第21話

 そろそろ終わったかな?

 ルシフェルは美奈子の部屋のドアをノックした。


「うん……そうなんだ」

 ノックの返事がないので、そっとドアを開くと、美奈子は携帯で誰かと話し中だ。

 悪いと思ったルシフェルがドアを閉めようとすると、美奈子は手招きでルシフェルを部屋の中へ案内する。

 ルシフェルは無言でベッドに腰を下ろした。

「わかった。ありがとう」

 携帯を切った美奈子がルシフェルに振り返った。

「ごめんなさい。未亜にちょっと話があったんで」

「未亜ちゃんに?」

「うん。このね?」

 美奈子がルシフェルに見せたのは、メールの通話記録。

 メールにはこう書かれていた。


 >綾乃ちゃんへ。

 >今日はびっくりするようなことがあったよ?

 >写真の子わかる?

 >今、水瀬君の家に厄介になっているんだけど、とっても大切な

 

「このメール打ってる最中に、事件が起きて、未亜ったら、思わず途中で送信したまま忘れていたんだって。だから、瀬戸さんへ届いた未亜からのメールはこれで全部」

「写真の子って?」

「今、転送してもらった。この子」

 美奈子はパソコン上のブラウザをルシフェルに見せる。

 そこに映し出されているのは、那由他だ。

「ふぅん?」

 別に何の変哲もない。

 せいぜい、横に水瀬が映っているだけ。

「これが?」

「これが、すべての引き金なのよ」

「えっ?」

 ルシフェルには、美奈子の言葉の意味がわからない。

 ただの写真が、何だというんだ?

「ルシフェルさん。この写真―――少し目線を変えて、もう一度見て」

「えっ?」

「これを、あの嫉妬深い瀬戸さんの目で見たらどうなる?」

「……」

 成る程。

 恐らく、いや、間違いなく、瀬戸さんの目には、この写真はツーショットになる。

 つまり―――


「瀬戸さんは、この写真を見てプッツンした」

 美奈子は言った。

「このメール、開封確認がついていてね?瀬戸さんがメールを開いたのがこの時間」

 美奈子が指さすのは、ブラウザ上に表示された開封確認メールに書かれた時間。

「で、瀬戸さんの足取りが一時的に途絶えるのがこの時間」

 それは、開封確認メールの時間から1時間と経っていない。

「瀬戸さんがいつもの調子でプッツンして、この写真の人を捜しに出たとしたら、説明はつかない?」

「それは」

「しかも、瀬戸さんは決定的な嘘をルシフェルさんの前で言ってる」

「私の?」

「そう―――気づかない?」

 ルシフェルは、ここ数日の間で交わした会話を思い出そうとして、結局やめた。

「あのね?ここ」

 美奈子がルシフェルに示すのは、書類―――ルシフェルの任務中の会話記録だ。


  >私、何かあれば、何をおいても私の元へ駆けつけろと躾たつもりでした。

  >未亜ちゃんから聞きました。那由他ちゃんが襲われたって。

  >そんな大事件が間近で起きていながら、妻である私には一言もなしなんて。


「ほらね?」

 美奈子はそう言うが、何が言いたいのかルシフェルには全くわからない。

 録音時間120時間、録音を止めることが出来ず、生徒達からは「プライバシーの侵害」と嫌われるレコーダーの中身がなんだというんだ?

「え?ただ、来てくれないって水瀬君をなじって、那由他ちゃんが危険になったって、それだけじゃないの?」

「それがね?」

 美奈子は、今度は綾乃の通話記録をルシフェルに見せた。

「瀬戸さんの最後の通話記録は、電話とメール、共に未亜からのメール受信が最後なのよ」

「う、うん」

「それなのに、瀬戸さんは言ってるでしょう?


