通りすぎ捨てて行き、去り、ここにはなにも残らない

私は、私が書き残したものから次第に遠ざかって、忘れないために書いたそれらはその都度、私から切り落とされる。

私の棚卸しをするつもりで書き始めた文章を読み返してみると、完結した物事として、それらは私の部分ではなく、外部の何かとして見つめていることに気づく。私は私を、私の過去を客観視した時から、それを外部として手放してしまうのだろう。書くことに自らを客観視する力があり、また、客観視することによってその出来事や感覚を自分の外部に置いてしまう効果があることをある程度は承知していたはずだったのに、いざ実際にそうなってみると、こんなはずではなかったと思う。私は書くことによって私という存在を確信したかった。私がなにとつながり、なにに意味を感じ、なにを喜びとして、苦しみとして、生きてきたのか、生きていくのか、そうしたものを知るはずだったのに、そうしたつながりがぷつぷつと切れる音を耳の奥で聞く。私はつながっていたはずの地面から浮く。この所在のなさを、根無草である私を、できることなら小説として描きたいと思うけれど、浮いてしまっては書くべきことがなにひとつとして残らない。


私は空っぽ。


覗き見たのはいい。掘り起こしてみたのはいい。小説を書く上での私の一番の問題は、書いたもの、書いているものに留まり続けることができないことだろう。すべてが過ぎ去っていく。だが、書く人は、長い時間そこにとどまり続けなければならない。言葉で世界を作り上げるには、その人のうちにその世界が醸造されていくのに十分な時間を費やさなければ、豊かな世界は想像され得ない。そのためにできる勉強は限りなくあり、そのためにすべき練習もまた限りなくあるので、小説は本来、永遠に完成することはない。だからどこかで立ち去らなければならないのだけれど、私は立ち去るのが早すぎるのだろう、どこにでもとどまることができなかった。

帰属意識の欠如、アイデンティティの揺れ、不安定、欠落した自己。自己はそれ自体が自己言及的な関係であるがために、私は絶対に私を捕まえることができない。この捕まえられなさを、キェルケゴールは絶望、死に至る病(死ぬその瞬間まで続く病)と呼んだ。私たちはその絶望に対して無自覚か、自覚して自己から逃れようとするか、あるいは自己を追い求めようともがくかだが、いずれにしても届かない。これを絶望と呼ぶのは大仰に思えるが、どうやら私はまんまとその陥穽にはまってしまったらしい。私は書くことで私を常に拡大し続け、捕えようとし、損い続けている。


書くにはなにより忍耐力が必要なのだろう。書く、という作業は何度でも修正できるし、終わりなく続けることだってできる。どこまで深く立ち入っていくかの正しい判断が肝要だ。横滑りをどこまで許すか。仕掛けをどれだけ作るか。文章をどこまで推敲するか。テーマをどこまで突き詰めるか。有限な文字数における可能な文字列は有限であるはずなのに、人間の知性の範囲では実質的には無限に感じられる。

言葉というものに対して私たちの人生はあまりに短すぎる。物語の可能性に対して私たちは小さすぎる。だから、私は私が書くべき物語を私の内に探していたはずなのだけれど、私は内側にあるものを全部外へと吐き出し、外部化し、客体化し、置き去りにして違う場所へと次々に移り住んでいる。

ひとところにとどまり過ぎては小説は完成しないけれど、ひとところにとどまらないと物語としての連続性や一貫性が損なわれてしまう。バランス感覚。均整の取れた、抑制のある、丁寧な小説は、時間を掛ければ必ず出来上がるというものではないという不都合。


私は勉強が好きだ。勉強が好きな理由は、すればするほど容易に成果が得られるからだ。それも必ず。やった分だけ反映されて、ほとんど限界値がない。学びたければいくらでも学ぶことが許され、学べば学ぶだけ知も思考も幅がひろがっていく。本当に際限なく。

だが、小説はどうもそうではない。いわゆる努力というものがわかりやすく成果に結びつくようなものではなさそうだということがわかってきた。書いていれば、そのうち書けるようにはなっていく。ある程度はそうだ。「それなりに書ける」人は多いし、ChatGPTやBardはもはや「それなりに書ける」レベルには到達している。それらは文章生成に特化していくことはなさそうなので、現状、創作への助けになりはするものの、脅威ではない。そうした無数にいる、ある、「それなりに書ける」に埋もれてしまう小説や文章は消えてしまう。わかりやすい努力と呼ばれるものが、一瞬にして水泡に帰すかもしれない。良いもの書くには結局、どうしたって考える必要がある。単なる努力、語彙を増やすことや本を多く読むことや表現を覚えることは、確かに文章をうまくもするし豊かにもするだろうけれど、思考がなければきっとそれは、ChatGPTやBardと大差ないものになってしまう。考えなければならない。自分で言葉の中をどこまでも歩いていかなければならない。そうしてたどり着いた先に、運がいいと、「良い小説」と呼べるようななにかが偶発的に生じるのではないか。


わからない。


わからないのは、私が良い小説を書いたことがないからだろう。私にとって好きな人物や、好きなストーリーに出会ったことは何度もある。だが、それと良し悪しは結局のところ関係がない。

納得できるもの、完成だと思えるもの、その小説には意味があるのだと自ら肯定できるようなものが書けたときに、ようやく私になにかが残るのかもしれない。それまではきっと、通りすぎ捨てて行き、去り、ここにはなにも残らない。

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