訪問者 1

 それから数日、鏡子は部屋から一歩も出なかった。食欲は落ち、まともに食事をしていなかった。


「鏡子様、いらっしゃいますか」


 司録が扉越しに声をかける。鏡子は返事を返すことなく、布団に潜ったまま出てこない。そんな鏡子にうんざりしたのか、司録のため息が扉の奥から聞こえてきた。


「鏡子様、お食事をこちらに置かせていただきます。きちんと召し上がって下さいね」


 コトン、と司録がお盆を床に置いた音がした。司録の足音が遠ざかっていく。


「……」


 鏡子は布団から一度顔を出すもののやる気が出ず、再び顔まで布団に潜る。


 あの僧侶はとてもいい人だった。人格者で子供からも慕われていて。それなのに有罪にしてしまった……。

 現代の法律に従って裁いたつもりだ。けれど、その現代の法律に従うことに決めて有罪判決をしたのは――私だ。


 元の世界に帰りたい。――けれど元の世界に帰ったところで私、何をしたかったんだろう。

 私、何で裁判官を目指していたんだっけ。


 鏡子は布団の中でグッと奥歯を噛みしめた。


 その瞬間、扉の奥の方から喧騒が聞こえてきた。しかも閻魔大王が声を荒げている。


「だから……と言っているだろう!!!」


 思わず鏡子はビクッと肩を震わせて上半身を起こす。


「何が……だ!!! あいつは……にしておいて!!!」

「だから、今の妻は……だ!!!」


 妻って。私のこと、だよね。


 鏡子はジッと扉を凝視する。


 しばらくすると喧騒の中にドタドタと足音が聞こえてくる。しかもその足音は段々と鏡子のいる部屋に近づいてきていた。


 な、何!?


 鏡子はグッと布団を握りしめた。


 バタン! 大きな音と共に大柄な男性が二人入ってきた。

 一人は閻魔大王。そしてもう一人は泰山王だった。


「!」


 泰山王という意外な人物に鏡子は布団を握りしめたまま後ずさる。だが泰山王は鏡子が遠ざかっても一歩ずつ距離を縮めてきた。

 やがて壁に鏡子の背が当たる。


 泰山王は鏡子に手を伸ばした。鏡子の着物の襟をガッと乱暴に掴む。


「お前っ! よくも!」

「……」


 泰山王は鋭く鏡子を睨む。


「天野 正を有罪にしてくれたな」

「……」


 鏡子は力なく項垂れていた。反抗する気が起きない。


 泰山王の怒りはもっともだ。私だって自分自身の決断に苛立っている。でも。


「どうしろっていうんですか」

「……何?」

「私だって有罪にしたくなかったんです。でも、仕方ないじゃないですか!」


 その瞬間、泰山王が短剣を取り出した。


「泰山王!!!」


 閻魔大王の鋭い声がとぶ。


 鏡子は軽く目を瞑った。

 もう、いい。自分がどうなろうとどうでもよかった。


 目を瞑ってから一秒、グサッと嫌な音が耳に響く。だが鏡子に痛みはなく、衝撃すらも襲ってこない。

 鏡子はゆっくりと目を開ける。


 紅蓮色の着物を着た大きな背中が見える。閻魔大王だ。

 閻魔大王は鏡子に背を向けて立っている。そして閻魔大王の手には泰山王の短剣の刃が握られていた。閻魔大王の手から微かに血が流れているのが見えた。


「!」


 それを見て鏡子の瞳にやっと光が灯る。


「閻魔大王っ」

「怪我はないか」

「は、はい。でも、閻魔大王が……」

「余は大丈夫だ」


 閻魔大王は鏡子に傷がないのを確認すると、泰山王と向き合う。


「泰山王、今日のところは帰ってくれ」

「……」


 泰山王は無言で閻魔大王と鏡子を睨みつけている。それを見て閻魔大王はわざとらしくため息を吐いた。


「分からないか。今日のところは見逃してやると言っているんだ。次に余の妻に傷をつけようとしてみろ。その時は泰山王といえど、加減はしない」


 泰山王はその言葉により一層鏡子を睨みつける。そしてゆっくりと口を開いた。


「閻魔大王が選んだ妻だからな。これからに多少期待していたが、残念だ」

「……」

「こんなにも自分の決断に責任をもてないやつとはな」


 !


 鏡子はハッとして顔を上げ泰山王に目を向ける。だが目に映ったのは泰山王の背中だけだった。

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