 >何かあった。

 >未亜ちゃんから聞きました。

 >那由他。

 >大事件が間近で起こった。


 ……いい?瀬戸さんは、こんなこと、未亜からも、ううん。誰からも聞いていないのよ」


「……あっ!」

 ようやく、ルシフェルも理解が追いついた。

 美奈子が問題としているのは、綾乃が知っているということは、誰からも通話を通して告げられていない。

 つまり、知るはずがないことを、綾乃が知っていることなのだ。


 美奈子は続けた。

「瀬戸さんは、絶対に那由他さん襲撃の現場に居合わせた。そして襲撃者を殺害し、あろうことか那由他さんを誘拐までした。那由他っていう女の子がエーテル嗅がされたのは、ルシフェルさんも知っているでしょう?」

「じゃ、あのロープで縛られたのも」

「そんなことまでされていたの?うん。間違いなく瀬戸さんの仕業だと思う。水瀬君に対する拷問のことを考えれば」

「よく殺さずにいなかったわね」

「そう。そこなんだけどね?この那由他って子は―――あっ。未亜からだ」

 美奈子は手慣れた様子でブラウザを動かし、新着メールを開いた。

「瀬戸さんがデビュー直前の研修生時代、仲の良かった子なんだって」

 美奈子がルシフェルに見せたのは瀬戸綾乃と霧島那由他の経歴の対比表だ。

「ほらね?同期で歌手養成所アーカムハウスに入所。まぁ、霧島那由他って子は、親の命令で歌唱力の勉強で入ったって方が正しいみたいだけど」

「……つまり、瀬戸さんは」

「会話の記録にもあったけど、霧島那由他って名前、恐らく本人から直接聞きだしたんでしょうね。それで瀬戸さんは慌てた。かつての友達なんですもの。で、どこから入手したかは知らないけど、エーテルを嗅がせて公園に連れ帰って、博雅君に発見させた」

「博雅君も一枚噛んでいると?」

「それはない」

 美奈子はあっさりと否定した。

「だって、ルシフェルさんが知らないんでしょう?」

「う、うん」

「こういう事件、しかも、ルシフェルさんも関わっている以上、あの博雅君がそんな情報をルシフェルさんに告げないなんておかしいわ?」

「そ、そうかな」

「そう。もし、瀬戸さんから徹底的に念を押されて、誰にも言わないって約束してたら話は別だけど……博雅君、ものすごい律儀だから、約束は守る主義だし。まぁ、どっちにしても、問題はそこじゃない」

 美奈子はそう言ってルシフェルに向き直った。

 その目は、真剣そのものだ。

「問題は、公園で博雅君が発見したモノ。私は偶然だと思う。でもね?もし、博雅君がこれまで知っていたら大変だよ?」

「えっ?」

「那由他って子、そしてこれ。第一発見者は両方とも博雅君。警察には届けていないけどね」

「な、何を?」

「失血死するほどの量の血痕」

「血痕?」

「そう。公園のベンチの近くで発見されたんだって。で、その近くに那由他って子が行方不明になった時履いていたサンダルの片っ方が転がっていた」

「……つ、つまり」

「そう。瀬戸さんがプッツンした時の危険性はわかっているでしょう?あの勢いで、誰か殺してるって……私はそう見ている」

「ま、まさか」

 美奈子は、事態が最悪の方向に向かっていることを告げている。

「そう。そのまさか」

 美奈子は大きくため息をついてから言った。

「今では血糊は雨で流れてしまったせいで物的証拠はない。犠牲者が誰かもわからない。現場に居合わせて、そして誘拐されたとおぼしき那由他って子も、記憶を無くしている。その時、瀬戸さんがその場にいて、何かしたとしても、それを証明するモノが何も残っていない。―――まとめれば、瀬戸さんが人を殺したと断定することは出来ない」

「……」

 ルシフェルには返す言葉がなかった。

 瀬戸綾乃は、確かに水瀬絡みでカッとなると何をしでかすかわからない。

 それは経験からわかる。

 その子が遂に、他人に手をかけた?

 今までなかったのが不思議といえば不思議だけど―――信じられない。

「な、何かの間違い、だよね?」

 そう言うのがやっとだ。

「そう思いたい」

 美奈子も思い詰めたような表情で答える。

「でも、瀬戸さんがあの晩、行方をくらませていること。そして、事件の当事者しか知らないことを喋っている。それが何を意味するか」

「……」

「それとね?」

「う、うん」


 ピーピーピー


 不意に、ルシフェルの携帯が鳴った。

 未亜からのメールだ。


 タイトルは、

 『緊急!美奈子ちゃんのいないところで開いて!』

 

「ち、ちょっとゴメンね?」

 ルシフェルは部屋を出てメールを開く。

 

 そこには短く、

『ルシフェちゃんへ。

 大変なこと忘れてたよ!お願いだから、村上先輩のことは美奈子ちゃんに言わないで! 絶対だよ!? ワケは後で話すから、それまではNGね!? 

