メレディアの笑顔


『答えはよく考えてから、考えがまとまってから教えてちょうだい。それまで私が命懸けで助けた命、なくさないでね?』


 そうメモに書いてからレイを解放した──その翌日だった。

 私の元へレイが訪ねてきたのは。

 少しばかり緊張した面持ちで、でももう生気の感じられない瞳なんかじゃない。

 きちんと光は宿り、色を映し出している。


『奥様、俺の世界を、広げてください』

 そう一言書かれたメモを手渡された私は、もう一度視線を目の前のキュッと口を引き結んだままの少年に移すと、言葉の代わりにできる限り頬を緩め、そして頷いた。


「さて……。なら早速今日から一緒に、お勉強しましょう」


 ──私が彼に用意した世界。

 それは指導員だ。

 この世界にも彼のように耳が聞こえない人は一定数存在する。

 そしてそんな人たちは、文字が書ける人は基本文字でやりとりをしているけれど、紙だって有限だしお金がかかる。平民にとってそれは結構な出費にもなり、それ故にやり取りを躊躇う者だっている。

 出費を賄うために必死で働く家族もいるし、そんな人たちは大体文字を教える余裕すらない。 

 だからこそ、私は手話を広めようと考えたのだ。


 まずは文字のわかるレイに手話を教え込んで、そこからお勉強会みたいな形で数人を集めて、少しずつじわじわと手話を広めていく。

 平民の中には文字の読み書きができない人もいるから、根気強く、ね。

 これが広まることで、紙の使用率はぐんと下がるはずだ。

 そちらへの出費を減らせれば余裕も生まれるだろうし、文字や手話の交流手段を覚えれば、自ら人との交流もしやすくなる。

 就業率だってきっと上がるはずだし、何より彼らの人生に色が溢れることだろう。


『すごいわレイ、もうこんなに覚えたのね』

 レイは若いからか物覚えが良く、1日でたくさんの手話を覚えた。

 元々字を書くことはできるから、その分教えやすい。

 あぁでも、彼のご両親……えっと愛人様と、旦那様? にもお話をしなければ。

 旦那様が帰ってきたら、一応勝手なことをした謝罪と報告をしておこう。

 契約違反とかで追い出されでもしたら困るもの。

 私は静かなるスローライフを求めているんだから。


『レイ、あなたの世界はこれからもっと広がっていくわ。楽しみましょう、この世界を』

 病弱だった前世の私にはできなかったけれど、健康なレイならばもっと、この先の未来が待っているわ。

 私はそう書いた紙をレイに渡すと、彼はライトブラウンの瞳を大きく瞬かせ、笑顔で何かを書いてから、また私に手渡した。


『奥様、笑ってる顔の方が良いよ』


 そう指摘されて初めて、自分の今の顔の状態を知った。


 私、笑ってるの?

 そういえば心なしか力が抜けてるように感じる。

 こんなの、どれくらいぶりだろう?

 物心ついてからは初めてなんじゃないかしら。

 ここではもう、力を抜いて良いんだ……。


 だって、静かに暮らせと言われているんだもの。

 もう無理に社交界に出て笑い者にならなくていい。

 もう妹や父母、使用人に畏怖されなくていい。

 もう、私は私でいて良いんだ。

 そっか……。

 なんだ。


 そう考えて初めて、全身の力が抜けていくような気がした。


 この日私は、転生して初めて、力を抜いて息ができた。

 そんな気がした──。

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