ぼやけた意識で言葉をうつろう日曜日

服を買いに出たはずだった。GUを見てUNIQLOを見て、グローバルワークを見て無印を見て、買うべき服は一つとして見つけられず、帰るときに手に持っていたのは数十冊の本だった。

有名だが、まだ一度も読んだことのない作家がふたり。瀬尾まいこと田辺聖子。瀬尾まいこは本屋大賞受賞作である『そして、バトンは渡された』。田辺聖子は『ジョゼと虎と魚たち』と『女の日時計』。

本屋大賞受賞作は面白いものが多い印象なので、まあ面白いだろうという安易な発想で手に取った。田辺聖子は名の知れた作家だから、何冊か読んでおいても悪いことはないだろうと思った。

本を買うにはこんなにも思慮に欠けるのに、服を買うには慎重になるのが、どうしてなのか自分でも理解し難い。

ひとつ考えてみたのが、本は必ず読むし、読めば多少なりとも自らの糧になるけど、服は私の表面を通り過ぎるだけだという感覚があり、そのせいかもしれない。どのような服を着るかが、その人のアイデンティティの一部になる。そうした考えはほとんど常識になりつつある今の時代に、私は追いついていない。いや、二極化しているうちの一つの極に見事におさまっているのかもしれない。私のように見た目に要する時間や費用を最小にしようと考える人も増えてきているように思う。服にまるで興味がないかといえばそんなことはないのだけれど、そこに費やす時間や労力を他のことに割きたいと考えることが増え、そうなると、必然的に簡易な服装を好むようになる(そして冒頭に挙げたような店舗になる)。

物書きは良いものを食べ、良いものを着て、良い家で暮らして、日々そうした素晴らしいものに触れるからこそ、素晴らしい作品が書けるのだ。

などと、そんな話をどこかで聞いたことがあるような気がする。もしそれにいくらかでも真実があるのだとしたら、私にはその「素晴らしい作品」とやらは一生をかけても書けそうにない。でも、それでも構わないのかもしれない。少なくとも、私が書きたいのはきっと、良いものを食べ、着て、暮らすことで書けるようになる類の高尚なものではないから。では、平凡でありきたりでどこにでも溢れているような、なんでもない物語を、小説を、書きたいのだろうか。よくわからない。

ブックオフで百円の本をあさる。あさった本には「良いもの」と呼ばれる作品がいくらでもある。三島由紀夫の『潮騒』も買った。高校生ぐらいの頃に読んでよくわからなかった覚えがあるが、一般的には「良いもの」とされる類の作品だろうと思う。それがたったの百円(税込百十円)だった。良いもの、とはもちろん金額のことを意味しないのだろう。それを服や食事、その他の生活に直接かかわるようなものに限定すると、不思議と値が張るようになってしまう。どうせ同じ値段なら本がいい。だから本を買うのかもしれない。


ふわふわ、ふらふら。わざわざ電車に乗って出かけたのに本ばかり買って。

今年はたくさん読むことを目標にしたから、買ってもいいという自分に対する言い訳ができてしまっている。でも、部屋の広さは有限だから。図書館に通うのが一番いいのに、図書館が家からすぐの場所にあるのに。


頭が動かない。言葉が出てこない。書くべきことが見つからない。

本を買って心が満たされたことで、言葉が入るべき、あるいは生まれるべき私の中のなにかを占めてしまったのだろうか。だとしたら、本など買うべきではない。

うろうろしている。ゆらゆらしている。定まらない。

疲労によって脳がまるで動いていないのがよくわかる。こうして週末に平日のつけを払うことになるのであれば、むしろバランスを保って過ごした方がずっと効率が良いのではないか。

書けない。自分でもなにを書いているのかわからない。考えるべきことがまるでまとまらないまま、ただ手を動かし続けている。こうして私はいつも通り、AIのように自動化していくのだろうと思う。この言葉は私が書いているのだろうかと、ふと不安になる。書いている。確かに書いているのだけれど、私の意識よりも先に言葉が画面に現れているような気がしてくる。どっちが先だっけ?と、わからなくなる。

私が書きたいがなんだったのかを私自身に問いかけるために書いていたはずのこの文章も、私がなにを書きたいのかを明らかにすることもなく、ただ、駄文をつらつらと書き連ねているだけだ。


私は私のことをもっとよく知らなければならない。私はなにが好きで、どのようなものごとに心が躍り、なにを美しいと思い、なにに心情を重ねるのか。

ヒントは結局、読むことにのなかにあるのだと思う。ただ、読む以外のことが私の心に刺激を与えることも数多あるのを知っている。きっと、一番いけないのは、立ち止まって考えてみる、ということ。多くの人にとって有用であるかもしれないけれど、私にとってのその手段は、私を呼吸困難にしてしまう。回遊魚だろうか。泳いでエラに海水を取り入れて呼吸する方法をラム換水(Ram ventilation)というそうだ。どうでもいい。そうしたどうでもいい知識が、ほんの少し私の心を動かすのがわかる。どうでもいいことの積み重ね、どうでもいい経験の積み重ね、それをどう編むか、どう繋げるか、どう絡めるか、私がなにを書くか。わからないまなただ今日も駄文。

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