                            未亜より』


 ルシフェルは青い顔のままで部屋に戻った。

「お仕事?」

「う、うん。似たようなもの。それで?」

「これからは全部私の推論。それは理解してね?でも、話す前に、ルシフェルさんが知ってる範囲でいい。教えて欲しいのよ」

 美奈子は、ルシフェルをじっと見ながら訊ねた。

 まるでウソ発見器にかけられたような居心地の悪さを感じつつ、ルシフェルは答えた。

「答えられる範囲で」

「まず第一。敵に心当たりは?」

「そ、それは―――」

「妖魔?魔族?」

「……」

「ルシフェルさん?」

 美奈子の声のトーンが落ちた。

「こういう時、依頼人は隠し事しない。これ鉄則」

「あ、あのね?」

「ルシフェルさんが近衛騎士だなんて先刻ご承知のこと。いい?私は、ルシフェルさんを助けてあげるために言ってるの―――言葉の意味、正しく理解して」

「……」

 結局。

 ルシフェルは思った。

 機密漏洩って、こういう時に発生するんだろうな。

「他言無用っていうか―――獄族って、知ってる?」

「獄族?」

 美奈子はしばらく考えた後、言った。

「あのドンサーニ卿の?」

「―――へっ?」

「18世紀アイルランドのファンタジー小説家よ。短編小説っていうより寓話が多いんだけど、その彼が書いた作品の中に、死に神を取り扱ったお話があって、私結構好きだから覚えてるんだけど、原文で“Death Tribal”邦訳で“獄族”ってのが登場するの。多分、地獄に住む種族って意味だろうけど、私は“死の種族”とでも訳す方が正しい気がする」

「それ―――どんなお話?」

「うろ覚えだけど、えっとね?」


 美奈子が語ったのは、こんな話だ。


 ある所に、一人の金持ちの男がいた。

 男は、死ぬことを何より恐れていた。

 だから、彼は願った。

 死にたくない。

 どうか私を死なさないでくれ。

 ところが、神様も悪魔も彼の願いを聞き入れようとはしなかった。

 “死は私達にはどうしようもないことだ”

 神も悪魔も、そう言うのだ。

 “なら、どうすればいい?”

 神と悪魔は答えた。

 “死に神のみが知る”

 死に神さえ、どうにかすれば、死なずに済む。

 そう思った男は、苦心惨憺して、死に神を退治する方法を手に入れた。

 その方法は一度しか効かない。

 でも、死に神は一人。

 なら大丈夫!

 そう思っていたら、ある夜、本当に死に神が男の元に現れた。

 出迎えた男は、相手が死に神だと知ると、その方法で本当に死に神を退治した。

 “これで死なずに済む!”

 小躍りして喜ぶ男の前でドアがノックされた。

 訝しがりながら開いたドアの向こう。

 そこには、無数の死に神達が立ちつくしていた。

 “お前達は何だ!?”

 驚く男に、彼らは告げた。

 “我らは死に神だ”

 “死に神は一人のはずだ!”

 “我らは“獄族”一人などではあるものか”

 その夜から、男を見た者はいない。


「―――まぁ、死に神から逃れる方法は、結局の所、ないってことだろうけど」

「その死に神―――獄族が、今回の敵なんだよ」

「……へ?」

「死に神が単独の存在じゃなくて、種族だっていうのは正解。ドンサーニ卿って人がどこからそれを知ったのかはわかんないけど」

「オカルティストというより、地方の伝承に見識が深い人だったらしいわよ?―――まぁ、ともかく、死に神が相手って……下手な妖魔や魔族より厄介ってことじゃない?」

「そうなる」

「とすれば、……この霧島那由他も、そんな獄族絡みの事件に巻き込まれているの?それとも、一年前の事件は、そういう事件だったの?」

「えっ?」

「ほら、この前、未亜のマンションから飛び降り自殺があって、死体が消えたって話あったでしょう?テレビで言っていたけど、同じ頃、未亜のマンションの周辺で銃声がしたって」

「銃声?」

「うん。警察はね?車の騒音を聞き違えたもので、事件とは直接関係はないって発表したらしいけど」

「う、うん」

「本当に銃声だとしたら?」

 美奈子の目は真剣そのものだ。

「撃ったのは恐らく南雲先生のはず。それに、未亜の御婆様はアーカムハウスの経営者だし、事件のあった一年前といえば、未亜がアーカムハウスに頻繁に出入りしていた頃だから、那由他って子とは顔見知りだったと思う。

 その後の経緯を考えると、彼女達が未亜のマンションにいた可能性は高い。

 ううん。いた。そう断定出来る。

 じゃあ、銃声は何?

