夏とやつと終わらない悪夢

書いてはみたが今ひとつだった。書いていて、私自身が「信頼できない語り手」になっているように感じた。私の都合で、書くべき事実を漏らして書いている。

私が書いたものを読んでみて私自身に響かないのは、私が私を欺こうとしているからだ。読者に見透かされる。

まだ書くには早かったのだと思う。十年以上経った今となっても、自分の中で消化しきれていないからこそ、そこを隠そうと、中途半端な言い訳のような言葉がつらつらと並ぶ。

が、恥を忍んでここに残す。その程度のみっともなさならば、受け入れるくらいの準備は既にできているから。



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夏が好きだ。照りつける日差しも、焼けるアスファルトの熱も西瓜も、喧しい蝉時雨も日に焼けた子供達も、風鈴の音もポカリもアクエリアスもなにもかも、私は夏の一部としてそれらがとても好きだ。けれど、けれど。どうしても夏の我慢ならない点が一つだけある。


——そう、もちろんだ。


私にとって絶対的に忘れられない不快な感覚として、死の次に恐怖を感じる対象として、夏には現れる。死の次に、というのは正確ではないかもしれない。何度も殺してきた。もっとも意識的に、積極的に殺してきた生き物として、は黒い夜に包まれながらも、油にまみれた嫌らしい艶をいきいきと放つ。粘着質な死の輝き、惰性で続く生の輝き、その二つが同居している。は死と並列に存在している過去の数々の記憶と結びつきながら、心の中で時間をかけてそのイメージを醸造されていった。だからは死と濃密に絡まり合って解き難い存在として、確固たる地位を築いている。これ以上の嫌悪と恐怖を同時に抱く対象はの他にない(死をもってしてもまだ足りない、というのも、死は最も強い恐怖の対象ではあるものの、必ずしもそれに対して嫌悪はないからだ。死はときに、とても優しい)。

夜とのつながりも強い。汚物や腐敗などとも固く結ばれている。悪、と人が呼ぶべき負の感情を生みうるものとの関連が強い。が白昼堂々と路上などであらわれたところで、夜の部屋に光るあのグロテスクな背に比すべくもない。暗闇に不意に現れるというのは、恐怖を助長する大きな一因だ。音もなく動き、にわかにつるりと街灯を反射するなめらかなはね。夜を練った飴玉かのようなねっとりとした色合いなのに、動きは不思議と素早く、漠然とした気配だけが感じられる。もしかすると、は無から生まれるのかもしれない、あるいは、死から生まれるのかもしれない。


なぜ私がこんなことを書くかというと、は一度、私を愚行から救ってくれた。感謝などしてはいないが、愚行の際の心理状態ととが強く結びついて、異常なまでの嫌悪が心に深く刻み込まれている。私にとって、は私の生と(死と)切っても切れない象徴的な存在であり、同時に、根深いトラウマでもあるのだ。


正確には覚えていないが、夏の暮れだったと思う。

その年の初夏に恋人と別れた。付き合っているときから、私の心理的状態は普通とは言えなかった。自傷行為を繰り返すようになっていたし、酒を飲まずに眠ることができなくなっていた。仕事をあたらしく始めては辞めを繰り返してどれも長続きしないし、借金をすることはなかったものの、生活するにも食費を切り詰め、外食することも少なかった。もちろん、必然的にデートの回数は減った。私には時間がありあまるほどにあり、ひたすら哲学書や小説の写経していた。書き写すことで、言葉が自分のものになるような気がした。著者の精神性が内部で再現されることを期待した。何冊も、何冊も、手が動く限り、ただ、書き写した。そんな矢先に、別れようと告げられたのだ。「あなたとの未来が想像できない」と。まあ、それはそうだろうと思う。


普通や平凡、通常、なんと言えばいいだろうか、私がそうした常識的な範囲にとどまっていられたのは、恋人の存在があったからだろう。社会的な孤立一歩手前でなんとか新しい仕事を探そうと思えたのも、恋人がいたからだった。


失ったしばらくして、とん、と底を打つ音を聞いた。


なるほど、軽やかな音が鳴る。地の底はなにでできているのだろう。土ではないなにか。金属に近いなにか。硬質かつ重量の感じられないなにかとなにかがぶつかる、空っぽな音が、まったき闇の底で、静寂の底で、響いた。

