後頭部に拳を叩きこもうとする。

 しかし、少年は男の腕が外れると同時に左足を軸に回転、身を沈めて拳を避けた。

 そして後ろステップ、後ろパスとつなぎ、更に数歩後ろに歩いて距離を取った。

 一瞬、イエルクリングが驚いた表情を見せる。

 いつの間にか、ヨハンネスの右手に一尺ほどの木刀が握られている。

 手の内は、人差し指から小指の付け根を握りの背の部分に当て、親指を立てて握る“サム・グリップ”という握り方。

 薄皮一枚を切られた日の後、ホアキムから伝授されたものだ。

 この手の内だと、親指が刃の平に添えられ、左側に刃、右側に刃の背が向く。

 構えは、腰の前で木刀の切っ先を右側に倒した横構え。

 唸り声を上げて、獣屍の処理人が一人、飛び掛かってきた。

 左腕をまっすぐ伸ばして、少年の襟首をつかもうとする。

 ヨハンネスは右前にパスして身をかわしながら、前腕を内旋させた。

 そうすると木刀の刃を模した部分が、腕を真横から切り落とすように叩く。

 この動きをホアキムは“ベッカー”と呼ぶ。

 そうやって伸ばされた手をいなすと、逆に前腕を外旋させた。

 同時に右手を突き上げるようにすると、刃が水平に回転し、刃の背の部分が獣屍処理人のこめかみを叩いた。

 ベッカーの変形だが、これを特に“エントースハウ”とホアキムは呼んだ。

 メッサーは片刃ではあるが、切っ先近くは背側にも刃が付いている。

 通常の刃の側を“ロングエッジ”、背側を“ショートエッジ”と言う。

 デュサックと違う、硬く重い木材の一撃をこめかみにもらった獣脂処理人はよろめいた。

 少年は今度は前腕を内旋させ、ロングエッジのエントースハウを鼻に叩き込んだ。

 処理人は顔を抑えながらうずくまる。

 残り二人の処理人は、あっけに取られたようにこちらを見ているだけだ。

 ただ、イエルクリングが視界内にいない。

 その事に気付いてぞっとする間もなく、何か衝撃を受けて膝から崩れ落ちた。

 後頭部に何か喰らった、という認識をする事もなく意識が暗転。

 後頭部を殴られた少年が、人形が放り出されるように倒れる。

 その様を見て、施療院の奉公人たちは意識が居ついてしまった。

 それを見てとったイエルクリングは、かさに掛かって少年を蹴りつけようとする。


「何やってんだい! お止め! 人殺し! 人殺し!」


 突然、老フオイヤの怒声が共同浴場に響いた。

 呪いが破れたように、奉公人たちが我に返り、大男につかみかかる。

 舌打ちしたイエルクリングは、包囲の囲みを破り、走り去った。


 それから数日後。

 パンを届けに行った折に、アポロニアは施療院の奉公人に尋ねた。


「今日は、ヨハンネスは起きてるんですか?」


 奉公人は、首を横に振った。


「今日も、頭が痛いと言って寝床から出てこない」


 それを聞いて、アポロニアは肩を落として店に帰った。

 その様子を、二階の窓からヨハンネス少年が見ていた。

 震える指先で、微かに持ち上げていた跳ね上げ木戸を締めた。

 寝床に座り込み頭を抱え込んだ。顔色は青白く、頭には包帯を巻いている。

 それから、寝床から身を起こして、短衣を被った。

 中庭に出ていくと、アルノーと出合でくわした。

 病院舎に入っていたヨハンネスは、久々に彼の顔を見た。


「ヨハンネス、俺、この間の事、謝りたいんだ」


 足がすくんで、すぐに行動を起こせなかったと、アルノーは詫びた。


「気にすんな、仕方ねーよ」


 同じ立場になったら、自分がすぐに動けたかというと自信はない。

 ヨハンネス少年はそう言った。

 その後、舎監のベティーナに呼ばれて、滅多に入る事のない客間に行った。

 そこで少年は、帽子を脱いで待つように指示される。

 少年の他に、ベティーナ、フオイヤ、滅多に見ない修道院長や数人の修道僧が待っている。

 修道僧たちは、黒衣の長衣に、二本の横架がある白抜きの十字架をあしらっている。

 彼らは聖霊のホスピタラーと呼ばれる修道会で、この施療院以外でも色々な都市で病院運営に携わっていた。 


「誰が来んだよ?」


 小声で、ヨハンネス少年が尋ねた。


「警吏のピーター・フォン・ダンツィヒ。あんたは黙って立ってればいい」


 ベティーナが教えてくれる。

