パパ活

神楽耶 夏輝

第1話 女子高生はお金がかかる

 ペチペチ、ペチペチペチ……。


 肉と肉がぶつかり合う音。

 ハンバーグをてのひら大に丸めて、左右の手を行ったり来たりさえてペチペチとキャッチボールする時みたいな音。


 築何十年かもわからない、今にも崩れそうなスナックの上に並ぶおんぼろアパート。薄い扉の向こうから聞こえる、淫らに肉と肉がぶつかり合う音に、ゆきのは握ったドアノブを回さず立ち止まった。


 学校から帰って来て、自宅のドアの向こうから、いきなりこんな音が聞こえて来る家の高校2年生が、他にいるだろうか? と、ゆきのは思う。


 とは言え、今に始まった事ではない。その音の正体を知ったのはゆきのがまだ小学3年生の頃だ。

 学校ではおませな男の子が、卑猥な言葉を連呼してはバカみたいに騒いでいた。

 なるほど。これがアレか。

 と冷静に目の端に収めたわけではない。

 それなりに衝撃的であり、取り乱したわけなのだが、そんなゆきのに向かって母はこう言った。大人になれば誰もがする事だと。そして、紙巻たばこに火を点けて、濃い煙を吐いたのだ。

 母よりも随分若そうな、たかしと言う名前の男の胸には青い蛇みたいな龍がいた。ゆきのを舐めまわすように見つめる目が気持ち悪かった。


 児童扶養手当も子供手当も、まとまったお金は全て母がたかしに貢いでいる。

 セックスの代償のように、母はたかしにお金を渡す。

 それもこれも、あの人のせいよ! というのが母の口癖である。

 あの人というのは、ゆきのの父親の事だ。

 父はゆきのが生まれて間もなく、事故で亡くなった。不慮の事故であり、好きで死んだわけではない。

 ゆきのは思う。お母さんが死ねばよかったのに、と。


 記憶にもない父親という存在は、ゆきのにとって、写真の中だけの人だ。幸せそうに生まれたばかりのゆきのを抱っこしている父の隣で、母は幸せそうに笑っていた。

 父親とは、遠く手の届かないあこがれ。

 お父さんが生きていたら、きっと幸せだったはずだ。少なくとも母がこれほどまで家庭を放棄する事はなかったかも知れない。

 万が一、そんな事になっていたとしても、父がいれば、ゆきのには少なからず安心して暮らせる環境があったはずだ。

 少なからず、愛されていたはずだ。


 スクールバッグを肩に掛け直して、踵を返す。カーデガンのポケットに両手を突っ込んで、アパートの隣にある小さなさびれた公園に向かった。

 幼い頃からの、ゆきのの避難場所は、もう誰も遊ばない。冬枯れに鎮座する、色のはげ落ちたベンチには、枯れ葉が積もっている。

 遊具は殆どが撤去され、かろうじて残されているぶらんこに腰かけた。

 制服のポケットからスマホを取り出し、SNSにアクセスする。


『健全・1h―0.5~

 S区、AB地区辺りまで行けます。

 未成年なので、茶飯のみでお願いします』


 添付した画像は、我ながらかわいく撮れている。

 高校に入学と同時に始めたパパ活。健全というのはエッチな行為なしという意味だ。1h、つまり1時間、お茶やご飯を共にするだけで5000円もらえる、おいしい仕事である。


 公立高校とはいえ、女子高生は何かとお金がかかる。友達とのランチにカラオケ。服にアクセサリー。スマホ代。それらを母親から出してもらった事は一度もない。全てパパ活で知り合った神パパからのお小遣いで賄っている。

 そんな事のために? と言う大人には中指を立ててやりたい。ファッ〇ユーだ!

 逆に、あんな母親のために女子高生としての青春を諦めてたまるか。


 しかし――。

 アクセスしたサイトは閑古鳥。

 神パパから連絡が入らなくなり一ヶ月が経過していた。


 年内に修学旅行費用10万円を、学校に納めなければならないというのに。


 関東圏であるゆきのの高校の修学旅行は、沖縄へ3泊4日の旅だ。行きたい! 絶対に行きたい!! あのコバルトブルーの澄んだ海をこの目で見るのだ。やっとできた友達とキャッキャウフフと砂浜ではしゃぐのだ!


 ピロ~ンと通知音が鳴った。スクリーンに目を落とすとベルのマークに赤い印が付いた。


 ――来た!