そこで、独り言だけは絶え間なく生まれ続けた。なぜ、どうして、どうやったら、どうすれば。いつ、なにが、だれが。なぜ、なぜ、なぜ、なぜ。言葉は滔々と湧き続けるけれど、闇は意味を吸いつって、そこから光が生まれることなど永遠にないらしいと察した。熱と圧。新しくエネルギーを生み出すには、外部からエネルギーを加えなければならない。外部を失った瞬間に光が見えなくなることは当然の帰結だ。


私は準備を始めた。

彼女と関係のあるものはまっさきに捨てた。部屋から彼女の痕跡をなくそうと思った。そうしてものを捨てているうちに、ほとんどなにも残らなかった。服は一枚あれば十分だし、本もいらない。すぐに大量の資源ごみに変わった。

最後に大きな家具が残った。粗大ゴミで捨てなければならない。手間がかかる。ゴミのシールを買って、マンションの入り口まで持って行く。それがただ面倒だった。空っぽになった棚や衣装ケースが愛おしく感じられた。似ている。中身のない容れ物。ポンと叩いた。軽やかな音が鳴った。

場所は決めていた。川辺のひまわり畑だ。毎年夏になると背の高いひまわりが咲き、迷路のようになった小道を人々が埋める。

ある夏、恋人と一緒に行ったことがあった。その時私は、不意に知らない子供に手を握られた。どうやら父か母と間違えたらしい。全盛期の週末には大勢の人々がひしめきあうほどの混乱ぶりで、迷子なんてざらだった。子供は私を仰ぎ見ると、さっと手をはなして逃げていった。驚いたと思う。さっきまで一緒にいたはずの父だか母だかが、急にいなくなって、かわりに見たこともない男が自分の手を握っている(握ってきたのは子供の方だが)。不安の大きさは計り知れない。


決行の日が訪れた。

夜、深夜一時か二時頃だったと記憶している。原付で家を出て、川へ向かった。酒を飲んでいた。途中で捕まってしまってはあまりに滑稽だと思い、運転は非常に慎重だった。夏の一番暑い時期を過ぎていたためか、夜はさほど暑くなかった。風を切って走り、酔いもいくらか覚めた。そんな時のために酒をリュックに入れていた。それと包丁。ほとんど空っぽに近いリュックにその二つだけを入れて背負い、十五分ほど原付を走らせた。酒のせいか、悲劇の主人公を気取った自己陶酔なのか、死に向かう恐怖心か、わからない。過去に感じたことのない高揚感があった。思考が風と同じ速度で走っていた。写経した言葉が急速に私のものとなって溢れ出すような、言葉が、言葉が、次々と湧いてきた。原付に乗っていては書き記す暇などない。絶えずぶつぶつとなにかを呟いていた、叫んでいた。律儀に原付を河原の駐車場に停め、暗い場所を探した。月の明るい夜だった。

ひまわりの季節はすっかり終わっていた。放射状に並ぶ種と、日を追うのを諦めた萼が、地面をじっと見つめるようにぐったり項垂れていた。雁首揃え、夏の終わりを拒むように、空から顔を背けていた。似ている、と私は思った。

川面へと直接通じる階段があり、その途中に私は腰掛けた。暗くてほとんどなにも見えない。リュックをおろし、中から酒を取り出した。普段は酎ハイばかりだったのに、なぜか最期に相応しいと思い、カップ酒を選んだ。

私にとってカップ酒は退廃の、敗残者の象徴だった。見知らぬ老人が明るいうちからカップ酒を飲む光景を、子供の頃に何度も見たことがある。思い返せばホームレスだったのだろうが、大して気にしたこともなかった。そうした印象の積み重ねが、なんとなくそれを私に選ばせた。根拠は乏しい。感覚的なものか、論理的なものかなども、もはやどうでも良かった。それでも、正しいことを一つくらいしたかったのだ。もちろんそれは、倫理や道徳とは無関係の、自分の心にとって、ただ正しいことを、だ。

カップ酒のアルミの蓋をぺろんと剥がし、ふたを舐めた。悪癖だ。アイスやヨーグルトでも、ついついやってしまう。醜悪さ、行儀の悪さ、育ちの悪さ、汚らしさ、そうしたものこそがこの状況を擁護している。均衡を保つ手段だ。法を破り、罪を犯し、過ちを繰り返し、帰結として死があるならば、そうした醜い姿こそが正しい。