 未亜とケンカでもした?

 それとも暴発事故?

 違う。

 ―――那由他って子を護るためだったとしたら?

 南雲先生は騎士。

 その騎士が剣を使わず、銃を使った?

 私が思うに、撃ったのには理由がある。

 理由?

 撃たざるを得なかった。

 それが理由。

 何故?

 相手が、普通の剣が効かない相手だったから。

 違うかしら?

 そして、犯人は逃げだし、あの事件が起きた」

 

 ルシフェルは沈黙しながら美奈子の言葉を待った。

 まるで見てきたように言う美奈子の言葉は、すべて推論として語られているはず。

 それが、何一つ外れていない。

 美奈子の洞察力に、ルシフェルは背筋が寒くなる思いがした。


「そういう相手―――獄族に、霧島那由他という子は追われている。未亜と南雲先生は彼女を保護して、水瀬君の家に連れて行った。―――ねぇ、ルシフェルさん」

「な、何?」

「この犯人って、水瀬君の家には出ているの?」

「あ、あのね?」

「もう、水瀬君の家からまで逃げた?」

「う……うん」

ルシフェルは頷いた。

「敵に包囲されて、そのどさくさの中で」

「そう……確かめようがなくなっちゃったなぁ」

「えっ?」

「こっちのこと。―――で、犯人は、霧島那由他をつけねらう。ところが、それを横取りする相手が出た」

「それが、南雲先生であり―――瀬戸さんでもある」

「そういうこと」

「じゃあ!」

 ルシフェルにもその言葉の意味がわかる。

「犯人が単独犯とは限らない……ううん。未亜ちゃん達の行動、南雲先生の判断から推測すると、犯人は人間ですらない。これまでの情報から犯人像を導き出せば、瀬戸さんが殺した……それすら間違いかもしれない」

「ま、間違い?」

「そう。瀬戸さんは相手を人間だと思って……まぁ、瀬戸さんのことだから、人間も妖魔もへったくれもない。自分に立ちふさがれば全部イコールで敵。なんでしょうけど。とにかく、瀬戸さんはその犯人を―――殺した。

 公園でね。

 理由?

 犯人が霧島那由他を殺そうとしたところで、ようやく瀬戸さんが彼女を発見したんでしょうね。

 そして、犯人からすれば、瀬戸さんは犯行を阻害した、いわば敵になった。

 その敵が、瀬戸さん達を放置するかどうかが今後の瀬戸さんの、そして南雲先生の命運を分ける。

 ある種の暗殺組織は、任務遂行を邪魔立てした者は、たとえ暗殺対象でなくても殺すんですって。その理屈で来られたら?」


「!!」

 ルシフェルは腰を上げた。

「あくまで私の考えだけど……もしそうだと思うなら、急いだ方がいいかもしれない」

 その彼女に、美奈子は言った。

「犯人は、絶対に報復してくるわ。マンションで犯行を邪魔した南雲先生。公園で邪魔した瀬戸さん。さっき、ルシフェルさんが言っていたのが霧島那由他狙いだとすれば、犯人は、何一つ諦めていない」

 美奈子は自嘲気味な笑みを浮かべながら、ルシフェルに言った。

「私がバカ言っているでいい。

 徒労なら御の字。

 でも、友達だから護ってあげてほしいの。

 水瀬君にも連絡してあげて。

 ―――このままなら、瀬戸さんが殺されるって」

 



