29.ルール違反

 七階でサヨナラをしたはずの人物が、一階に着いたらなぜかそこに立っている。

 人生の七不思議の一つに数えても問題ないくらいの、怪奇現象だ。


「は?! なに、テレポート?!」

「おま、いきなり、逃げ出すなよ……っ」


 テッペイは肩でゼーハーと息をしている。七階から階段で降りてきたのだろうか。エレベーターよりも早く着くとは恐ろしい男だ。


「に、逃げ出してないしっ!」

「だってお前、勘違いしてねー?!」


 テッペイはバンッとエレベーターの扉が閉まらないように手を置き、ルリカの前に立ち塞がる。


「勘違い?」

「俺と詩織が、エッチしたと思ってんだろ!」

「まぁ、しててもおかしくない状況だよね。だってテッペイだし」

「してねーっつの! ヤらせてくれるわけねーし!」


 それは、詩織にその気があれば、していたということではないだろうか。

 ルリカは息を吐きながらテッペイの横をすり抜けて、エレベーターから降りた。


「おい、どこ行くんだよ。帰るぞ」

「詩織さんは?」

「慌ててたから置いてきた。家にいるだろ」

「どんな用事があったかしらないけど、理由があったからうちにいるんでしょ。早く戻ってあげてよ」

「だってお前、怒ってんじゃん」

「怒ってるよ!! だってルールじゃ女を連れ込まないって、約束してるじゃない!!」


 伸ばされた手をバシッと弾いて、ルリカは声を上げた。

 しかしテッペイは、ルールを破った罪悪感など一切見せず、面倒臭そうに口を尖らせている。


「なんもヤってねーんだし、そんなに細かく言わなくても別にいいだろー」


 テッペイに反省の色は、まったく見られない。苛立ちが、沸き立つ鍋の泡のようにフツフツと浮き上がってくる。


「でも、ルール違反はルール違反だし。テッペイにはもう、ネタ提供の一割は渡さないから」

「えーー!! 困るって! 詩織が来月分のお金は振り込めそうにないって来てたんだよ!」

「だから?」

「お前の金がなかったらどーすんだ!」

「バイト増やせば?」


 冷たく言い放つと、テッペイはムッとしてイケメンを歪ませている。


「んだよ、金持ってるくせによー」

「私のお金は私のお金でしょ。巻き込まないでよ」


 少しきつく言い過ぎただろうかと、少し胸を痛める。

 テッペイは善意で詩織を助けようとしているのに、大人気なかったかもしれない、と。


「んーじゃあ、ルリカは出てくのかよ」

「……そこまでは、まだ考えてない」

「別に、出てってもいーけど」


 その言葉に、ルリカの目の前はドクンと揺れた。

 ルリカが出て行った後、テッペイはどうするつもりなのだろうか。詩織と一緒に暮らせば、二人とも家賃に関してはどうにかなるかもしれない。

 先ほどの、二人が並んでいる姿はとてもお似合いだった。イケメンのテッペイと、美人の詩織。

 自分など、いない方が丸く収まるのかもしれない。


「わかった、じゃあ出て……」

「出てったらネタなくなるだろ? 収入は大丈夫なのかよ」


 パッと見上げると、テッペイは意地悪そうに笑っている。

 しばらくの間はいいだろう。ネタもこのやりとりを描けばいい。

 けれど、本当に接点がなくなってしまった後は?

 別の話を連載をして、同じくらい稼げるだけの自信はない。また田舎に引きこもる生活が始まるかもしれない。

 ルリカが俯いて歯を食いしばっていると、テッペイの軽い声が頭の上から降ってきた。


「だからさー、このまま俺と暮らせばいいじゃん。でもそんときには一割くれよ。エッチもしようぜ」


 その言葉を聞いた時、ルリカの中でなにかの糸が切れた気がした。

 テッペイはルリカのことを、金づるとしか思っていない。そして、性欲発散の道具程度にしか思っていない、その発言に。

 この男は詩織のためになにかをしても、ルリカはのためになにかをしてくれる気はないのだろう。

 悔しくて、悲しくて、それに今気がついた自分がとてもマヌケで。

 込み上げてくる涙をグッと飲み込む。


「なんだよもー、機嫌直せよなー」


 どうすればいいのだろうか。このままこの男とずっと一緒に暮して、幸せになれる気がちっともしない。

 もしかしたら今回のことは、別々に暮らすいい機会なのかもしれないとさえ思った。

 しかし、せっかく軌道に乗ってきた連載を手放さなければいけなくなるというのは、正直とてもつらい。今連載している『ネットでダメ男はリアルもクズ男でした』は、テッペイがいないと続けられないのだから。


「……ちょっと、考えさせて。今日は、どっかで泊まってくるから……」

「ふーん、わかった。まー帰ってきたくなったら意地張らずに戻ってこいよー。ずっとヤってねーから、溜まってんだよ」


 テッペイはそれだけ言って、エレベーターに乗り込んでしまった。

 それを見届けたルリカはもう、乾いた笑いを漏らすしかなかった。

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