 彼女いわく、その警吏はこの街で有数の呉服問屋の次男坊だ。

 市の参事会に選ばれる権利を持っている一族で、いわゆる貴族的な立場にある。

 しかし警吏は、豚飼いや路上掃除人と同じく市参事会に雇われる下男に過ぎない。

 上級市民が就く仕事ではないので、変わり者だとか、ぼんぼんのお遊びだという風評だそうだ。


 しばらく待っていると、くだんの警吏が入室してきた。


 背の低い若者だった。

 獅子のたてがみのような奔放な髪型と、濃いもみあげ。

 それに囲まれたの強そうな目が、その場にいる一同をねめつけた。

 

 黒い上着は身体にぴったりしていて、肩先にひだを作って膨らませている。

 裾は極端に短くて、赤い長靴下を上着から吊っているが、間の下着が見えてしまっている。

 靴は先端が長く伸び、頭巾を細長く伸ばしたような帽子を頭に巻きつけている。

 いずれも上質な生地なのが伺える、当世風の身なりだった。

 膝を曲げて挨拶する一同に目も暮れずに上座に向かい、用意された椅子に、どっかと腰掛けた。


 その背後に、警吏に付き従ってきた従者が二人並んだ。

 揃いの赤い刺し子縫いの綿入り上着、しっかりとした革手袋と革靴。

 真鍮と金滅金きんめっきが施されたメッサ―といったで立ち。

 肩掛け付き頭巾をお洒落に頭に巻きつけ、裾を首に巻いている。

 その為、目元しか見えないが、ずいぶん綺麗な顔立ちに見えた。

 そう思って見れば、分厚い上着に隠された身体の線も女性の物だ。

 男装の麗人に驚いたヨハンネスだが、特に周りが反応していないので、それに習った。


 「手短に話せ」


 警吏のピーターが尊大な態度で言った。

 修道院長が、街路掃除人たちに施療院の者が襲われた旨を訴えた。


「そのイエルクリングという男、以前にもこの施療院に強請り、たかりを働こうとしていた奴だな?」


「はっ。その際にはホアキムが追い払いまして、それで腕を失った様子。それを逆恨みしての事でしょう」


 その場にヨハンネスもいた事を、施療院の皆はホアキムから聞いていないようだった。

 また、ヨハンネスも、あえてそれを語らなかった。


「ホアキムか。あいつは今、どうしてるんだ?」


「武芸の指南を求めて、旅に出てまして……」


「またか……」


 ピーターは、呆れたような顔をした。

 そして、修道院長からあらましを一通り聞き終わると、警吏は一つうなずいた。


「わかった。片腕のイエルクリングは、街路掃除人から解雇する。まあ、とっくに姿をくらましているとは思うが。あと参事会には報告書を上げておく。追って訴追の指示があれば、捕縛する」


 警吏の言葉に、老フオイヤが不満の声を上げた。


「ピーター坊や、うちの子たちに何かあってからじゃ、遅いんだよ」


 その物言いに、ベティーナが恐縮したが、若い警吏は苦笑した。


「婆さん、そうは言うけど、この広い街に警吏が何人いると思ってるんだ? 市民ですらない小間使いの餓鬼が、素手転すてごろちのめされたぐらいじゃ、何ともできないな」


 そう言った警吏に、今度は修道院長が訴えた。


「この者はうちで使っている労働力で、財産の一つです。施療院の運営には参事会も関わってるので、これは参事会の財産が損なわれたと考えるべきでは?」


 少年は、帽子を握りしめ、床を見つめた。


「無い袖は振れん」


 警吏は、そう言って立ち上がった。

 それで、面会は終わりだった。

 警吏一行が立ち去った後、修道院の面々は、今後の対策を話し合った。


「当面は、外出時の人数を倍にしよう」


「通いの奉公人たちは?」


「いっそ、当面、家族ごと避難してもらったら……」


 そんな会話が交わされるのを、少年は床を見つめたまま聞いていた。












※……サムグリップ参考

https://youtu.be/gPBBUq6yVgQ



※……ベッカー参考(動画はロングエッジ・ショートエッジのベッカーを連続してやってます)

https://youtu.be/i6f7b763fqk?t=149



※……エントースハウ参考

https://youtu.be/i6f7b763fqk?t=264

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