「遅いっ!」

 騎士団長執務室に入った水瀬に浴びせられた樟葉の一言。

 いつものことだ。と、首をすくめた水瀬は内心でため息をついた。

 樟葉はただ、黙って水瀬の顔をじっとみつめる。

「……」

「あの?樟葉さん?」

 樟葉は重い声で水瀬に訊ねた。

「昨日、お前……誰と何をしたか、わかってるのか?」

「―――へっ?」

 その重声は、重々しく、また、悲しげに聞こえる。

 水瀬が樟葉のそんな声を聞いたのはこれで三度目。

 第六次倉木山会戦。

 祷子の近衛追放。

 そして、今回。

「樟葉さん?」

 樟葉は水瀬にとっては姉の存在。

 そう、教わってきたし、常にそういう関係で接してきた。

 水瀬にとっては身内。

 大切な姉。

 自慢の姉。

 怒ると怖いが、怒られることさえ嬉しくなる位、かけがえのない存在なのだ。


 その樟葉が、何か自分のことで思い詰めている。


「どうしたの?」

 水瀬は、何故、樟葉がそんな声をしているのかわからない。

「昨晩、宮殿の控え室で何をしていた?」

「あっ……あの」

「祷子でさえ大目に見てやれる限界を超えていたというのに……!!」

 樟葉は頭を抱えて机に突っ伏してしまった。

「殿下も、ここまで男を見る目がなかったとは……」

 グスッ。

 水瀬は、樟葉が鼻をすすった音を確かに聞いた。

「こんなチビで童顔で、精神年齢三歳児の人格破綻者のドコがいいというんだ?」

「あのぉ……もしもし?」

「あれほど聡明にして、私が命を捧げても惜しくない程の、まさに現代の龍の子というべき傑出されたお方が」

「樟葉さぁん」

「こんな、こんなバカ息子の一体、どこが」

 樟葉は泣き出していた。

 珍しく、樟葉が情緒不安定になっているのは明らかだ。

「こ、こんな問題児のどこが……」

「樟葉さぁん……あのぉ。お話が全く見えないんですけどぉ」

「見えてたまるか!」

 バァン!

 マホガニー製の何十キロ、いや、下手すれば百キロ単位の重厚な執務机でちゃぶ台返しをやってのけた樟葉は、水瀬の両肩を力任せに掴み、遠心分離器顔負けのスピードで水瀬を揺すった。

「総女官長の九条殿から直々に私の耳に入ったことだ!昨晩、お前は控え室で殿下と二人っきりだったんだろう!?」

「なっ!?だ、誰か、見ていたんですか!?」

「知るかッ!貴様ぁ……殿下に手を出してはいないだろうなぁ?」

 刀を振りかざしてそう叫ぶ樟葉の迫力は半端ではない。

「し、してませんっ!」

 その迫力に水瀬は思わず腰を抜かした。

「き、キスだけです!」

「それだけで万死に値するわっ!」

「だけど、僕は!」

 血走った目で水瀬を睨み付け、刀を振り下ろす一歩手前の樟葉だが、

 ドスッ!

 不意に二尺五寸の魔法刀を水瀬の股間にあたる床に突き刺し、そのまま力つきたようにしゃがんでしまった。

「樟葉さん?」

 刀の柄に手を伸ばしたまま、俯く樟葉の表情が、水瀬には見えない。

「あの……?」

「おい。バカ息子……」

 かすれたような、悲しげな声が小さく水瀬の耳に届いた。

「はい」

「頼むから」

 水瀬は、その声色を聞いたことがある。

 一年戦争の時、何度も聞いた声。

 それは、樟葉が自分の姉として何かを諭す時の声。

 決して、無駄にしてはいけない、貴重な言葉。

 水瀬は思わず正座して言葉を待った。

「……もう少し、楽な相手と恋愛してくれ」

「樟葉さん?」

「どうしてお前は毎度毎度……」

「……」

「……」

 ガンッ!