ずずっとわざとらしく音を立てて酒を啜った。甘かった。あらかじめ酔っていると、日本酒はただ甘くて、米のほのかな香りが立ち、アルコールを感じなかった。

私はどこかで、世にいう「末期の眼」を期待していた。神経が鋭敏に研ぎ澄まされて、普段見えないような些細な変化や光や色が目に映るようになるんじゃないかと思っていた。だが、研ぎ澄まされた感覚なんて与えられない。馬鹿らしい。甘い酒を汚らしく、じゅる、じゅる、と啜るだけの、くだらない時間だった。

カップを一つ空にし、次のカップの蓋を剥がした。冴えすぎていた頭に徐々に雲がかかるように心地よくなっていく。このまま死ねれば一番だ。ふわふわ浮いていって地から足が離れて、いつのまにか空から夜の街を見下ろしているような。なんて幻想も自分にゆるせるくらいに酔っていた。蓋をそのまま捨てた。半分ほど一気に飲み干した。喉の焼けるような感覚も欠けたまま、酒の甘味だけが鼻の奥で広がった。飲みきっていなかったが、リュックから包丁を取り出して、手首にあてて、引いてみる。痛みが走るけれど、実際はよくわからない。もう一度同じ場所にあてて、弾いてみる。さっきより鋭い痛みが走り、手首を血が伝うのを感じる。川の水音が聞こえる。風がひまわりを揺らす音だろうか、葉擦れのような音も聞こえる。ふと、視界の端にパトカーの赤いランプがちらついた。川沿いの道を近づいてきて、ちょうど私のいる橋の下で止まった。私は包丁を持っている。死ぬと決めたはずなのに、警察に見られることを恐れる私は、私自身が滑稽に思えてくる。パトカーは暗い橋の下に止めたが、私が階段の下にいることに気が付かなかった。そのまま通り過ぎていった。

暗闇に息を潜めていた。静かに、気づかれないように。あるいは、それが誰かに見つけてもらう最後のチャンスだったのかもしれない。

パトカーを視界の端で見送った。鼓動が高鳴っていた。なにに興奮しているのだろう。緊張しているのだろう。私は少し冷静になろうと思い、飲み残したカップに手を伸ばした。瞬間、暗闇に黒い影が走るのが見えた。十分に目が慣れていた。はぬるぬるとした光を放ちつつも、その場で動きを止めた。先に動いたのは自分だった。カップをそのまま捨て置き、橋の下から逃れ出た。

単なる害虫の不快感程度で気が削がれるものか、と思うかもしれない。実際はその場を去り、原付を停めた駐車場に向かった。深夜なのに、河原の入り口にある駐車場には数台の車が停められていた。そのうちの一台が小刻みに揺れていた。なにが行われているのかさとった刹那、この刹那にこそ、私の意志が完全に削がれ、計画が頓挫したのだ。


がいなければ、パトカーが偶然通り掛からなければ、車中で行為している誰かがいなければ。きっと違うのだろう、私はそれでもなにもせずに家に帰っていたのだろうと思う。

底に足がついてみれば単純なもので、人はその落ちる勢いに潰れてしまうか、底から高い空を見上げて星があるのに気づくか、それだけだ。

純粋な暗闇の中では、八キロ先の蝋燭の火ですら人間の網膜は捉えることができる。眉唾だが、そういう話を聞いたことがある。

なにが希望になるかなど知らない。なにが生きる意味かなど知らない。死にたいという人を止めたいとも思わない。死のうと思って死ねるのであれば、死ぬのもそう悪くはないと思う。ただ、終わるのが遅いか早いかの違いしかそこにはないから。どうせ、それは大した問題ではないから。



でも、もしこれを読む人がいたならば、私から一つの忠告をしておきたい。死のうと思ったからといって身辺整理なんてことはしない方がいい。

まったく無駄だ。

どうせ死ぬならば、なにが残されるかなど一切は無関係なのだから。そして、いざ惨めにも生き延びてしまった後にとても困るから。服もお金もなにもなく、再スタートを切るのは、とても大変。

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