 DMをタップしてメッセージを確認する。


『新規ですけどいいですか?』


 そのメッセージには、顔写真が添付されている。

 初めて見るおじさん達は皆同じ顔に見える。そこら辺を歩いている中年男となんら変わらない。

 生理的には許容範囲。

 背に腹は代えられない。ゆきのは返信をタップしてメッセージを打ち込んだ。


『いいですよ』


『ちなみに、1h3万払うけどプチもダメ?』


 プチというのは、本番なしの性行為の事だ。母の事を思い出し、吐き気をもよおす。


『ダメです』


『わかりました。S区まで来れますか? ご飯でも行きましょう』


『行けます。私は高校の制服です。紺のブレザーにエンジのスカート。グレーのカーデガン。名前を教えてください。髪の毛はストレートで肩ぐらい。少しだけ茶色いです』


『島田です。こちらは紺のズボンにグレーのジャンパー。仕事の帰りなので、そんな感じの服装です。茶色のセカンドバッグ持ってます』


『わかりました。では後ほど』


 スマホをバッグに仕舞って、立ち上がる。

 パンパンとお尻を払って、指定された場所へと向かった。


 指定されたカフェは商店街のアーチをくぐってすぐの場所にあった。

 古びた八百屋の2階。

 上へあがるために階段を探していると、背後から声をかけられた。


「ゆきのちゃん?」

 語尾にへんな抑揚のかかった、胡散臭そうな声。

 振り返ると、明らかに許容範囲を超えた中年男が、ゆきのを舐めまわすように見ていた。

「島田さん? ですか?」

「そうそう。ごめんね、写真とイメージちょっと違った?」


「違い過ぎです!!」

 ハゲてるなんて聞いてない。

 ずさっと一歩後ずさり。


「送った写真、10年前の写真なんだよ。ごめんね。あれしかなくて」

 時の流れは残酷だ。


「まぁ、ご飯するだけなんでいいですけど」

 眉根を寄せながらそういうと、島田はゆきのの腕を引いてずんずん繁華街の奥へと進んで行く。


「ちょ、ちょっと! あそこの二階ですよね? あそこに喫茶店があるんですよね? どこに行くんですか?」


「あの喫茶店、いっぱいだったんだよ。席が空いてなかった。だから場所を変えよう」

 微妙に上がっている息が、ハァハァしていて気持ち悪い。


 商店街を抜けて、細い裏通りへの路地に入ると、急に人通りは少なくなっていかがわしい建物が増えて行く。


 風俗店に大人のおもちゃ屋さん。さびれたラブホテル。


 島田は、空室ありとかかれたラブホテルの前で立ち止まった。


「5万払うよ。だから、おじさんと遊ぼう。優しくするから」


 キモイ! 誰か助けて。


「やめてください。大きな声出しますよ」

 必死で手を振りはらおうと足掻いても、大人の男の力には敵わない。

 ずるずると、閉ざされた壁の向こうと引きずられる。

「いや、放して! 放して!! 警察呼びますよ!」


「悪い事しようとしてたのはお互い様だろう。パパ活なんてやってんの警察にバレたら、学校にも家にも知られちゃうよ。ほら! 大人しく言う事聞け」


「イヤ!」


 その時だった。


 チリリンと自転車のベルの音がして、ガコっという衝撃音が聞こえた。島田が「うげっ」と声を上げ、こちらにつんのめった。

「きゃっ!」

 その隙に、するりと腕を抜き、両手で体をかばうようにしながら、島田から距離を取った。


「すいませーん」

 ゆきのの隣に、しゅっと現れた自転車に乗った男の子。

 この子の自転車が島田にぶつかった? 


 同じ高校の制服っぽいが、同級生だろうか。

 いや、エンブレムの色が緑だ。

 同級生ならエンジ。

 緑のエンブレムは1年生。


「てめぇ、この野郎」

 島田はその一年に向かってずんずん進んで来る。


「逃げろ!」

 彼は、ゆきのに向かって怖い顔でそう言った。

「へ?」

「早く! 逃げろ!!」


 その声に弾かれたように、ゆきのは進行方向に闇雲に走る!


「まて、このやろう」


 島田の声が迫ってくる。

 振り向いたら捕まりそうで、前だけを見て全速力で走った。

 夕時の風は、肺までも凍らせそうなほど冷たい。

 喉がひりひりと悲鳴をあげる。


「まてーー!」

 どれくらいの距離があるのかはわからないが、諦めの悪いおじさんの魔の手はすぐ背後に迫っているような気がしてならない。


 ――怖い。


 そう思った矢先だった。


 キュキュっとゆきのを追い越して自転車が止まった。


「あ、さっきの……」


 彼は鼻の頭を赤くして、こう言った。


「乗れ! 早く!!」

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