 しばしの沈黙の後、樟葉の拳が水瀬の脳天に炸裂した。

「痛ぁいっ!」

「うるさいっ!―――あーっ。すっきりした!」

「僕は全然納得出来ませんっ!」

「私がすっきりすればそれでいいんだよ!」

 樟葉は執務机を戻しながら水瀬に言った。

「それと、だ」

「はい?」

「昨日の敵の件だ」

「はい」

「女官達監視下にあった死体が、女官達の目の前で消えた。煙のように……人間が気化した。女官達はそう報告して来たそうだが?」

「間違いないでしょう」

 水瀬は答えた。

「吸血鬼の特殊能力に近いものと思われます」

「何者かが、獄族を殿下暗殺のために送り込んできた……そう見ていいな?」

「問題はそこです」

 水瀬は答えた。

「その、敵が見えないんです」

「見えない?」

「はい」


 水瀬の言い分はこうだ。

 ・女官の証言から、犯人は南雲達を襲った者と同一人物と判断できる。

 ・しかし、敵の狙いは霧島那由他と村上速人のはず。

 ・それなのに、南雲を襲い、日菜子殿下をも襲った。

 ・その行動に統一性が見えない。

 ・突飛な発想をとれば、南雲襲撃は、敵の行動を阻害した者への報復……そう見ることは出来るが、日菜子殿下襲撃が、それでは説明できない。

 ・日菜子殿下を狙わなければならない、狙うに値する、何かきっかけがなければならないはずなのに、それが、どうしても見えない。

 

「……」

 樟葉にも、それが説明出来るはずがない。

 水瀬は首を傾げながら続けた。

「日菜子殿下が、南雲大尉同様に、敵の行動を阻止したとでも言えば話は別でしょうけど。そんなはずあるわけないし」

「……」

「それと。殿下はこう仰せでした。“瀬戸綾乃の行動を洗え”と」

「それは現在、警察とルシフェルがやっている」

「ルシフェが?」

「ああ。薬物を盛られる失態を犯した以上、その程度はやってもらう」

「薬物?」

「聞いていないか?」

「はい」

「魔法薬だ。毒物防御薬をすり抜けた、かなり特殊な代物だと報告が出ている」

「ルシフェ、どこでやられたんです?」

「瀬戸綾乃の警護中だ。それと、お前も情報交換の必要があるだろうと思って、ここに呼びつけてある」


「失礼いたします」

 しばらくの後、一礼して入ってきたのは、ルシフェルだ。

「ルシフェ。薬を盛られたそうだけど」

「うん……その件ですぐに水瀬君に伝えたいことが」

「何?」

「さっき、この件、美奈子ちゃんに相談したのよ」

「桜井さんに?」


 ルシフェルは水瀬に告げた。

 今回の事件に関する桜井美奈子の見解は以下の通り。

 ・瀬戸綾乃は、霧島那由他を水瀬の浮気相手と誤認、その排除に動いた。

 ・瀬戸綾乃は、霧島那由他誘拐の際、霧島那由他を殺傷しようとした存在と接触、恐らくはその存在を殺傷、もしくは殺傷に近い損害を与えている。

 ・瀬戸綾乃は、誘拐成功の時点まで、誘拐した対象を霧島那由他と自覚していなかった。

 ・相手が霧島那由他と認識したため、瀬戸綾乃は霧島那由他を解放した。

 ・南雲先生及び霧島那由他達襲撃を考えると、対象は瀬戸綾乃へも同様の襲撃を企てる恐れは大である。

 ・早急に、瀬戸綾乃警護の必要がある。


「成る程」

 感心したように頷くのは樟葉だ。

「そこまでの状況分析能力か……いっそ、欲しい人材だな」

「本人はアナウンサー希望と」

「就職した途端に敵に回りそうな相手か……厄介だな」

「とにかく、樟葉さん」

 ルシフェルは言った。

「早急に、瀬戸綾乃の警護が必要です。許可を願います」


「必要ない」


「えっ?」

 ルシフェルは耳を疑った。


「必要ないよ」


 そう、聞こえたからだ。

 しかも、その声は、樟葉の声ではない。

 水瀬の声。

 瀬戸綾乃の恋人の声。

 そんな存在から出てきた声。


 それが、信じられない。


「水瀬君?」

 ルシフェルは訊ねた。

「今、なんて?」


「だから」

 水瀬は平然とした顔で言った。

「必要ないって言ったの」

 

 次の瞬間、


 パンッ!


 乾いた音が執務室に響き渡った。


 ルシフェルが水瀬の頬を打った音だ。


「み、水瀬君……」

 怒りに震えるルシフェルは、腰の刀に手を伸ばしながら怒鳴った。

「こ、恋人でしょう!?それなのに……それなのに!」

「だからぁ!」

 水瀬は怒鳴った。

「敵が瀬戸さんを襲う可能性は、もうないだろうって言ったの!」

「どうして!?」

 ルシフェルはその言葉を頭から否定した。

「南雲大尉は二回も襲われているんだよ!?那由他ちゃん達だって、何度も何度も!」

「いたたっ……これではっきりしましたよ」

 水瀬は頬を押さえながら樟葉に向き直って言った。

「殿下が襲われたカラクリが」

「どういうことだ?」

 樟葉は椅子から腰を浮かせて水瀬の言葉を待った。

「あくまで仮説ですけど」

 水瀬は、そう断りを入れた上で続けた。

「敵は、すでに綾乃ちゃんを襲ったんです」

「瀬戸さんを!?」

「で、瀬戸さんというか、“彼女”はそれを退けた。どうやって?全く無関係のアカの他人の名を、相手に突きつけたんです。こいつに命じられたんだって」

 水瀬はそう言って、携帯電話のメールを開いた。

「ルシフェ、最近、綾乃ちゃんが僕絡みでプッツンするようなこと、なかった?」

「え?う、うん。あの、瀬戸さんが日菜子殿下と水瀬君の―――!!」

 驚愕のあまり、ルシフェルの目が見開かれた。

「やっぱりばれちゃってたかぁ……」

 水瀬は、どうでもいいという顔で言った。

「多分、私ではなく、悪いのは日菜子殿下だ。とか何とか言ったんじゃないかな。敵はそれに納得して、そして殿下を襲うためにここへ移動した」

「……おのれぇ!」

 目が血走った樟葉の手が刀の鯉口を切る。

「己の非を殿下に転嫁させるとは何事か……!!」

「綾乃ちゃんの敵から逃げられるし、自分の手を汚さずに敵を排除できるんだから一石二鳥―――よく考えたと思いますよ?あのお姫様も」

「お姫様?」

「誰のこと?」

「あっ……な、なんでもない!言葉のアヤ!!」

 樟葉とルシフェルの怪訝そうな視線に晒される水瀬は、焦った様子で言った。

「とにかく、日菜子殿下はそれがわかっています。だから僕に綾乃ちゃんの行動を洗うように指示を出したんです」

「……殺傷命令は出ていなかったのか?」

「それはまだです」

「水瀬君っ!」

「それより、えっと……試したいことがあるんです」

「何だ?」

「殿下を囮にしたいんですけど」


 チャカッ

 チャッ


 女性騎士として世界最高峰の二人が刀を抜いた。

 普通なら、絶対に居合わせたくない空間に立たされた水瀬だが、

「このままでは、殿下が危険です」

 水瀬は平然として言う。

「―――囮にするのは危険ではない。とでもいうつもりか?」

 その樟葉の言葉はもっともだが、

「公務の際に襲われるリスクを考えれば、安いです」

 水瀬は冷たく言い返した。

「殿下が公務の席で襲われることでもたらされる国内外の影響を考えてください。ただでさえ殿下を巡っては、皇位継承問題が絡んで複雑なんですから」


「……」


 いわれなくてもわかってはいる。


 一体、私を誰だと思っているんだ?と、樟葉は内心で舌打ちした。


「事はすべて闇の中にて処理されるべきです」

「……わかった。で?何をどうするんだ?」

「お姫様……じゃない、瀬戸さんの策を使うんです」

「瀬戸さんの?」

「そう。ルシフェ。お前の敵が日菜子殿下というのはウソだ。お前はダマされている。本当はコイツだって言うの」

「待て」

 樟葉が水瀬の言葉を止めた。

「言いたいことはわかった。だが、その恨みを買う者の危険性を考えると」

「ここでくじ引きでもやります?」

「適任者は?」

「死んでも誰の迷惑にもならない。むしろ感謝される相手」

「政治屋と官僚全員指名してやろうか?」

「それはそれでリストアップしておいて下さい―――日菜子殿下の敵になりそうな連中」

「近衛の敵対者リストは手配しておこう―――それで?お前は誰のことだと言いたいんだ?」

 水瀬は無言で指を指した相手。

 それは、


 グキッ!


 鈍い音がして、指の方向が変わった。


「成る程?」

 樟葉は納得。という顔で頷いた。

「バカ息子、自分の価値を的確に判断するのはいいことだ。褒めてやる」

 本来、指さされた相手―――樟葉はそういうと、さっさと執務室から出ていってしまった。

「ヒドイよルシフェ!」

「そんなの、自分でやらなくちゃダメ!」

 その背後で子供達の口論が聞こえてきたが、もう樟葉の知ったことではない。


 樟葉の背後でドアが閉まった。


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